先日は「言葉」の話で終わってしまったので、他の章の感想を。

全11講、どこを取っても面白いのですけど、まずはやはり第1講「教育論の落とし穴」。

いわゆる「教育改革論議」が不毛なのはなぜか、っていうお話です。

「ゆとり教育」のゆりもどしで、今年から「新学習指導要領移行措置」というものが取られて、うちの息子も「合同な図形」とか習っていますけど。

古い学習指導要領で習った子どもと、新しい学習指導要領で習った子の「差」はどうするんだろう、という気がする。何年間か、ある項目を習わずに大きくなっていく子がいて、その子が小学生・中学生だった時は「それでOK」だったのに、後から「やっぱり習っとかなきゃダメですよ」と言われる。

後から言われても、その子たちはもうどうしようもない。

子どもの成長は、止めることも後戻りすることもできない。「遡って適用する」とか、「改革を実現する間一時停止しておく」とかいうことは無理な話で、「改革しながらもとりあえず今ここではできうる限り最善の方法でやっていくしかない」。

こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない、という議論が出て、それを法律化して予算をつけて変更・実施していくまでの間にも、子どもはどんどん小学校に入学し、卒業し、上の学校へと進んでいく。

「今の制度はダメだから」と言っても、「良くなるまでちょっと学校行くの待っててくれる?」ってわけにはいかないのだ。

これは、今現在義務教育を受けている子どもを持つ親としてはホントに切実で、「そんなごちゃごちゃ言ってる間にうちの子もう卒業しちゃうやん」って、いつも思う。

校舎が古くて汚くて耐震的に問題があっても、やたらに学級崩壊が起こってても、とりあえず子どもはその学校に行くしかなくて、今現在そこにある資源をどうにかやりくりして、今現在そこにいる教師の皆さんにがんばってもらうほかはない。

ねぇ。

親としては「担任に当たったはずれた」とか、ついつい言いたくなるんだけど、「はずれた」と文句言って「1年学校に行かないで次、いい先生に当たるのを待つ」ってわけにはいかないんだもの。

教育改革の成否は、教育改革を担うべき現場の教員たちをどうやってオーバーアチーブへと導くか、彼らのポテンシャルをどうやって最大化するかにかかっています。(P20)

「はずれた」と思っても、親は文句ばかり言わず先生の支援をする――しかないのかなぁ。


第5講「コミュニケーションの教育」。これもまた、深いです。

私が大学に行っていた時は、1年2年は「教養課程」、3年と4年が「専門課程」というふうになっていました。文学部だったけど、1・2年の間は「生物科学」とか理系の講義も受けて、体育の授業まで受けて(まさか大学まで行って水泳の試験があるとは思わなかった)、3年生になってやっと学科に分かれ、いわゆる「ゼミ」に参加する。

広く浅く、「雑学」好きの私には、むしろ教養過程の講義の方が楽しかったりしました。イスラム史の講義がなぜか工学部の方にあって、わざわざ聞きに行ったり、インド哲学をかじったり。

私の卒業後、大学から「教養課程」というものが消えて、1年生から即「専門課程」を学ぶことになったそうで、その結果大学生の学力が著しく低下してしまったらしい。

「教養」なんてムダなことに時間とお金を費やしてもしょーがない、と思って削除したけれども、実はそこにはちゃんと意味があった。しかも大変に重要な意味が。

内田センセによると教養教育というのは「コミュニケーション教育」なのだそうです。

実際に大学の教養課程の講義が「コミュニケーションについて」を教えてくれるわけでもないし、「君子の六芸」に上げられた礼儀や音楽や武術を訓練してくれるわけでもないんだけれど、専門に分かれる前に、すべての学生が机を並べて、同じことを学ぶ。他者とコミュニケートするのに必要な、「共通の基盤」を手に入れる。

それが重要なのだと。

なるほどそうだったのかぁ。教養課程があるうちに大学行けてLuckyだったなぁ(笑)。

専門バカにならず、自分の「できないこと」をきちんと理解して、それを「できる人」とコミュニケートし、自分の「できること」とうまく繋げて「1+1=2」以上のことを実現する。

日本の教育プログラムにいちばん欠けているのは、この「他者とコラボレーション」する能力の涵養だと思います。今の日本の教育の問題というのはもしかすると、ぜんぶがこの一つの点に集約されるのかもしれません。(P105)

実際、第8講「いじめの構造」で語られることも、第9講の「反キャリア教育論」で語られることも、根っこは同じだと感じます。

「いじめの構造」。子ども達の砂粒化・モジュール化。他人と「運命共同体」のようなものを形成することに対する強い忌避感(P191)。

「反キャリア教育論」。労働は「協働」である。

「自己決定・自己責任」すること、「個性的であること」への病的なこだわり、「協働」という生き方に対する強い忌避とそれがもたらす「共同的に生きる能力」の不足が若者たちを非正規雇用や劣悪な労働条件に追い込んでいる(P222)

ここのお話は、ホントに面白いです。就職活動をしている学生さんは、絶対読んだ方がいいと思う。面接試験の合否は「会って五秒」で決まるらしいです。合否を分ける判定基準は何だと思いますか?

それは読んでのお楽しみ、にしておきますが、キーワードは「労働とは協働である」ということ。

なんだかそういうことは、本当にもう忘れられ、無視され、排除されているように思いますけどね。

ライン上で機械のように同じ作業だけをくり返す、取り替えのきく「派遣社員」。ぎりぎりまでコストカットをして、利益を上げることを目標とする企業に、「協働」などという文字の入る隙があるのか。

子ども達がモジュール化し、「自分の仕事ではない。そんなことをしたら損をする」と落ちているゴミも拾わないのは、やっぱり社会全体がそういうふうになってしまっているからなんです。

読んでて反省しました。

かつて勤めていた時、「協働」していたかどうか、って。

PTAとか子ども会・自治会の集まりとかに行くと、「協働」の能力があるかどうかっていうの、ほんと重要だと思う。

ああいう役員って、たいていみんなくじ引きなんかで選ばれて、いやいや引き受けてる人でしょう。もちろん中には好きでやってる方もいらっしゃるけど、たいていは「めんどくさいな~。早く終われ~」って思いながら会議や行事の席に連なってる。

それこそ「報酬」なんかないボランティアだし、「そんなもんに精出したら損するだけ」なんだけど。

全員がそういう気持ちでいたら、何にも動かない。何にも回らない。

「あ~ヤだヤだ」って顔をあからさまに見せる人が役員会議の場にいると、ほんと白ける。実際、「ヤだけどやらなきゃ仕方ない」って思って頑張っちゃう人は、「損」だよ。「損」だけど、それをしなかったら、世の中は回っていかない。

共同体を形成する能力、組織を作り上げる能力、他者と協働する能力は子どもたちが最優先で開発すべき人間的資質だった。(P224)

我が身を振り返って、ホントに反省することが多いのだけれど、ちょっとでもそういう大人にならなければいけないなぁ、と思うし、子どもを育てる上でもよくよく肝に銘じておかなければ、と思います。