2018年4月21日土曜日

『となりのイスラム』/内藤正典



ずっと気になっていたこの本、やっと手に取ることができました。出版は2016年の夏なので、1年半以上「気になっていた」ことになります(^^;)

とても読みやすくわかりやすくてサクサク読めるのに、内容は非常に濃い。

イスラムについては2014年にも内田センセと中田考さんの『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』を読んでいて、「イスラムってそうなんだ」と色々目からうろこが落ちたはずだったんですが。

だいぶまた、分厚いうろこに覆われてしまっていました。

たとえば「ハラール・ビジネスなんて胡散臭い」という話。そういえば『一神教と国家』にも出てきたな……と思いつつ、具体的なことはすっかり忘れていました。

そういうことを商売にするハラール・ビジネスというのは、イスラム教徒ではなくても、実に傲慢なことだと思います。イスラムをよく知らない日本人をおどして金をとっているようなものですから賛成できません。 (P114)

豚を食べてはいけない、酒を飲んではいけない、その他色々と戒律が厳しいように思えるイスラムですが、どこまで守るかは本来個人に任されていて、少なくとも「商売としてお墨付きを与える」、というのは非常に不敬な話なのだそう。

「ハラールかどうかを決められるのは神様だけ」。

だから、食べ物については何が使われているか、どうやって作ったかを「正直に」知らせるだけでいい、と著者はおっしゃいます。調味料としてのお酒が心配でも、

「日本のあれだけ厳しい交通ルールでも、出汁に醤油や酒を使ったうどんを食べたからといって酒気帯び運転にはなりませんから」と言えばいいのです。 (P114)

と。

なるほどなぁ。私、やたらに料理にみりんを使いますけど、だからって子どもが食べられないことはないですもんね。今ググったらみりんのアルコール分って14%程度もあるらしく、wikiにも「イスラム教徒が和食を楽しめるようノンアルコールみりん云々」って記述がありますけど、未成年どころか小さい子どもでもみりんや調味用の日本酒使った料理を平気で食べてるんだから……。

もちろん、それでも私は嫌です、というムスリムの方もいるだろうし、「じゃあまな板をアルコール消毒してもいけないの?」と思うお店の方もいるかもしれませんが、

ちゃんと説明したうえで、これも召し上がるかどうかはみなさんで判断してください、ということです。 (P119)

こちらが判断する必要はないんですよね。ただ、判断するための情報を「正直に」出すだけでいい。

なんか、それって日本人が一番苦手なことのような気もしますが……。あうんの呼吸とか忖度とかで、こっちが勝手に判断して動く。情報はみなまで言わずに「良きにはからえ」……。

勝手に判断するのはダメ、と言われると今度は「じゃあお上が全部細かくルールを決めてくれ」になったりとか……。



この本の副題は「世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代」。

いまや世界の人口の四分の一にあたる一五、六億人がイスラム教徒なのです。近い将来、三人に一人がイスラム教徒になる、とも言われています。 (P4)

ということで、すでに4人に1人はイスラム教徒だそうで、なんというか、そんなにメジャーな人々が、いわゆる西欧先進国からテロリスト扱いというか、「困った人たち」扱いされているのか、と……(ちなみにキリスト教徒は23億人ぐらいだそう)。

『一神教と国家』読んだ時も思ったんですが、私たち一般の日本人がイスラムについて知っていることって非常に少ないし、「西欧の価値観でイスラムを見てしまっている」なぁ、と思います。

表現の自由とか人権とか、本当のところはわかっていない気もするけれど、西洋のものさしで世界を見て、漠然と「イスラムは怖い」とか「遅れている」とか思ってしまっている。

何百人もの犠牲者を出しても、「キリスト教徒が暴力的だから、あんな戦争を起こすんだ」とは言いません。それなのに、イスラム教徒が戦ったり、テロを起こしたりすると「イスラムの暴力」と簡単にまとめてしまうのは、おかしくありませんか? (P5)

……うわぁぁ、すいません……。

なぜイスラムに対しては、ヘイト・スピーチが許されてしまうのでしょう。それは、イスラムという宗教が西欧社会の普遍的な価値である自由や民主主義に反しているという思い込みが、西洋に浸透しすぎているからです。 (P48)

西欧というかキリスト教では中世に「教会」が力を持ちすぎて、そこからの民衆の自由、政治や公権力と「教会」との切り離しということが非常に重要になったわけですが、そもそもイスラムには国家や公の領分から切り離すべき「教会組織」がない。

フランスで、イスラムの女性が日常スカーフ等で頭部を隠すのが禁止になりましたが、あれは「公共の場に宗教を持ちこむな」という、フランス人にとっては大変重要な理念の実現で、しかも女性のみに「肌を見せてはいけない」と言うのは女性の自由を制限する悪習、みたいに思われているようですが、著者いわく。

これは本当にばかげたことなのです。身体の露出を増やしたからそれがどうした、ということにすぎない。しかしそんなことが対立の象徴として使われてしまう。それぐらい水と油なのです。 (P221)

ははははは。

そもそもイスラム教徒にとっての「自由」と、西欧の「自由」はまったく違う。

すごく単純化して言えば、イスラム教徒には、「神から離れて人間が自由になる」という観念も感覚もまったくないからです。 (P42)

でも、だからと言って、イスラムが遅れているとか、間違っているとかいうことは言えない。

西欧の進歩主義をものさしにして、彼らイスラム教徒の人たちの価値観を「遅れた状態」と見なすことだけは、間違ってもやってはいけない。そもそも、イスラム教徒の人たちの価値観が「遅れている」と言えるのでしょうか。 (P217)

弱者への優しさとか、「儲かったからって自分の才能と思うな。神への貸付として喜捨をしろ」という教えとか、デリバティブよりよほどまっとうな「利子」に関する考え方とか、「イスラムの方がむしろ正しいのでは」と思うことが色々と紹介されています。

刑罰に関しても、イスラムでは本来遺族以外に加害者を罰する権限はないそうなのですが、

いまの日本の裁判制度というのは、裁判員という何の関係もない市民を国家による判断の巻き添えにしてしまいます。私は、この点にも疑問を抱いています。 (P161)

殺人の当事者ではない第三者が処罰にかかわることの正当性はどこにあるのでしょうか。 (P161)

と著者に言われると、ううむ、と考え込んでしまいます。

公正に調査するためには「第三者委員会」が必要だ、などとよく言われますけど、専門家といえど考え方に偏りがまったくない人というのはいないだろうし、ましてくじ引きで選ばれるような裁判員が判断することの正当性……。

何の関係もない第三者が巻き込まれる一方、被害者の側はろくに裁判に参加できなかったりするわけで。

「法」とか「国家」ということについても考えさせられてしまいます。

現在の中東の国境線の多くは英仏が「サイクス・ピコ協定」で勝手に引いたものだったりするし、そもそもイスラムという宗教・文明は本来的に国家の枠を超えるもの。

“「領域国民国家」だけが正しいあり方ではないし、アメリカ的な「グローバリゼーション」だけが「グローバル」でもない。”って、『一神教と国家』の感想にも書いてますが、改めてまた同じことを思わされました。

うん。

一回ぐらい読んでもすぐ忘れちゃうし、すぐまた西欧的な見方をしてしまうし、折に触れ何度もこういう本を手に取らなきゃいけませんね。

でも、一五億人とも一六億人ともいわれるイスラム教徒の姿を西欧経由のめがねを通して見る必要はありません。もっとふつうに、市民としての生活のなかで彼らがどういう価値観をもち、どういう行動をする人なのかを知ることのほうが、はるかに大切です。(中略)彼らはアジアの隣人でもあるのですから。 (P250)

2018年4月19日木曜日

『やじきた学園道中記F』第4巻/市東亮子



(これまでの感想はこちら→1巻2巻3巻。公式ファンブックの感想はこちら

やぁっと4巻目出ました!

3巻最後で帝国高校の地下に囚われの身となってしまった勝取くん。直後のエピソードはプリンセスGOLD10月号で読んでいたとはいえ、さらにその続きが待ち遠しかったです。

姫御前&上総介先輩に気に入られてしまった勝取くん。あああ、本当に心配すぎる!!! 結局この巻も「ええ、待って、勝取くんどうなるの!」で終わってしまったし。

上総介に「調教し甲斐がある」なんて言われるの、まじヤバみしかない。

「あんたとは友だちになれねーな多分」と言ってずばり上総介の本質を言い当ててしまう勝取くん、惚れ直しちゃうけど、でもあの二人に気に入られて、「友だちになる気はない」で済むわけないもんね……。

あああ、ホントになんという展開をしてくれるの、市東センセ。勝取くんも中村先生も出てきて嬉しい限りだけど、この先紫乱に惑わされてあやつり人形みたいにされ、キタさんと対決する羽目になったりしたら。

紫乱といえばキタさんに「ぐいっ」とされて匂いをかがれ赤面する勝取くん、うぷぷ。

やじさんと勝取くん、二人の危機のどちらに駆けつけるか葛藤するキタさんも素敵だし、アラハバキ神に憑かれて暴走するやじさんを目の当たりにして、

「お前さんはやりたいようにおやり。万が一のときはあたしが阻止(とめ)るよ」

って覚悟を決めるキタさんがまた。

惚れてまうやろぉぉぉぉぉ!

どんなに暴走しててもキタさんが倒れてると正気に戻るやじさんもねぇ。ほんと相思相愛だよねぇ。箱根でキタさんが撃たれたのがトラウマ的なのもあるんだろうけど……。ハーディに、「ぼくの心配じゃなくて篠北のこと思いだして泣いてるの!?」って言われたこともあったよね。

幻舞の習得のため一人で山形に転校したい、って3巻で言ってたキタさん。この4巻ではまだ全然転校まで行かなかったけど、万一のときにはやじさんを止めなきゃいけないのにやじさんを一人にしていいんだろうか。やじさんを止めるためにも幻舞の力は必要だろうけど。


『Ⅱ』の1&2巻、軽井沢編に出てきた蔵沢くんちの人が出てきて(なんと中村先生と知り合い)、小鉄を追い詰めるほどの腕を持った「忍び」、蔵沢数人くんの出番も近いと思われ。

オールスター総出演、ますます続きが楽しみです♪

2018年4月18日水曜日

Android4.0でAmazonMusicが使えなくなった件

Android4.0のIS17SHを音楽プレーヤーとしてまだまだ活用しているのですが。

今朝、AmazonMusicアプリが使えなくなりました(´・ω・`)

起動すると「重要な更新があるので利用を続けるならアップデートしろ」という警告が出て、「はい」をクリックすると「ネット接続がない」というエラーが出る。


いや、接続してるし。Wi-Fi繋がっててTwitterもできるし他のアプリのアップデートはちゃんとできるし。

思うに、問題は「ネット接続」ではなく「Androidのバージョン」だと思われます。4.0用は久しく更新されていなくて、今IS17SHに入っているのは2016年にアップデートしたバージョン5.1.4。

GooglePlayで2018年4月18日現在配信されているのはバージョン7.6.2で、「Android4.4以上」となっています。(でもインストール済みのせいか「お使いのすべての端末に対応しています」と出る。)

まぁ今さらAndroid4.0を使い続けてる方が悪い、といえばそうなんでしょうけど、Spotifyはちゃんとアプリの更新もできて、起動に時間がかかるものの音楽の再生もしっかりできるんですよね。

Spotifyにはお金払ってなくて、AmazonさんにはPrimeにお金払ってるわけで、これまでにAmazonさんから購入したあまたの楽曲もAmazonMusicアプリからクラウドで聴けるはずで……。

お金払ってる方が聴けないのかよ、っていう。

AmazonUnlimitedやAlexaとか使えなくていいから、PrimeMusicだけ聴かせてくれよ、こないだまで聴けてたじゃん。「重要な更新」ってたぶんAlexa対応のことだと思うけど、そんなの要らないし、対応してない端末にまでそんな警告出して、「はい」を選んでも「いいえ」を選んでもどっちみちアプリが終了してしまうっておまえ。

使えない奴にも程がある(´・ω・`)

Wi-Fi切ってオフラインの楽曲だけを聴くことはできるんだけど、それ、ほとんど意味ないし。端末の楽曲はGooglePlayMusicで聴くからなぁ。Android4.0でもGPMはロッカー機能でクラウドに上げた音楽と端末の音楽をシームレスに聴けるから。

Primeは音楽だけじゃないので「だから課金をやめる」ってことはないけど、IS17SHで使えなくなったのは大変悲しい。

のでわざわざ記事を書きました。

あー悲しい。

2018年4月10日火曜日

『モノに心はあるのか:動物行動学から考える「世界の仕組み」』/森山徹



先日読んだ『脳はなぜ心を作ったのか』に今ひとつ納得できなかったので、もう一冊「心」絡みの本を借りてまいりました。昨年の12月に刊行されたばかりの新潮選書、新聞の書評で存在を知りました。

著者の森山さんは主にダンゴムシの研究をされている方で、『ダンゴムシに心はあるのか』という本も出されています。



ダンゴムシの実験と、「ダンゴムシにも“心”はある」という話は本書にも出てきます。これまでの研究を踏まえて著者がたどり着いた「心の正体」を、平易な文章で、エッセイのような雰囲気でまとめてくださっています。

うん、非常に読みやすかったですし、200ページちょっとの内容、割とすぐ読めてしまったんですが。

予想よりは面白くなかったというか(^^;)

『脳はなぜ心を~』と同じで、納得・共感できる部分はあるけど、全面的に「なるほど心とはそういうものだったのですね!」とまでは思えず。

森山さん、すごくいい人だなぁ、とは思ったし、「世界」や「言語」に関する考え方については共感できる部分が多かったのですが。

「モノに心はあるのか」と問う時、そもまず「モノ」とは何か、「心」とは何か、ということを定義しなくてはいけません。

で、この本の第一章は「世界とは何か」。第二章は「言葉とは何か」。200ページの半分以上がそこに費やされて、第三章でついに「心とは何か」になります。

もちろん、第一章および第二章の中にも「心」の問題は出てきますし、第一章に出てくる「行動決定機構」という言葉は“心の正体”を考えるうえで重要なポイントになっています。

むしろ、機械的な行動決定機構は、有機的な調和によって、「不確かな行動決定機構」となり、行動を作り上げ、私たちを、機械ではない「生きもの」に仕立て上げてくれているのです。 (P57)

私は、「潜在行動決定機構群が心の実体である」と提唱したのです。 (P155)

……って、ここだけ取り出してもよくわからないと思いますけど……全部読んでも人に説明できるほどわかってないですけど……。

とりあえず最初の、57ページの引用部分で重要なのは「不確かな」ってとこですね。言語も世界も、そして私たちが日々「ある」と思って行動している「動機」も、すべては「不確かなもの」。

まず、私たちの言語行為とは、世界の中のモノゴトを言葉で表現することです。それは、モノゴトを言葉という型へはめることでもあります。一方、世界の中のあらゆるモノゴトは、不確かな存在です。なぜなら、既に述べたように、あるモノゴトは、生じた瞬間から滅しはじめ、変質し続ける「時間的に不確かな存在」だからです。また、そのモノゴトは、常に複数の他のモノゴトと共立し、調和する「空間的に不確かな存在」なのです。 (P33)

世界は一秒たりともじっとしていない、不確かに流れゆくもので、でもそれをそのまま不確かな混沌として認識するのは大変なので(というかそれでは“認識できない”ので?)、名前をつけ、区別をして、言葉という道具で切り取り、定形にする。

それは「外側」のモノゴトだけでなく、「内側」もそうで、自分が感じていると思ったこと、望んでいると思ったこと、それこそ「自分の心」についても、本来は不確かなものを「言葉」で「わかりやすい形」にしている。

著者は「マグカップを手にする」という行為を例にあげて、たとえば「コーヒーを飲みたかった」のだとしても、

「コーヒーを飲みたかった」とは、「私はそのときコーヒーを飲みたいだけだった」ということを意味するのではありません。 (P23)

と、「複数でありひとつ」の欲求から、私たちは「不確かなひとつの欲求」をでっち上げるのだというふうにおっしゃいます。

私たちは同時に色々な欲求を持ち、色々な活動を行っていて、その時々、自律的に調整が行われた結果、一つの“行動”“行為”を為している。

その「自律的に調整する」部分に個体差があって、それがその人(に限らずモノ全般に)「個性」を与えている。というか、「個性」を生みだすその仕組みこそが「心」である……みたいな……?

複数の欲求(要素)が有機的に調和し、自律的に行動を決定する、っていうの、ちょっと『脳はなぜ心を~』に出てきた「小びと説」を思い出しますね。脳の中のはたらく小びとたち。それを「私」は統括しているのではなく、「小びとたちが働いた結果」を「自分がやったと錯覚しているだけ」というのが、あっちの本での“心の正体”でした。

「色んな要素が自律的に」というのも、「私の確固たる意志が!」というのとはだいぶ違う“心の正体”ではあります。
で、それは有機的で自律的であることによって“不確か”なものとなり、そこに“個性”が生まれて、

この精神作用の本質を「個性を生み出す仕組み」であると見極めることで、心がヒトだけでなく、動物にも備わる可能性を述べました。 (P155)

になるんですけど、ええ、全然まとめられてませんよね……。詳しく知りたい方はどうぞ本書をお読み下さい。しくしく。

ともあれ。

子どもの頃の著者が、「私は一生覚めない夢を見ているだけなのではないか」「私の外側に世界は本当にあるのか」「私は機械なのではないか」と疑った話は他人とは思えず、くすぐったかったですし、

生きものとしてそれぞれ独自の履歴を持つ私とあなたにとって、共通の意味をもつ状況などあり得ないこと、そして、どんなに共通に見える状況を用意しても、その解釈は決して一致しないということです。 (P137)

っていう著者の考えには大いに共感しました。

言葉の意味は一致しない。私たちは常に意味や動機を“でっち上げて”る。「本当のところ相手が(自分も)何を考えているかはわかりようがない」。

本書では最終的にヒト以外の動物にも、石にも大豆にも“心はある”って話になるんですが、読みながらまたしてもアニメ『BEATLESS』のことを考えてしまいました。

『BEATLESS』に登場する超高性能な自律型ロボットたち。主人公のアラタは彼らを“人間”と同じように扱い、友人のリョウからしつこく「あいつらは機械なんだ!」「心なんてない!ただ模倣しているだけだ!」「形に騙されるな!」となじられるんですが。

人間の“心”だって、その多くは“模倣”なんじゃないでしょうか。

“模倣”することによって色々学んで、感情や意識を育んでいく。オオカミに育てられたら、オオカミのように振る舞うようになる。

様々な入力刺激を処理することによって自律的に行動する高性能ロボットと、私たち人間が脳内でやっていることって、たぶんそんなに違わないよね。っていうか、“そういうふうに”、人間をモデルにしてロボット造ってるんだし。

人間同士だって、相手の“心”なんかわからなくて、表面に現れた“形”から類推&でっち上げるしかない。言葉も表情も、それは外に現れた“形”にすぎず、中身そのものではない。

泣いている子ども型のロボットに手を差し伸べるアラト。ロボットはただ、「こういう状況の時には泣くもの」とプログラミングされたから泣いているに過ぎず、「さびしい」とか「悲しい」という感情を持っているわけではないかもしれない。

でも人間だって、「卒業式で泣かないと~冷たいヒトと言われそう♪」ということがあるわけで、嘘泣きしてたら本当に悲しくなってきたとか、逆に笑顔を作っていると気分も晴れてくるという、“形が先”な部分もある。

人間の“心”を特別視しすぎるのは間違っているのでは……。

 
なんか全然本書の感想になってませんが、「自分の“欲求”とか“意志”というのは存外曖昧で不確かなものだ」という部分が強く印象に残ったんですよね(^^;) 著者の考え方からすれば『BEATLESS』のロボットたちは普通に“心”を持っているとみなされる気がするし。


最後にあとがきから引用。

私は、幼少のころから、何かについて考えるたびに、「私の二重性――何かを考える私と、何かを考える私の根拠を考える私の混在性」を感じます。 (P212)

多重の自分を放し飼いにしておくと、行動の因果関係や自他の境界が緩くなって愉快です。 (P212)

森山さんってなんかホントにいい感じの方ですよね(ちっとも本の感想になってない)。

2018年4月6日金曜日

『文豪ストレイドッグスDEAD APPLE』特典小説「BEAST~白の芥川、黒の敦~」



読みました。
全198ページとコンパクトながら小さな活字で思ったより読み応えがあり、楽しめました。

映画『DEAD APPLE』の感想記事にも書いたとおり、原作は未読、アニメしか見ておらず、そのアニメ(テレビシリーズ)の記憶も薄れがち(^^;)

熱心なファンの方々にとっては「は?」という的外れな感想かもしれませんが平にご容赦を。


『白の芥川、黒の敦』というタイトル通り、このお話の中では芥川が武装探偵社側(どっちかというと善人)、敦がポートマフィア側(どっちかというと悪人)になってます。

まだ少年だった芥川の妹を奪い、「君は愚かだ」という冷たい言葉で強烈な印象を与えた「黒衣の男」。芥川はその男と、妹の行方を捜して四年半の月日を過ごす。

「これ太宰さんだよね?」は、まぁ読者にはすぐピンと来るわけですが。

ともあれ四年半後、芥川は織田作に拾われて武装探偵社の入社試験を受ける。え?織田作?

ことここに至って「ああ、これはパラレルワールドなのか」と思うわけですが、入社試験を受ける芥川がなかなか楽しい。敦くんが受けていたのを思い出しますねぇ。
その後の「いいよカード」に社員みんなのハンコを押してもらうところで、国木田さんや賢治といった面々の個性が発揮されるのも面白いし。

意外にも賢治と芥川の気が合うところが特に良い。

一方、敦はマフィア側で『ポートマフィアの白い死神』と怖れられる存在になっていて。

彼が“首領”と崇める男こそ芥川の探す「黒衣の男」、太宰です。
太宰の計略によって激突させられる芥川と敦。終盤の二人の闘いはすさまじく、「いや、これ、芥川死んでるよね?いくら異能で防御してもこれで生きてるとかありえないよね?」って思ってしまいます。最終的には与謝野先生に治してもらえばいいんだろうけど……虎にボコボコに殴られ壁に叩きつけられ……。

敦が「死神」になってしまっているのには理由があり、パラレルワールドでもやっぱりこの子は面倒くさいな~と思ったりしました。でもなるほど孤児院には孤児院の考えがあったのかもな~。

パラレルワールドだから、元の世界の孤児院はやっぱりただひどいだけのところだったのかもしれないけど。

ともあれ芥川が探偵社側、敦がマフィア側、っていうのは面白いですね。何が善で何が悪か。ちょっとしたきっかけで、人は善の側にも立てば悪の側にも立つ。同じように不幸な境遇で育ち、同じように強力な異能を持って、でも誰に拾われるかでその後が変わってくる。

手を差し伸べてくれる誰か。

居場所を与えてくれる誰か。

それが“悪い人たち”だったがゆえに悪道に落ちてしまうっていうのは、現実にありすぎる話で。

「お前は悪ではない」芥川の内心を見透かしたように、国木田は云った。「まだ何物でもないだけだ。善き側に立て。――お前を正式に合格とする。今この瞬間から、お前は探偵社員だ」 (P186)

こんなふうに言ってくれる誰かがいるかいないか。(これってもともと敦くんにかけられた言葉なんだっけ?アニメ前半の記憶が……)

で。

この世界で、織田作と太宰は友人ではないんですけど。二人は会ったことさえないんですけど。

そこはそれ、太宰さんは特別な人なので、太宰さん側には「織田作の記憶」がある。他の世界の自分の記憶を持ってる(『家庭教師ヒットマンREBORN!』の白蘭さん思い出します)。

たった一度、さよならを言うために織田作と顔を合わせる太宰さんがツラい。

「大変だったんだ」青年はぽつりと云った。「本当に大変だったのだよ。君のいない組織でミミックと戦い、殺された森さんの後を継ぎ、すべてを敵に回して組織を拡大した。すべてはこの世界の――」 (P169)

すべてはこの世界を守るため。あまたある可能世界の中でただひとつ、織田作が生きて、小説を書いている世界を。

やだぁ、もう……せつない………。

世界でただ一人、他の可能世界の記憶を持って――つまりは他の世界での芥川や敦との関わりも知ったうえで――、二人を焚きつけ、ポートマフィアとして“悪”を成す。誰にも理解されない、守りたい当の相手(織田作)は自分のことを知りもしないと承知の上で。

なんという孤独。

芥川が主役かと見せかけて最後全部太宰さんが持ってくんだからホントに。

「つまり『世界』とは、本の外に一つだけ存在する物理現実――『本の外の世界』と、そして本の中に折り畳まれた無数の可能世界、即ち『本の中の世界』。この無限個と一個のことを指す」 (P192)

最後に言及される『本』。書いた内容が現実になるとされる代物。あー、そういえばアニメの方でもなんかそういうの出てきた気がしますね。敦くんが賞金首になっていたのももともとは敦くんが『本』の手がかりだから、という設定があったようななかったような。

異能による超能力バトルが主で、作家の名を持つ登場人物たちは織田作以外「小説を書く」わけではないけど、「本の中に書かれた世界」と物理現実の関係がお話の“背景”にあるの、“文豪”っぽくて良かったです。


頭の中の物語世界。それを言葉に紡いで“本”にすれば、それは一人の人間の“頭の中”を飛び出して、“現実”に存在するものになる。本の中で、その世界を“現実”として生きる登場人物たち。

このお話の中の芥川も敦も、そして太宰さんだって、苦しみながら必死になすべきことをなしてる。物理世界の住人と、「本の中の世界」の住人と、どっちが“本体”か。お話の中で太宰さんは“本来の自分”という言葉を使っているけど、なぜこっちは“本来”じゃないのかな。太宰さん以外の人間にとっては、自分を――今いる世界を“本来”とするしかない……。


探偵社側の芥川、そして織田作が生きている世界のその後、もうちょっと見たい気がしました。

2018年4月2日月曜日

『ゲームウォーズ』/アーネスト・クライン




日本では4月20日公開の映画『レディ・プレイヤー1』の原作です。基本、アニメと特撮映画しか見に行かない私ですが、「ガンダムが登場する」とか「80年代カルチャーがこれでもかと詰め込まれている」という触れ込みに予告編を見てしまい。



ふむ。
とりあえず原作を読んでみよう!と図書館へ。

原作は2011年の作品。邦訳は2014年に出ています。

映画の公式サイトやWikiにもあらすじが出ていますが、舞台は2041年。荒廃した世界で、人々は〈OASIS〉という巨大な仮想世界で娯楽のみならず教育までも受けて過ごしています。

〈OASIS〉の創設者ジェームズ・ハリデーが死んだ日、全ユーザーにメッセージが届きました。曰く、「〈OASIS〉世界に隠された“イースター・エッグ”を見つけたものに、〈OASIS〉のすべてを譲る!」

最初のヒントを解いて第一の鍵を手に入れる者が現れないまま早や5年。一部の熱心な“ガンター”と、〈OASIS〉を何としても自分達のものにしたい企業〈IOI〉以外には、“エッグ”の存在など都市伝説になりつつありました。

けれど主人公ウェイドがついに第一の鍵にたどり着いたことで、“エッグ・ハント”は急展開。

数と金に物を言わせて卑劣な手段で個人ユーザーを追い落とそうとする〈IOI〉“シクサーズ”。果たしてウェイドは彼らより先に“エッグ”にたどり着くことができるのか!?

……というわけで、RPG宝探しのストーリー、現実では貧しく冴えない主人公がVR世界で鍵の“第一発見者”となったことで一躍“時の人”になり、そのおかげで現実にも“お金持ち”になって、時に失敗し、命の危険にさらされながらも、“悪の組織”を出しぬき、ゴールにたどり着く。

うん、これだけで十分楽しめる「よくできたお話」なんですが、〈OASIS〉創始者ハリデーが“80年代ヲタク”に設定されていて、“ヒント”を解くためには彼の愛した80年代のビデオゲーム、TRPG、テレビドラマ、映画、SF&ファンタジー小説、コミック、音楽等々、膨大な作品を知っていなくてはならないという。

ただ単に登場人物を知っているぐらいではダメで、セリフをそらんじて仕草まで完璧に再現しなきゃいけないし、ゲームは当然ハイスコアでクリアできなきゃいけない。何より、ほんの数行与えられるヒントが何を指しているのか、あらゆる可能性を検討できる知識量と推理力とひらめきが必要とされるのです。

で、『スターウォーズ』だの『ゴーストバスターズ』だの『特攻野郎Aチーム』だのという固有名詞に混じって、

日本?日本も研究したかって?したさ。徹底的に。アニメに実写。『ゴジラ』、『ガメラ』、『宇宙戦艦ヤマト』、『マグマ大使』、『ガッチャマン』、『マッハGoGoGo』。 (上巻P126-127)

と、日本の作品もたくさん出てくるんですよね。

のみならず、ウルトラマンは出てくるわガンダムは出てくるわ。そして日本人でもたぶん知っている人は少ないであろう、東映版『スパイダーマン』に出てくる巨大ロボ・レオパルドンまで……。すいません、私、それ、わかんないです(^^;)

〈OASIS〉創始者ハリデーは1972年6月12日オハイオ州生まれということになっていて、著者アーネスト・クラインさんも同じ1972年生まれ。クラインさん自身が相当な“ギーク”ということで、出てくる固有名詞の数がハンパじゃないです。

もちろんそれらの固有名詞を知らなくてもお話は十分楽しめると思います。私もゲームはさっぱりわかりませんし、洋画や洋楽に詳しいわけではないけど、「それをヒントに解いていく」の面白かったし、最後までハラハラどきどき。

加えて世界設定がよくできてるんですよねぇ。

現実世界はかなり荒廃して、主人公はスラム街のようなところに住んでいる。親も亡くし、読み書きや算数も〈OASIS〉内で学んだ。〈OASIS〉の利用は基本無料で、〈OASIS〉内の無料図書館では膨大な資料にアクセスできるし、80年代の映画や音楽のアーカイブも楽しみ放題。

主人公、自分で開設したチャンネルで『キカイダー』一挙放映してたりするし。

ちょうどいまは、二日にわたる『人造人間キカイダー』の一挙放映企画がそろそろ終わるころだ。『キカイダー』は七〇年代に日本で製作された実写アクション番組で、毎回、赤と青の人造人間がゴムの着ぐるみを着た怪獣をばったばったと倒す。 (下巻P10)

何よりオンライン学校が秀逸です。

オンライン学校にはいろいろいい点があって、ほかの生徒をミュートする機能もその一つだ。(中略)校内で喧嘩が起きたことは一度もなかった。OASISの仕組みとしてできないようになっているんだ。学校のある惑星ルーダス全体がPvP禁止ゾーンに指定されている。つまり、プレイヤー対プレイヤーの戦闘は許されていない。 (上巻P60-61)

いじめっ子から丸めた紙切れを投げつけられることもないし、ズボンを強引に引っぱり上げて股間をぎゅうぎゅう締めつけられることもない。放課後に自転車置き場で囲まれて殴られたりもしない。誰もぼくに手を触れることさえできない。ここにいれば、ぼくは安全だ。 (上巻P64)

生徒が安全なだけでなく、先生にとってもオンライン学校は教えやすい。

現実の学校とは違って、OASIS公立学校の先生たちは教えることを心から楽しんでいるように見える。たぶん、勤務時間の半分を子守りやしつけに取られたりせずにすむからだろうな。そういった仕事はOASISのシステムが代わってこなしている。生徒は私語をせず、授業中にうろうろしたりもしない。先生たちは、教えることだけに専念できる。 (上巻P96)

おおお、今すぐオンライン学校を実現しなくては……!!!

接続自体は基本無料、誰でも使えるオープンなVR世界〈OASIS〉。〈OASIS〉内の公立学校に転入すれば、アクセスするための最低限の機械(タブレットやVRゴーグル)も配布され、主人公のような貧困層の子どもでも十分に〈OASIS〉を楽しむことができます。

でももし、“エッグ”を〈IOI〉がGetし、〈OASIS〉が連中のものになってしまったら。

IOIがOASISの運営会社になったら、きっとユーザーから月額利用料を徴収し、ディスプレイに残った隙間をすべて広告で埋めようとするだろう。ユーザーの匿名性や言論の自由は過去のものとなる。 (上巻P67)

ははははは。
なんかどこかで聞いたような話(^^;)

〈IOI〉はあらゆる手を使って“エッグ”を――〈OASIS〉を手に入れようとします。第一の鍵を最初にGetした主人公に大金を提示し、「協力を断れば殺す」とまで。

そして実際、主人公の住んでいた場所を爆破してしまう。無関係な他の住民ともども。

〈OASIS〉世界の中でアバターを殺されても、もう一度アバターを作り直せば(稼いだレベルやマジックアイテムはすべてリセットされるとしても)復活できます。〈OASIS〉内の戦闘で〈IOI〉に倒されるだけなら、それは「バーチャルな死」に過ぎません。

でも、〈IOI〉はリアル世界でも攻撃してくる。

匿名を使っていても、そのアバターの「本体」がどこの誰なのか突きとめて、問答無用で殺しに来るんです。

ひぃぃぃぃぃ。

まさに「ウォーズ」。ゲーム世界での“戦争”に留まらず、命がけの“エッグ・ハント”なのです。

終盤、主人公がリアル世界で〈IOI〉相手に仕掛ける行動は無謀すぎてハラハラ。ハリデーに関する知識、ゲームやプログラミングの腕だけでなく、なかなか肝が据わっているんですよねぇ。

リアル世界でのひどい労働実態がわかるエピソードにもなってて、ほんと、設定とか、VR世界とリアルとのバランスがよくできてるなぁ、と思います。

18歳の若者が主人公なだけに、恋愛もあり、友情もあり。VR世界のアバターでしか知らない盟友たちの正体を知り、それがたとえ思いがけないものであっても、互いの本質は変わらない、自分達は友だちだ、と言える強さ。

最後にハリデー(のアバター)が主人公にかける言葉も、王道ジュブナイルぽくて良いです。うん、80年代ギークというアラフィフほいほいな仕様にくるまれてはいるけど、中身は青春SF。

著作権の都合で映画にはウルトラマンは出てこないそうですが、スピルバーグにより再現される〈OASIS〉世界……かなりそそられますね。


作中に名前の出てくるたくさんの音楽作品、Spotifyでプレイリスト作ってる人いそうだな、と思って検索したら「Ready Player One Official Spotify Soundtrack」というものが。作成者は「ernestcline」となってますが、著者ご本人なのかしら……。


映画のサントラを聞きながら読むのも面白いかも。



あと。
ストーリーとはあんまり関係ないけど、お話の最初の方で、

OASISの無料図書館の探索を開始してまもなく、醜い現実に目が開かれた。事実はすぐに手の届くところでぼくをじっと待っていた。正直であることを恐れない人々の手によって、古い書物のなかに隠されて。 (上巻P31)

って書いてあったり、

「では、死んだらどうなるのか。はっきりしたことは誰にも言えない。しかし、証拠から推測するかぎりでは、何も起きないようだ。ただ死ぬだけのようなんだな。(中略)“神”関連のほかの話と同じさ。天国が本当にあるという証拠はない。過去に存在したこともない。それも作り話なんだよ。願望的思考というやつだね。というわけできみは、自分もいつか死んで永遠に消滅するって現実を知りながら、残りの人生を生きていくしかないんだよ」 (上巻P35)

なんて記述があるの、すごく好感が持てました。あ、この世界観なら大丈夫、この著者さん好き、っていう。

まぁマグマ大使だのキカイダーだの出してくる時点で好きに決まってるけど(笑)。

今月邦訳が出たばかりの長編『アルマダ』も読んでみようかな。



2018年3月30日金曜日

劇場版『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』観てきました

(※以下ネタバレあります。これからご覧になる方はご注意下さい。
 また、鑑賞後だいぶ時間が経ってから書いております。記憶違い等多々あると思われます。ご容赦ください。)



『仮面ライダーエグゼイドトリロジー』を観る前に、『文豪ストレイドッグス』の映画も観てました。

エグゼイドの方は上映時間1時間ほど。そのためだけに京都へ行くのも何やらもったいなく(『ガンダムTHE ORIGIN』とかおおむねそのためだけに行ってますけど(^^;))、連チャンいたしました。

『文豪SD』、原作は読んでなくてアニメしか見てないんですが、1期目は敦くんのウジウジがあまりに面倒くさくて、「んーーーーー、予想より面白くない……」。
2期に入ると織田作が格好良くて、でもすぐ死んじゃって、「ずっと織田作なら良かったのに。敦くんイラね(´・ω・`)」ぐらいに思ってました。

うん、この劇場版でも敦くん面倒くさかった。

まだ覚悟ついてなかったのかよ、と。

それに引き替え鏡花ちゃんの男前なこと! 鏡花ちゃんいなかったら敦くんあっさりゲームオーバーしてたんじゃ。

世界各地で異能力者が「謎の自殺」を遂げる事件が発生、武装探偵社もその調査に乗り出す中、横浜が「霧」に覆われる。その「霧」の中では異能力者の「異能力」が分離し、持ち主に襲いかかる。そう、各地で起きていたのは「自殺」ではなく、「自らの異能力によって殺害される」事件だったのだ。

その中心にいるのは渋澤龍彦という男。そしてなぜか太宰がそちらに寝返ったという話。

探偵社の面々それぞれが、自分の異能力との闘いを強いられる中、敦と鏡花は澁澤たちのいる居城へと向かう。合流する芥川。

もちろん3人とも「分離した自身の異能力」と戦わなくちゃいけないわけです。戦って、勝てば、異能力は戻ってくる。

はずなんだけど。

敦くんだけ戻ってこないのね。

「なんで?」って、見てる人間には「おまえにはまだ覚悟がないから」って丸わかりなんですが。

ずーっと「太宰さんには何か考えがあって」「太宰さんにさえ会えばなんとかしてくれる」みたいに言ってるし、何より彼はまだ、「虎」を「自分」だと受け入れていない。

「虎」のせいで、「異能力」のせいで、忌み嫌われてきた。好きでそんな能力を持っているわけでもないのに、疎まれ、居場所を奪われてきた。敦くんの過去が可哀想なものなのは承知しているけど、でもテレビアニメの終盤で、それなりに過去とは決着をつけて、自分の弱さや「虎」を受け入れたと思ってたんだよね。

決して好きで持った能力じゃないけど、その力があればこそ、守りたいものを守れる。

それが今回かな~りグズグズ言ってて……イライラするよぉ、敦くん。

最終的にはもちろん「虎も自分だ!」ってなるんだけど。そしてその敦くんのふらふらした弱さ、強大な「虎」を飼うにはあまりに脆そうな心とのアンバランスさ、葛藤こそが彼をして「他の異能力者とは違う」存在にしている(と澁澤が思っている)ぽかったんだけど。

はぁ、時間かかるなぁ、ほんと。

善と悪。強さと弱さ。臆病と傲慢。

人の中にはどっちも存在する。「暴力なんて」と思っている人間の中にも、暴力性・衝動性がないわけじゃない。

「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」。中島敦の『山月記』ったらこれですもんね。敦くんが「面倒くさい」のも「よく特徴を出してる」と言えばそうなんだけど。

弱さも醜さも、裡に潜む「怪物」もすべて「自分自身」と受け入れて、けれど「怪物」に飲み込まれることなく、なお「自分」として戦えるのか。ただ目をつぶるだけでなく、「いないもの」にするのでなく。

うん。

テーマはすごく好きだし、やぁっと「虎」を「ぼくだ!」と認めて澁澤をやっつける敦くんにはカタルシスを感じたけれど。

長いよ~、そこまでのウジウジにイライラするよぉぉぉ。


一方。

澁澤に寝返ったかと見られた太宰さん。

敦くんが無条件に「太宰さんなら」と思っていたとおり、澁澤を止めるために近づいていたわけですが。

太宰と中也の絆が良かったです!!!

テレビシリーズではどっちかというとお笑い要員というか……格好良さを発揮できてなかった印象のあった中也、取り返してあまりある活躍ぶり。原作知らないし、「あれ?中也ってこういうキャラだったんだ!?」ってちょっとびっくり。

中也の異能力は最終形態(?)『汚濁』を発動すると自分ではもう止められず、死ぬまで暴走する……ということで、太宰さんの異能力「他人の異能力無効化」とセットでないと真に「使いこなせない」わけです。

横浜の街を守るため、そして「あそこに太宰がいるなら」と、『汚濁』状態で突っ込んでいく中也。

澁澤とフョードルに裏をかかれ、毒ナイフで刺されて瀕死の太宰。漂う太宰の体を見つけ、こんちくしょうとばかりその頬を中也が殴りつけたとたん、口の中に仕込んでいた解毒剤のカプセルが割れて――。

こ、これは、大好きな「おまえなら止められると思った」パターンぢゃないですかっ!!!

澁澤たちに死んだと思わせるため、すぐには解毒剤を投入できない。でも中也なら必ずたどり着き、私を殴りつけるだろう、そして中也の暴走状態を止めてやれるのは私だけ……。

うおぉぉぉぉぉぉ、ご馳走様ですぅぅぅぅぅぅぅ。

……でも、毒は解毒剤でチャラになったとしても、太宰さんめっちゃ刺されてたじゃないですか。フツーに重傷だったと思うんだけど、中也と再会後、けっこう元気そうだったよね。防刃チョッキとか着てたのかな。


実は澁澤と敦くんには過去に因縁があって、敦くんはその記憶をずっと封印してました。で、澁澤の方も「失った記憶」というか、「忘れていること」があって。

太宰さんが澁澤側についていたのは、もちろん最終的に横浜を守るという目的もあったのだろうけど、「澁澤を止める=救う」ためでもあったみたいで。

澁澤を救えるのは敦くんだけ。それがわかっていたから、太宰さんはわざと……という感じ。

澁澤とフョードル、そして太宰。強力すぎるがゆえに孤独な彼ら。

「私の予想を裏切るものなど出てこない」と「退屈」して、でもその「予想を裏切るものの出現」をおそらくは求めて異能力をコレクションし、横浜を破壊しようとする澁澤。

続けて『エグゼイド』見てる時に、「澁澤と檀黎斗神っておんなじような感じだなー」と思っちゃいました。「誰かこのゲームを攻略する奴はいないのか!?」って吠える黎斗神と、「私の予想を裏切ってみろ!」と煽る澁澤。どっちも才能ありすぎて、世界が退屈で。

『文豪SD』の方で安吾だったかが「3人の孤独」と言うのだけど、凡人には「なんでもできるがゆえに退屈してしまう天才」の気持ちなんてわからない。レベルが違いすぎて、互いに共感できない。

太宰は織田作に、「同じなら、いいことをした方がいい」みたいに言われて、ポートマフィアから武装探偵社へと身を翻すけど、「相手の異能力を無効にする」といういわば「反則技」の持ち主にとっては、本当に「どっちでも同じ」なんだろうなぁ。

そんな力を持っている以上、常にその身は他の異能力者たちに狙われるわけで、でもそんな異能力者の攻防なんか、「無効にできる」太宰にはきっととても馬鹿馬鹿しくて……。

澁澤の「霧」の中で、異能力は分離する。太宰の「無効化」という異能力が分離して太宰を襲っても、「無効化」なので何も起こらない(はず)。太宰が分離した異能力と対峙するって描写、確かなかったと思うけど。


オープニングも格好良かったし、アニメならではの――そして劇場版ならではの迫力の動きも見応えがあり(たぶんそのせいで『エグゼイド』がよけいちんたらして見えた(^^;))、「敦くんめんどくせー!」以外は楽しかったです。



もらった1週目の入場者特典はまだ読んでおらず。2週目の「太宰 中也 15歳」も今回の「おまえならきっと来ると思った」を見てしまうと気になりますねぇ。追加上映劇場に行けばもらえるチャンスあるけど……わざわざもう1回見に行くかっていったら……。4/21からの追加上映で2週目っていったら思いっきりゴールデンウィークだしなぁ。

あまぞんさん見ると当然売りに出されてたりするけど。いやはや。