と、ある朝息子に質問されたのである。
別に、彼が帰宅途中でヤクザにからまれた、というわけではない。マンガを読んでいて、その中に「何言うとんじゃ、われぇ!」というような表現が出てきたようなのだな。

「ああ、それはね、関西の言葉っていうのは日本語の古い形がよく残っててさ――江戸時代になるまでは京都が日本の中心だったわけだから――、だから相手のことを『われ』とか『おのれ』とかいうのは昔の名残のようなもんらしいんだよ。それで、なんでそう言うかっていうの、読んだことあるんだけど……忘れた。何に書いてあったか調べとくわ」

というわけで、息子が学校から帰ってくるまでの間に調べた。

それは橋本治さんの『ちゃんと話すための敬語の本』であった。
帰ってきた息子に、「ここに書いてあるから読んでごらん」と渡す。その部分を読んで、一応は納得したような息子。
「この本、面白いから最初から全部読んでごらん」とお勧めすると、1時間ぐらいで読了してしまった。
さすが活字中毒者。
橋本治デビューおめでとう♪

というわけで、なんで関西では「われぇ!」とか「おのれ!」(あるいは「おんどれ!」)とか、「自分、何言うてんねん」などと相手に向かって言うのか。

橋本さんのお話によると。

・日本語は「自分」と「他人」の区別をつけない。それがあたりまえだった。「目の前にいる知らない人をさす二人称の代名詞がない」とか、「親しさの度合によって相手の呼び方を変える」というのは、このことと関係している。

・「目の前の他人」をさす時に使われる「自分」をあらわす言葉は、相手を軽蔑したり、怒ったり、罵る時に使われる。それは、日本人が「ただの自分」をあまり大切にしなかったからである。

「ただの自分」を大切にしなかった。→ゆえに「自分をさす言葉」が「人をバカにする言葉」になる。
ということらしい。
相手を尊敬するための人称代名詞は色々あって、じゃあバカにする時はどーゆー代名詞を使おうかと考えた時に、「自分をさす言葉には尊敬が全然入ってないよな」ということになったのか。

考えたら、「われ」とか「おのれ」とか「自分」というのは「独白の時に使う一人称」で、他人との関係抜きで「自分をさす言葉」である。
他人との関係が入る一人称っていうのは、「それがし」とか「拙者」とか……まぁ、そんなん武士しか使わへんやろけど、「拙者ぁ!」と言って怒ることはないでしょ。いや、これは関東の言葉だからか?
でも「俺ぇ!」とは怒らへんし。
江戸時代以前の一人称代名詞のバリエーション、わからへんけど……「麿(まろ)」!? お公家さんが「麿ぉ!」言うて怒ってたらびっくりしまんな(笑)。

橋本さんは、(おそらくは関西弁をよく知らない読者のために)「おのれぇ!」というのは「てめぇ!」というのと同じこと、と説明しておられますが。
「てめぇ!」っていうのも、もともとは「てまえ」ってことでしょ?
「手前ども」って言ったら、「自分」のことよね。

新解さんには人称代名詞としての「手前」の意味として、
①自分自身を謙遜して言う語。
②目下の相手を指す語で、ぞんざいな言い方。
③その人自身。(例:「手前のことを棚に上げて、よくもそんなことが――」)

やっぱり「手前」も「自分」=「他人」の言葉なのだ。

そして、「手前」というのはそもそも「場所」をあらわす言葉。「おまえ」も「御前」。その人本人ではなくて、その人の「前」をさす言葉。「あなた」も「彼方」ですね。「あっちの方」ってこと。
人間そのものをささないで、「場所」をさす。
「殿様」も、「御殿」に住んでるからこその「殿様」です。

日本には「言霊思想」っていうのがあって、「人を名指さない」という伝統がある。
『源氏物語』なんかでも、「最高敬語が使ってあるからこれは帝のこと」という感じで、「誰」ということが明示されない。「紫式部」も「清少納言」も、本当の名前じゃない。「式部」や「少納言」は役職の名前です。
本当の名前を口にするのははばかられるので、「前の右大臣」のように、役職で呼ぶ。人事異動がしょっちゅうあったら誰が誰かわからへんよーになるやん、と思うけど、今でも日本の会社じゃ普通に「課長!」ですむし。
学校なんか、全部「先生!」でいいし。

『雪国』の「駅長さぁん!」というセリフを「Staion Master!」と訳してはいけない、ということが中学か高校の国語の教科書に載っていた。
英語では役職名を呼びかけには使えないのだと。
単に「Hey, Mr.!」みたいになるんだっけ?

日本語は人を名指さない。
よく言われる、「日本語には主語がない」という話も、「誰なのか明示しない」ということと関係があるんだろうな。