2017年5月21日日曜日

『巨神計画』/シルヴァン・ヌーヴェル



「原稿段階で映画化決定!日本のロボットアニメに影響を受けた巨大ロボット・プロジェクトSF!」という触れ込みに釣られ、買ってしまいました。

文庫なのに1,000円、それもけっこう薄いのに1,000円、しかも上下2冊というビンボー人には大変厳しい出版形態。翻訳物はほんと高くなりましたねぇ。
もっと小さい活字で行間詰めて1冊1,500円で売ってくれたら嬉しかったですよ、創元社さん。しくしく。

解説には

この長篇小説は、彼がその息子とともにテレビで視聴していた日本のアニメ『UFOロボ・グレンダイザー』をその発想源とするらしい。 (下巻P262)

とあり、解説者さんは

もっとも本作の物語自体は『グレンダイザー』よりは、『六神合体ゴッドマーズ』とか『無敵超人ザンボット3』とかを連想させる (下巻P262)

とおっしゃっています。

え?イデオンじゃないの!? 巨神とくればイデオンかゴーグでしょう!? めっちゃイデオン見たくなってAmazonプライムで見始めちゃったけど!?



だって6千年前のロボットのパーツ(最初は手)が見つかって、謎の金属でできてて、他のパーツを探し出して合体させて……。

第六文明人の遺跡やろ!?間違いないっ!!!

……って、イデオン見てない人には全然わからない話ですね、すいません。

巨大な謎の「手」が見つかって、それが見つかるきっかけを作った少女ローズは10年ほど経って、謎の人物(解説等では“インタビュアー”と呼ばれる)から、その他のパーツの回収および研究のリーダーに任じられます。

お話はすべて

ファイル番号〇〇三
 エンリコ・フェルミ研究所上級研究員、ローズ・フランクリン博士との面談
 場所:イリノイ州シカゴ市、シカゴ大学 (上巻P15)

という報告書というか「資料」の形になっていて、たまに日記のような「私的記録」(これにもファイル番号がついている)が入るものの、原則として謎の“インタビュアー”による関係者への事情聴取記録になっています。

この構成がねぇ、面白い。
巧い。

ロボットの回収・研究計画を率いているらしい謎の人物。アメリカ大統領さえも動かし、軍の協力や莫大な資金を得ることができる彼は一体何者なのか?
「宇宙人?ねぇ、この人、宇宙人?いつ正体が明かされるの?」と思いながらどんどんページを繰ってしまいます。

かつて地球上に巨大なロボットを埋めて去って行った地球外生命体。人類が“それ”を発見し、扱えるようになるのをひっそりと待ち続けていた彼らの末裔、あるいは彼らそのもの、あるいは何らかのAIのようなもの。

今こうして指揮を執り、記録を残している“インタビュアー”はそういう存在なのでは、と思って読み進んでいたらさらに「謎の男」が登場して、“インタビュアー”の正体がますますわからない。

下巻の最後まで読んでも明らかにはされないんだけど、実はこの作品三部作だそうで。

えええええっ、続くのぉぉぉぉぉぉ、また2,000円ずつとか要るの……(そこ)。

地球上のどこに埋もれているのかわからないパーツを見つけ出す方法や、地球外生命体が残したらしい文字の解読方法には「なるほど」と思うし、回収の過程で起きる思いがけない事故、ロボットの存在を巡って起きそうになる国際紛争に対する“インタビュアー”の対処の仕方も面白い。

うん、“インタビュアー”の操る論理というか言葉の妙、面白いですねぇ。

ロボットの「操縦者」役に選ばれた男女の困った三角関係。でもそれすらも「実は仕組まれたことでは?」と思えてくるし、“インタビュアー”さんがほんとどこまで「真実」を喋っているのか……。

上巻の最後で「ええっ!?」と思ったら下巻の最後で「ちょっ!」ってなるし、こんなとこで1作目終わるとかずるいやろ、ヌーヴェルさん。

わたしは彼らのことをアニメーターと呼んでいます。水先案内人(パイロット)といってもほんとうの船ではありませんから、人形に命を吹きこむ存在になぞらえたほうがいいと思うんです。 (上巻P134)

フォースを使うのだ、ルーク! ひょっとするとそうなのかもしれない。もしかしたらこれはほんとうに大きなジェダイの訓練装置で、目を閉じた状態で一万トンの人形を動き回らせることができるかたしかめるためのものなのかも。 (上巻P144)

という記述にはクスっとさせられますし、

あなたがたはビデオゲームを使って兵士たちに殺しの訓練をさせています。彼らはコンピューター上で充分な数の人々を吹き飛ばし、そのことが本物の兵器を使って殺すのを簡単にしています。(中略)実のところわれわれには、政府の陰謀について話す必要などないのです。 (下巻P18)

あなたと大統領はどこかのCIAの分析官がいった、こうすれば中東を、あるいは原油価格を安定させる役に立つかもしれないといったようなことではなく、全人類のためになるなにかをする機会を得るのですから。 (下巻P227)

といった皮肉にはニヤリとさせられます。

北朝鮮にはずっと、ほんとうに当惑させられてきました。(中略)もっとも重要なことには、自分たちの正しさを百パーセント確信しているので買収もできない。誇大妄想狂は扱いが難しいことで有名ですが、どうすればそれを世代を超えて受け継いでいけるのか、わたしには見当がつきません。 (下巻P70)

ちゃんと一番最初に「この物語はフィクションです。実在する地名・人名等とは関係ありません」って断り書きがしてあるんだけど、つい「うんうん」ってうなずいてしまう。

解説によると、今年の4月にすでに刊行されている2作目ではロボットが本格的に戦い始めるのだとか。この1作目の「じわじわ感」がかなり好きなんだけど、事情聴取(あるいは現場との無線実況記録みたいなの)で戦闘をどんなふうに描くのか。何より下巻の最後の展開の真相を早く知りたい!

もちろん“インタビュアー”の正体も、ロボットが本当に地球外生命体が残したものなのか(まぁ人類には無理そうな代物だけれども)も気になるし、ロボットの操縦者問題も解決してないんだよね、あの人物が姿消しちゃってるし……。

インタビュアーと、それに答える人との言葉の間にいちいち空白行があるのでページ数よりも分量が少なく、さくさく読めます(なのでよけい1冊にして1,500円で出してほしかった。しつこく言うw)。

原題は『SLEEPING GIANTS』。眠れる巨人。あ、複数形ですね。今のところ一体しか出てきてないんだけどもしかして?

2作目は『WAKING GODS』らしく、こちらも複数形。って、これは単数にするとキリスト教の神様を指すんだったっけ。

続編の日本語訳を待ちたいと思います。3作目で因果地平へ行ってしまわないことを祈る……。

2017年5月19日金曜日

SHV33がAndroid7.0に!

5月16日、SHV33にAndroid7.0アップデートが降ってきました!

6.0へのアプデ時点で「7.0にも上げる」というアナウンスがされていて、発売当初にSHV33を購入した方にとっては「お待ちかね」のアップデートだったと思いますが、1月末にSHV33をGetしたばかりの私には「わっ、もう来た!」みたいな(笑)。

(購入時の記事→「IS17SHからSHV33へ」 「SHV33およびAndroid6.0の使い心地」

Getしてすぐ、ほぼ何もいじらないまま6.0にアップデートしてここまで4か月弱、特に問題を感じることもなく快適に使っていたので、「7.0にして何か不具合あったら嫌だな」と思って一晩やり過ごしたのですが。

気になる。

やっぱりやってみたい。

あっさり誘惑に負けて、17日の午後にアプデ開始しました。
Wi-Fi利用でデータのダウンロードはたったの5分くらい。「更新を始めますか?」「はい」から40分くらいで無事7.0になりました!



が。

実は無事ではなかったのです。


【電話帳消失事件】

夕飯を終え、旦那さんにSMSを送ろうとしてふと気づく。「あれ?名前が表示されてない」
他にも名前が表示されてない相手がいたので、電話帳を確認すると。

スカスカやないかーい!

なんとたったの20件しかない。いくらぼっちの私でももうちょっと入ってたよ。っていうか旦那さんとかお母ちゃんとかめっちゃ連絡取る相手が消えてるんやけど。

なんでデータが消えたのかわからないけど、とりあえずGoogleさんと同期を取れば戻るはず、と思い同期すると。

やっぱりスカスカのまま。

え、もしかしてGoogleさんに預けてある方が上書きされて20件になったりした? え?

IS17SHに電話帳情報はほぼ残っているものの、これをGoogleさんに同期しても逆に20件にされる可能性があって怖くてできない。

とにかく一回Googleさんの連絡先情報(Googleコンタクト)を見てみようと思い、スマホのブラウザからアクセスすると。

やっぱりスカスカ(´・ω・`)

ひぃーっ!となりながらもあちこちいじって「1週間前の状態に戻す」みたいなのを見つけ、適用してみる。

しかし変わらない。

終わったのか。
終わっちまったのか。

が、よく見るとその「変更を元に戻す」の下に「その他の連絡先」という言葉。クリックすると見慣れた連絡先がずらずらーっと。

あー、そーゆー。なんか「Myコンタクト」みたいなカテゴリ分けが怪しいなぁという気はしてた。

「その他の連絡先」から必要な相手をちまちま「連絡先に追加」して再びSHV33を同期させると無事電話帳ふっかーつ!

ほっ。

IS17SHからSHV33に機種変した時には「連絡先をGoogleさんと同期」するだけで「Myコンタクト」とか関係なく全部ちゃんと入ったのに、なんで今回はそんなことになってしまったのか。

よくよく見ると「その他の連絡先」にはスマホに入ってなかった、PCで数回送受信しただけのアドレスも入ってるから、SHV33購入時に同期された情報と「全部同じ」ではないんだけど……。1月20日頃と今とでGoogleコンタクトの同期の仕様が変わったとかあるんでしょうか。

とりあえずちゃんと残っていたので良かったけど……20件なのを見た時は「ふぁっ!?」ってなりましたよホントに。

心臓に悪い。

一つ不思議だったのは、Googleコンタクトで見ると「その他」に入っていた息子ちゃんのアドレスがスマホで生き残っていたこと。

愛か。愛なのか。
(たぶん「よく使う連絡先」の方に入っていたからだろうと推測している)


【それ以外は特に困ったことはないけども】

SHV33の7.0アップデートによる変更詳細はこちらにまとまっています。ざっとは見たんだけども、PDFの詳細版はアップデートした後で読んで、「あ~、そこも変わっちゃうんだぁ」と。

前の方が良かったな、と思ってももう戻れません。

なんかTwiccaの投稿画面のカーソルが蛍光黄緑になったり、SMSアプリのカラーも蛍光っぽさが強くなって目に優しくない……。

あと、前と同じ画像をホームに設定したらサイズ感が変わってしまってむずむず。もしかしたらホームアプリ(私はADW.Launcher Oneを使ってます)の表示設定とかで変えられるのかもしれないけど。

7になってロック画面とホーム画面で別の画像を設定できるようになったので満を持して(?)フランに登場してもらいました。


ぎゃほー、かわええー♪
時計の色が変えられないので黒っぽい背景の方が見やすいだろうと思ってフランにしたんですが、ロック画面見るたびニヤニヤしてしまう。ふふふふ。

しかしホントにロック画面の時計表示を変えられないのはつまんないですね。表示位置、カラー、サイズ、表示形式。色々いじれたら面白いのに。
まぁこれは6.0でもできなかったし、IS17SHでもできなかったことだけど。

IS17SHはメモリ液晶に常時時計が表示されていたので「電源入れてロック画面で時刻を確認する」必要がなかったんですよね。
SHV33に機種変して、時刻確認のためには画面点灯しなくちゃいけなくて、その時に時計の視認性が悪いとつらいので、ロック画面に設定する画像が限られてくる。

フラン黒くて良かった(笑)。

電卓が「関数電卓」になって、そのこと自体は面白いんだけど見た目は前の方が好きだったなぁ。すぐ慣れるんでしょうけどね。

通知の見た目がちょっと変わったのもきっと慣れる。慣れる。慣れろ、俺。

7.0になっただけで内部メモリの空きが増えたのは朗報。SHV33、内部メモリ少ないからねぇ。


取り急ぎ、7.0アップデートのご報告でした。
またなんか「ふぁっ!?」ってことが出てきたら書きます(ないことを祈る)。


【2017/05/20 追記】

書き忘れていたことがあったので早速追記。

☆ロック画面の数字が小さい!
 私はロックNoを設定しているのですが、その入力画面の数字が6.0の時よりちっさくなって、かなりの確立で押し間違え、ロック解除に手間取るように(´Д`)
 .数字サイズの設定とかないよね? 手の大きな人、指の太い人は大変そうなんだが。

☆絵文字が増えたらしいけど
 ATOKユーザーの私には関係ない話だったもよう。
 S-Shoinの絵文字が増えた、ってことですよね? これまで表示されていなかったWeb上の絵文字が表示されるようになったのかどうかはよくわかりません。

☆怪我の功名
 電話帳消失事件のおかげで「スマホの電話帳に入れておきたいアドレスはどれか?」を改めて整理することができました。昔のPTA関連のアドレスとか、まず要らないと思うし、スマホには入れなくてもいざとなればGoogleさんの「その他の連絡先」に保存されているし。
 念のためGoogleコンタクトのエクスポートも実行してCSVファイルでバックアップ。
 au提供の「データお預かり」にも電話帳をあずけようとしてみたものの「エラー」に。Googleさんの連絡先のみで「本体」には0件なので預かってくれないということなのだろうか。謎。

2017年5月13日土曜日

『量子革命~アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突~』/マンジット・クマール



やぁっと読み終わりました。読み始めたんいつやったんやろ……。
内容が内容だけになかなか頭に入ってこず、手に取ってもすぐ眠くなるしそもそもなかなか手に取る気になれない(笑)。

じゃあなんで買ったんだよ、無理すんなよ、って話ですが、時々無理しないとボケる一方だから。

しかし間に『静寂』を挟んじゃったこともあって、前半の記憶がほとんどありません。何書いてあったんかな。アインシュタインが最初の奥さんにひどかったことぐらいしか覚えてないぞ。

アインシュタインはエルザに、「わたしは妻を、解雇できない雇い人のように扱っています」と語った。 (P222)

エルザというのはアインシュタインの二人目の奥さん。
浮気相手であるエルザの元に走ったアインシュタイン、奥さんミレヴァに対して「家に戻るための条件」として要求リストを突きつけたそうです。
曰く、

「一、わたしに夫婦の関係を期待せず、それについていかなる咎め立てもしないこと。二、求められたら即座に、わたしに話しかけるのをやめること。三、求められたら即座に、文句を言わずに寝室や書斎から出て行くこと」 (P223)

そのリストには「洗濯はきちんとすること」のような項目も入っています。まさに「解雇できない雇い人」。「私に家に戻ってほしければ分を弁えた家政婦に成り下がれ」という項目リスト。

夫婦のことだから、二人の間にどんなことがあって、ミレヴァがどんな女性だったかもわからないので一方的にアインシュタインを責めてはいけないのかもしれませんが、しかし。

アインシュタインひでぇ(´・ω・`)

……って、量子力学の本ちゃうんかい、って感じですが、この本は学術書ではなく量子力学を構築していった科学者達の人生というか共同作業というか、「これだけの紆余曲折を経て量子革命はなされた」みたいな本なので、アインシュタインの離婚話に注目するのもあながち間違いではありません、たぶん。

「量子力学についてざっくり知りたい」だけなら、以前にご紹介した『量子論を楽しむ本』を読んだ方がいいです。うん。あれを読んだ時はなんかちょっとわかったような気がしたのになぁ。(読んだの2014年だったのね。ついこの間のつもりがもう3年も経ってる。どうりで学んだこと忘れてるはずやわ…)



サブタイトルに「アインシュタインとボーア」とついていますが、二人のことだけでなく、この本には量子力学に関わった大勢の科学者が登場します。ボーアとボームとボルンとか同じような名前の人もいて、誰が何をどうした人なのやら途中でさっぱりわからなくなってきたり(^^;)

巻末にはちゃんと人名索引がついているんですけどね。用語集や年表までついてます。親切。

第一部「量子」は本当に眠かったですが、ハイゼンベルクやシュレーディンガーが登場する第二部「若者たちの物理学」あたりからやっと、面白いと感じられるようになりました。

誰かが見つけた手がかりをまた別の誰かが拡張し、定式化していく。一人ではなく複数が、しかも同時多発的に。単線ではなくいくつもの糸が絡み合って新しい理論が出来上がっていくのが面白いです。

しばしば「○○が××に書いた手紙」の内容が引用されていて、第一級の科学者たちが国境を越えて繋がっていて、手紙のやり取りをしていることに驚かされます。あんまり手の内を明かすと研究成果持って行かれちゃうんじゃないの?

実際にポスト争いだったりノーベル賞受賞争いだったりがあって、「○○は焦っていた」みたいな記述も出てくるし。

一流ともなれば、ライバルであると同時に「ともに科学的真理を探究する同志」という感じなんでしょうね。

理論を組み立てるだけでなく、それを実際に実験して検証するプロセスも必要だし、理論が得意な科学者、実験が得意な科学者、誰かと議論する中で見えてくる新しい論点。

(ちなみに理論物理学者と実験物理学者はけっこうスパッと分かれるらしく、
ヴィーンが、理論家としても実験家としても超一流という、物理学者の中では絶滅危惧種というべき種族の一員であることは早くから明らかだった。 (P45)
なんて一文があります)

アインシュタインとボーアはいわゆる「コペンハーゲン解釈」について意見を異にし、そのフィールドでは対立するようになるけれども、そうなる以前、ノーベル賞受賞の際にはボーアは「あなたの仕事が私より先に認められていて良かった」とアインシュタインに書き送っています。そしてその手紙にアインシュタインは

「なんて可愛らしいのでしょう――あなたらしいことです」 (P253)

と返事をしている。
なんか微笑ましいです。

そんな、科学者たちの切磋琢磨とともに、この第二部で印象に残ったのは「良き師の存在」。門下から多くのノーベル賞受賞者を出したラザフォードやゾンマーフェルトのように、若者達の才能を見抜き、適切に導くことのできる「師」が、教育や研究の現場には必要なんですよねぇ。



で、その、アインシュタインとボーアが対立することになった「コペンハーゲン解釈」。

量子力学は、測定装置とは独立して存在するような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ、その電子は「実在物」になる。つまり、観測されない電子は、存在しないということだ。 (P467)

とするボーア側の考え方(解釈)に対して、アインシュタインは、「月は君が見ていない時は存在しないとでも言うのかい?」と考えていました。

アインシュタインにとって科学研究は、観測者とは無関係な実在があると信じることに基礎づけられていた。アインシュタインとボーアとのあいだに起ころうとしている論争には、物理学の魂ともいうべき、実在の本性がかかっていたのである。 (P468)

有名な「シュレーディンガーの猫」は、量子力学(コペンハーゲン解釈)のヘンテコさを表すために考え出された比喩(思考実験)で、「猫が生きているか死んでいるか、箱を開けてみなければわからない。箱を開けるまで(観測が行われるまで)は、猫は死んでもいなければ生きてもいないという重ね合わせの状態にある」というお話です。

シュレーディンガーは「そんな馬鹿な話があるか?」という意味でこんな猫の比喩を使ったんですね。シュレーディンガーが反対派だってこと、『量子論を楽しむ本』を読んだ時には理解してなかった気が(^^;)

「観測者が観測するまでは実在しない」というのは日常的な感覚からは「そんな馬鹿な!」ですけど、ボーアにしても「客観的実在は存在しない」と言っているわけではなく、「量子力学はそこには感知しない」と言っているのです。

ボーアはこう断言した。「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事を、自然を見出すことだと考えるのは間違いである。物理学は、自然について何が言えるかに関するものである」 (P565)

で、ボーア達の「コペンハーゲン解釈」を認めなかったために晩年は「老害」呼ばわりされていたらしいアインシュタインなのですが、アインシュタインも「認めない」のではなくて、「あれは完全ではない」と言っていただけなのです。

アインシュタインは「観測者とは無関係な客観的な実在がある」と信じていて、それを記述することのできる理論がきっとある、と思っていたんですね。だからアインシュタインは死ぬまで「統一場理論」を追い求めていた。量子力学をも含み、客観的実在としてすべてを記述できるような「完全な理論」を。

このアインシュタインの「量子力学を認めないわけではなく……」という立場は物理学者の間でも誤解されがちだったらしく、アインシュタインと長い付き合いだったボルンでさえ、

アインシュタインが真に問題視しているのは神がサイコロを振るかどうかではなく、コペンハーゲン解釈が「観測者としては独立した実在を説明することを断念した」ことだという点を、ついに十分に理解することはなかった。 (P621)

のだとか。

その点ヴォルフガング・パウリは

「アインシュタインの意見がわれわれと異なるのは、“決定論”かどうかではなく、“実在論”かどうかという点なのです」 (P621)

と述べていて、「すごいなぁ、さすがパウリ、賢いなぁ」と感心します。19歳になるやならずで早くも「相対性理論の専門家」と見なされていたパウリ。自分自身の仕事にもあまりに厳しく批判しすぎて、

もしも想像力と直観をもう少し自由に羽ばたかせていたならパウリが成し遂げていたであろう発見が、彼ほどには才能のない、しかし自由な発想をもつ仲間たちの手柄になったことも、一度や二度ではなかった。 (P290)

と書かれているのですが、パウリのような人がいないと、「新しい発見をした人がいてもその価値が評価されない」ことが起こるんですよね、きっと。新しい発見や理論が正しいか間違っているかを判断するのはとても難しいことで、パウリのような賢さと批評眼を持った人が研究の内容をしっかり理解し検証して人に伝えてくれなければ、せっかくの発見が見捨てられたり埋もれてしまったりする。

後になってすごく注目される理論でも、発表した当時は話題にならず、発表者の死後に理論が評価されるということは多々あるわけで。

金科玉条のようになっていたコペンハーゲン解釈に異を唱えたエヴェレットの多世界解釈も、エヴェレットが死んでからメジャーになった。アインシュタインも「老害」呼ばわりされたまま亡くなってしまったけど、今では「アインシュタインはそんなに間違ってなかったんじゃ?」という話になっているそうで。

今「正しい」とされていることが、今後も「正しい」かどうかはわからない。

なんか、そういうところが面白かったですねぇ。素人にとっては天才科学者以外の何物でもないアインシュタインが「老害」扱いされていたり、一流の物理学者の間でも量子力学の解釈問題に関しては未だ「わからない」が多勢だったり、かのハイゼンベルクも行列演算については全然わかってなかったり。



あと、量子力学の確立の歴史には第一次世界大戦と第二次世界大戦が挟まっていて、1916年頃のドイツの経済状況とか、ナチス台頭の話とか、勉強になりました。

栄養不良による死者が12万人にも上ったという1916年頃のドイツ。

そうした代用食品は徐々に増えていった。穀物の殻と獣皮を混ぜたものを肉に見立てたり、野菜のかぶらを乾燥させて「コーヒー」にしたりした。 (P233)

猫やネズミや馬は、食欲をそそる代用食品に見えた。馬が道端で死ねば、すぐに解体された。「一番良いところを取ろうと人びとは争い、顔も服も血だらけになった」と、そんな出来事のひとつを目撃した人物は書き記した。 (P233)

つらい……。

よくある極右過激派の一つにすぎないと思われていたナチスはたった2年で得票数を8倍にし、ドイツ第二の政党にのし上がったのですが、アインシュタインはそれを「若者の怒りの噴出」だと考えていました。

しかしじっさいには、ナチスに票を投じた者のうち、選挙権を得たばかりの若者はわずか四分の一にすぎなかった。ナチスを支持したのは、むしろホワイトカラーの労働者や、商店経営者や、小規模事業主、北部のプロテスタント農家、職人、産業の中心から外れた非熟練労働者という層だったのだ。(中略)原因は、一九二九年十月、アメリカのウォールストリートの証券市場崩壊に端を発する大恐慌だった。 (P510)

なんか……現在とものすごくかぶるような……。



学術書じゃないとはいえやっぱり理論の説明部分は難しかったし、読むのに時間かかって疲れたけど、たまには頭使わないとね(^^;)

はぁ(疲れた)。

2017年5月9日火曜日

ゲラ版モニターで『静寂~ある殺人者の記録』を読みました



東京創元社さんのゲラ版読者モニターに応募して、6月13日刊行の小説『静寂~ある殺人者の記録』(トーマス・ラープ著/酒寄進一訳)を一足お先に読ませていただきました。

サウザンブックスさんの出版応援企画でも編集中原稿を読ませていただいたんですが、あの時は原稿がPDFファイルで来て。

今回はドーン!と紙。


おおお、ゲラだぁ、まだ普通の人は読んでない生原稿だぁぁぁぁぁぁ(いや、コピーだけど)。

全320ページ、コピー用紙160枚ということでこのままでは読みにくい。右肩に穴開けて紐を通し、赤ペンと付箋片手に読み始めました。


モニター募集案内ページであらすじが紹介されていますが、この作品の主人公カールは聴覚が異常に発達していて、生まれ落ちた時から彼にとってこの世のすべてが「騒音」なのです。世界が騒がしすぎて、それに耐えられなくて泣き止まない。

でももちろん赤ん坊のカールに「それ」を説明することはできず、なぜ赤ん坊が泣き止まないのか原因のわからない両親は、カールの扱いにとても苦労します。子どもの誕生を待ち望み、とても楽しみにして、そして生まれた赤ん坊を十二分に愛していたはずの母親が、泣き止まない赤ん坊に精神を壊されていく過程がまず、つらいです。

どうしても、母親目線で読んでしまいますね……。

カールが泣き止まないのは「耳が良すぎるからだ!」と気づいた両親は、カールを地下室に隔離して育てます。普通の子どもとはまったく違う育ち方をするカール。でも地下室にいてもその鋭敏すぎる耳は外界の音をキャッチし、人の話し声を聞き分け、息づかいや鼓動の音でその人物の気分までもわかるようになっていく。

カールに悪意はなかった。両親を嫌っていなかったし、傷つけたいと思ったこともない。これほど引きこもって暮らしているのに親は悩みっぱなしだ。カールはひどく不安に駆られた。望まれた子から望まれない子になってしまったのはどうしてだろう? (P39)

うん、もちろん、カールも可哀想なのです。聴覚が優れているのは、そんな風に生まれついたのは、別にカールのせいじゃない。その後、耳栓をして地下室を出ることになるんだから、もっと早く外へ出て、村の人にも「この子は耳が良すぎる」と説明して、普通に暮らせていれば……。

でも、やっぱりそれは無理な話だったのかもしれません。人々のひそひそ話を全部聞けてしまうカール。こっそりと囁かれる悪口も、隠しておかなければいけない不倫関係も、彼はその耳ですべて聞きつけてしまう。そんなことが村人たちにバレたら……。「耳が良すぎる」なんて、下手にカミングアウトできないよねぇ。

隔離されて育ったカールには、「死」の意味がわからない。

この世界をあまりに騒々しいと感じるカールにとって、むしろ「死」は喜ぶべき「静寂」の状態であり、解放であり、救済であるように思えた。

しかも人は、虫や動物なら簡単に殺す。ぶんぶんうるさい蝿を殺しながら、父親はカールに、

「今度はおまえだ、カール! ほら、安らぎを取りもどすんだ。静けさを取り返すぞ」 (P88)

なんて言う。

後半には安楽死させられる馬も出てきます。

「死」は苦しみからの「解放」、静けさと安らぎの世界。

カールが人を殺すことを「善行」と考えるようになるのも仕方ないんだけど……カールは「悪くない」んだけど……でもやっぱり、カールの行いを完全に肯定することはできない。自分や自分の家族が、カールに「殺される」としたら、たとえ不治の病に苦しんでいたとしても、死が、「楽になること」だったとしても……。

だってね、カール自身も「それが世間的には認められないこと」っていうのはわかっているんだよ。もしもそれが本当に「解放」であり、「祝福されるようなこと」なら、カールは逃げ隠れする必要はないじゃない。刑事が家にやって来たら、「それは僕から彼らへの贈り物です」と言ってしまえばいい。いいことをしたのだという自信があるなら。

普通の教育を受けさせてもらえなかったカール。でも彼は十分に頭がいい。だから、「捕まってはいけない」ということも「理解している」。

村を出たカールは、「どう見ても悪人。こんなヤツ殺されても仕方ない」って相手も殺すし、たまたま行き会っただけの人も殺すし、カールに居場所を与えてくれた人たちをも殺す。

とある少女と出会って愛着とか喜びを知っても、それでも彼にとって「死」は「解放」のままであり、自分がそれを他人にもたらすことについての屈託はない。

「勝手」だと思ってしまうんだなぁ。カールは狂ってるわけじゃないし、判断能力もあるし、「死」について探究し、殺人を実行に移せてしまう行動力もある。少女との愛を知って、最後には「誕生」を言祝ぐことまでして……。

なぜ「死」についてだけ、「人を死なせる」ことについての判断だけ、覆らないのか。

さんざん人に「死」を与えておいて、新しい命がこの世に生まれることを――この騒々しい世界にやってくることを喜ぶなんて。

大体、「死」が解放なら、真っ先にとは言わないまでも、早い段階で自分を「解放」するべきなんじゃ。

でも。

そういう勝手さこそが「人」なのかなぁ。論理は終始一貫しない。辻褄なんか合わない。


訳文は読みやすく、さくさく読めるんだけど、読みながら心がずっとざわざわして、「好きか」と聞かれると好きとは言えない、なんとも考えさせられる作品でした。

人間にとって「死」とは何か。
「生きている」とはどういうことか。
「生きているだけで素晴らしい」のは本当か。
人が人を「死なせる」のはなぜいけないのか。
虫や動物を死なせるのとはどう違うのか。

私はかなり小さい頃から死を――「自分が死ぬこと=この世界から消え失せること」を恐怖して生きてきたけど、一体どういう経緯で「死」を「無になること」と認識したのか、「自分も死ぬんだ」と理解したのか……。

あと、カールの場合は人並みはずれた聴覚のせいで世界を極端に違うふうに感じ取っていたけど、人は誰でも自分の感覚で世界を認識していて、それが「他人の見ている世界」と本当に同じかどうかは決してわからない。

文化による視点の違いとかではなく、生物としての「感覚器官」の違いで世界や「生死」の意味が変わってくるっていう切り口が面白いなぁと。


「死」についてざわざわ考えたい人にお薦めの作品です。

2017年5月5日金曜日

ラフォルジュルネびわ湖2017行ってきました

今年もラフォルジュルネびわ湖に行ってまいりました♪

東京ではちょうど今(5月4日~6日)開催中のラフォルジュルネ、びわ湖ホールでは4月28日の前夜祭から30日までの3日間。

私が行ったのは最終日の30日。前日29日は途中で雷が鳴ったりして一部湖岸での公演が変更になったようですが、30日は雲一つない快晴に恵まれ、絶好のお出かけ日和。


街路のポスターが青空に映えます。


びわ湖ホールは外装工事中? それでもちゃんとラフォルジュルネの横断幕(って言うのかな?)がどーんと!

ホール内に入り、まずはロビーで行われている無料のキオスク公演に耳を傾けました。


トロンボーン、トランペットとピアノのトリオでちょっとJazzyな「主よ人の望みの喜びよ」や「スプリング・イズ・ヒア」などを演奏。
トロンボーンの八巻さんとトランペットの徳田さんは大阪交響楽団の方だそうで、八巻さん、お話もお上手でした。
びわ湖ホールのロビーは天井高くて床が大理石で教会に似た音響空間、金管の音色が映えるので演奏していても気持ちいい……というようなことをおっしゃっていました。

ロビーから小ホールへ移動して、次は有料公演一つ目。ジュリアン・マルティノー・トリオ。
マンドリン、ギター、コントラバスによる三重奏で「ラテンの楽園」と題した演奏を。

小ホールで席数が少ないせいもあってか、チケット完売の人気公演。前売り初日に取っておいてよかった。
有名な「チャルダーシュ」やバルトークの「ルーマニア民俗舞曲」。そしてピアソラ「タンゴの歴史」!

マンドリントリオで聞くピアソラ、新鮮です。軽やかで可愛らしいマンドリンの音色、でもそこはかとなく哀愁も漂って……。
ピアソラの曲は楽器や演奏者によって色んな表情を見せてくれますよねぇ。

この日聞かせてくれた楽曲はほとんどこのアルバムに入っているもよう。↓


終演後のサイン会(ホール内で売ってるCDを購入するとサイン会に参加できる)を横目に見ながら、ロビーで今度はマリオネットさんのマンドリン&ポルトガルギターの演奏を聞くべくスタンバイ。

マリオネットさんのこのアルバム、確かお友だちにダビングしてもらったカセットテープがあったはず……。↓


6月17日にびわ湖ホールで演奏会があるということで、そのPRを兼ねてのキオスク公演。「南蛮渡来」や「日曜はダメよ」など4曲を聴かせてくださいました。
トークもさすがの巧さで楽しい20分間♪

サイン会を終えたジュリアンさんもマリオネットさんの演奏を聞かれていたようでした。同じマンドリンですものね。


その後湖岸に出て、瀬田北中吹奏楽部の演奏をBGMにお昼ご飯。フードブースも出ていますが、私はいつもパンやおにぎりを持参しています。お金落とさなくてすいません(^^;)


空は青く、琵琶湖も青く、絶景に生演奏という大変ぜーたくな状況なのですが、いい天気すぎて暑い! 首の後ろが灼けるよ~、日焼け止め塗ってくるの忘れた~~~。

そんなわけでさっさとロビーに戻り、三たびキオスク公演。サックス五重奏を聴いたり、バイオリンとビオラの二重奏を聴いたり。

合間には声楽アンサンブルのリハーサルも。リハーサルといえど歌唱は本番さながら。立ち位置その他を確認していらっしゃるのですが、リハなんて普段見る機会はそうそうないですから、むしろ本番よりも面白かったりして。

ジュリアン・マルティノー・トリオの終演から次の有料公演の開演まで4時間近くあったので、「大丈夫かな?」と思ってたんですが、湖岸の景色とキオスク公演楽しんでたらけっこうすぐに時間が経ってしまいました。


二つ目の有料公演は大ホールで、ドミトリー・リスさん指揮によるウラル・フィルハーモニー管弦楽団の公演。
デュカスの「魔法使いの弟子」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」、そして「ボレロ」!




以前、萬斎様ボレロを同じ大ホールで鑑賞していますが、あの時は演奏よりも萬斎様に釘付けだったので、生オケ・ボレロをじっくり聴くのは初めて。

「次はどの楽器だろ?」と音色当てのような前半、徐々に厚みが増してくる中盤、そして怒濤の終盤。
やはり盛り上がります、ボレロ♪

「ウラル・フィルの演奏はどーのこーの」と語れるほどの耳も知識もないので、気になる方はこちらの音源を↓ ラヴェルじゃないけど(^^;)



大ホールから中ホールへさささっと移動して、この日一番楽しみにしていたメキシコ民俗音楽グループ「テンベンベ」の公演です!

(AmazonさんにCDがないのでSpotifyのリンクを。アーティスト名「Tembembe Ensemble Continuo」となっているのでたぶん同じグループさんだと)


もともとこういう民俗音楽系のもの大好きなんですが、テンベンベさんの公演、ほんとに楽しかったです!
いつもラフォルジュルネの有料公演では曲紹介もトークも全然ないんですが、テンベンベさんは少しお話してくれて、楽器の紹介もあり、アンコールではサパテアードも!

アンコールがあるのも最終公演ならではでした。他の公演は次の公演との絡みがあるのでアンコールはないんですよね。拍手に応えてもう一度挨拶、ぐらいな感じ(少なくとも私がこれまでに鑑賞した公演ではアンコールはなかったです)。

そしてテンベンベさんもサイン会が!

テンベンベさんのCDは売り切れてしまっていたんですが、ラフォルジュルネ公式CDでもOKということで。(実は買わなくてもOKだったのか、LFJのチラシにサインしてもらってる方もいた。どーゆーことだ……)


サインしていただきました~\(^o^)/
テンベンベの皆さん、本当にありがとうございました~。


OTTAVAのリスナーさんともお目にかかることができて、充実した1日でした。
来年もびわ湖でラフォルジュルネがあるといいのですが……。

OTTAVAのFacebookで林田さんが「ラフォルジュルネが来年あるかどうかわからない」と書かれていて、それはもちろん東京公演のお話だと思うのですが、「えっ、東京もそうなの?」とびっくりしました。

びわ湖公演はいつなくなってもおかしくないと思っていて(お金ないに決まってるし)、だからとりあえず1公演は見に行かなくちゃなぁ、とここ3年ぐらいは連続で足を運んでいるのですけど、びわ湖の比ではなく賑わっているに違いない東京公演も危機的な状況とは……。

びわ湖の比ではなく公演数も多く、出演されるアーティストさんも多いので、びわ湖の比ではなく(しつこい)お金もかかるのでしょうけれど。

東京がなくなってびわ湖だけ残るってことはまずないでしょうから……東京もびわ湖も、来年も無事ラフォルジュルネが開催されますように。


びわ湖公演に来てくださったアーティストの皆さん、スタッフの皆さん、楽しいお祭りをありがとうございました。

2017年4月22日土曜日

SHV33のカメラが実は優秀だった件

IS17SHからSHV33に機種変更して早くも3か月経ちました。

10日ほど使った時の記事「SHV33およびAndroid6.0の使い心地」の中で、「カメラを接写AFモードにするのがめんどい!」「残念!」と書いたのですが。

どうも、いちいち接写モードにしなくても接写できるみたいなんですよね。だいぶ近づいてもちゃんとピント合うし、背後をぼかしたい時はズームにして撮ればきれいにボケてくれます。





なんだ、そうかー。そんならわざわざ「接写AF」に切り替える必要ないよね。ってゆーかなんでわざわざ「接写AF」があるの?と思うぐらい。

ちなみに私はずっと「マニュアルモード」で撮ってるので、「オート」でズームした時にどんな写り方するのかはわかりません。

で、この「ズーム」機能がIS17SHとは段違いになってる。

IS17SHでは、ズームすると解像度が下がって、小さくて汚い写真しか撮れなかったんです。

それがSHV33ではズームしても画質が落ちない

お月さんもけっこう綺麗に撮れるし、


近づけない桜の花を捉えることもでき、しかも後ろがいい感じにボケる。


もちろん「ボケはいらない、ズームで全景をきれいに」も撮れます。


京都市動物園辺りの桜を対岸から少しズームして撮ったもの。

露出やらホワイトバランスやらがわかればもっといい写真が撮れるのかもしれません。たぶん全然SHV33カメラの実力を引き出せてないんだろーなー。インカメラなんて一度も使ってないし。

今さらSHV33の公式サイト見たら
「F値1.9の明るさで、ブレやノイズが少なく、被写体に近寄れば背景がボケた美しいポートレートも撮影できます」って書いてありますねー。
動画も撮ってないし「ハイスピードカメラ」機能とか存在することさえ知らんかった、みたいな(^^;)



先日発表があったAQUOSスマホの最新フラッグシップ機「AQUOS R」もカメラにはこだわっているもよう。(でも「GR certified」は取得していないらしい(→こちらの記事)。SHV33の方が画質良かったりする???)
SHARPさん、フラッグシップ機だけじゃなく、コンパクトな「mini」シリーズもちゃんと出し続けてくださいね~。

2017年4月21日金曜日

『罪の継承~ORIGINAL SIN~』/GACKT



珍しくMV付きの初回限定版を注文していて3月22日の発売日にちゃんと届いてたんですが、なかなかMVを見るヒマがなく、先日やーっと見ました。

「テレビでは流せない」とか、ニコ生の時も「過激すぎてビジョンでは流せない」と言われたらしいいわく付きのMV、期待して(?)見たんですが。

スプラッタシーンよりむしろ冒頭の虫の映像の方がぞくりとして気持ち悪かったなぁ。

冒頭と、椅子に繋がれたGACKTさんのシーン以外はほぼ全編スプラッタだけど、仮面ライダーアマゾンズを視聴している私には「こんなもんか」的な。

「生きながら人間を喰らう」アマゾン達に比べたら、刃物でグサリは「きれいな殺し方」だし、MVの中の被害者達、割と抵抗なく殺されてる感じで、断末魔感が薄い。

いや、あったらそれこそ気分悪くて見てられないだろうと思うし、MVだと思って――作り物だと思って見てるから大丈夫なだけで、リアルにあんな現場に居合わせたくはもちろんないんだけども。

最後の男の子の狂気の表情が素晴らしくて感心したけど、演技とはいえ、ああいう役をやってしまうとトラウマになったりしないのかしらね……。

男の子にも女の子にも、そしてGACKTさんにも刻印されたバーコード。男の子はGACKTさんの少年時代で、繰り広げられる惨劇はGACKTさんの記憶とも思える。

でももしかしたら、GACKTさんは他人の記憶を見られる能力者なのかもしれないし、あの男の子の罪をさらに継承した別人なのかもしれない。(二人のバーコードが同一かどうか、確認しようと思えばできるんだろうけど)

きっと彼らは何かの実験体なんだろう。アマゾンズと同じように何かの遺伝子や細胞を植えつけられ、人を殺すようプログラミングされているのかもしれない。あるいは、殺し合いのゲームで生き残る者の遺伝子だけを選択していくような実験。

冒頭の「虫」の映像も、「実験」を暗示しているように思える。シャーレの中で培養され、共食いさせられる「虫」たち……(やっぱりアマゾンズを連想してしまうな、「虫」という言葉)。

『罪の継承』の歌詞から考えれば、女の子は男の子に自分を止めてもらったんだろうけど、女の子を自分の手で殺したことで罪が継承され、男の子の中の狂気が覚醒する。

みたいな。

色々想像を膨らませられるのが楽しい。

GACKTさんの意図を「当てる」ためにMVがあるわけじゃない。受け手それぞれが、そこから物語を広げていけばいい。

広げられるように作られてるのがGACKTさんの作品だと思う。

『罪の継承』の歌詞も、わかったようなわかんないような感じだよね?(笑)

「化け物と化した自分を殺してくれ」と「アナタ」に頼まれて、語り手はついに「アナタ」の息の根を止めてしまった……ふうに読めるけど、語り手もすでに「壊れたオマエ」と表現されてる。

キリスト教で言うところの「原罪」が「ORIGINAL SIN」だけど、食べるためや生存のため以外にも他の生きものを殺す種、自分と同じ種をも殺すモノ、それが人類なら。

「アナタ」も「オマエ」も、ごく普通の人間のことを歌っているのかも。

ともあれ。

『TRICKSTER』のエンディングとして初めてこの曲を聴いた時、「わっ、MOONぽい!格好いい!!早くフルで聞きたい!!!」と思ったんですよね。

フルで聞いたらさらに格好良かった♪

2コーラス目の作り込み方とかファルセットとか、最初に聞いたアルバムが『MOON』だった私にはとても懐かしい感じがして、「久々にこの感じキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!」。

『キミボク』も『TRICKSTER』のオープニングとして聞くの楽しかったし、最終話のあのシーンで流れるとうるうるしちゃったけど、やっぱりああいう「普通にラブソングとして聞ける曲」「普通にラジオでかけられそうな曲」より、どっぷり異世界ストーリーな曲の方が私は好き。

『暁月夜』や『サクラ、散ル…』のような和風な曲もとても素敵で、最初は「ん?」と思う曲でも聞いてるうちに大好きになっちゃうのがGACKTさんマジックではあるんだけど。

やっぱり、映画『MOON CHILD』でハマった私としては『MOON』と『CRESCENT』の楽曲が特別で。

『MOON』ぽい曲が来ると嬉しいです。

“『MOON』ぽい曲”って何だよ、どーゆーのだよ、と言われてもうまく説明できないけど、死と狂気とせつなさにあふれた、普通のラジオではかけてもらえそうにない曲(笑)。

GACKTさんもこちらの記事「たとえ民放に流せないような危ない内容になってもそれもボクの曲だし」とおっしゃってます。

「より自分らしい、GACKTとしてイっちゃってる曲を作って“カッコイイ!”ってならないと、作る意味もない」

うん。GACKTさんとしてイっちゃってる曲に惚れ込んだんですから。

「これから曲を作る時も、もっともっとエッジをたくさん効かせた曲を作るさ」

楽しみだぁ、めっちゃ楽しみだぁ。

イっちゃってる曲、待ってます。