2018年6月20日水曜日

『大相撲語辞典』/福家聡子



『シルトの梯子』と一緒に借りてきたお相撲関連本。ハードSFで疲れた脳味噌を可愛いお相撲さんイラストで休ませるのじゃ~。

「相撲にまつわる言葉をイラストと豆知識でどすこいと読み解く」と副題にあるとおり、著者福家さんの素敵なイラストとともに大相撲に関する知識がすっと頭に入ってくる、とても楽しい本です。

第一部基礎知識編には「決まり手一覧」もあり、「褄取り」「小褄取り」「足取り」「裾取り」の違いなどわかりやすく解説されています。

第二部の用語編は「辞典」と呼ぶにふさわしい大ボリュームで、あいうえお順に相撲にまつわる言葉がずらり。「相模」の項目があるのがツボでした。「相撲ロス」なんて言葉もあって、ニヤニヤしてしまいます。

2018年2月時点の情報をもとにしているので、宇良や逸ノ城、玉鷲といった現役バリバリ力士の名前があちこち出てくる上に、特に名前が書いてないイラストでも「これは琴欧洲では???」と思ったり、相撲ファンにはいちいちたまらない。

もちろん千代の富士や勝昭たん等すでに土俵を降りた名力士のお話もあり、「肉の多い大乃国」だの「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」といった「え、それは用語なの!?」とびっくりする見出し語もあって、ほんとに充実した「辞典」になっています。

行司の木村銀治郎さんが監修されており、綴じ込み付録の「大銀杏の結い方」には追手風部屋の床山、床作さんのとっておきエピソードも。

「トゥクトゥク」の項とか、時天空兄さんのイラストがついててうるっと来てしまう。用語の選定も説明文も、いちいち心憎くてほんと、ごっつぁんです!

2018年6月17日日曜日

『シルトの梯子』/グレッグ・イーガン



なんかSFが読みたいな、と思ってうっかりこんなハードSFを借りてしまいました。
グレッグ・イーガンさん、お名前はかねがね……。

「訳者あとがき」には「ハードSFの極北とされる一冊」とあり、開始早々

サルンペト則はあらゆるグラフについて、それが別のグラフに変化する確率に量子振幅をあたえる。(中略)もしグラフに三つの三価の節点と三つの五価の節点が交互に並んだループが含まれているとしたら(後略) (P10)

てな具合でほとんど意味がわからない。

科学的な部分に関して(科学的じゃない部分なんてあるのか?ってぐらい科学的な作品だけど)解説もついているんだけど、解説の物理学者さん自ら

本文を読んで「わから~~ん」となったら以下を読んで、「なるほどわからん」と納得した上で本文に戻っていただければと思う。 (P485)

と書かれているぐらい、ホントに解説読んでもわからない(笑)。
「状態ベクトル」の説明の中に「生きてる猫」と「死んでる猫」の記号が出てくるのが可愛いけど、「あー、シュレディンガーの猫の話なー」ってことしかわからない。

「きっと解説を読んでもわかるまい」と思ったので、本編終わってから解説読みましたけども。


物語は。
今から2万年ぐらい先の遠い遠い未来
量子グラフ理論の研究者が行った実験により、宇宙に「ミモサ真空」と呼ばれる新しい時空が出現し、既存の宇宙は拡大する「ミモサ真空」にどんどん飲み込まれていっている。

何しろ2万年も未来の話なので人類は宇宙のあちこちに散らばっているのですが、人類が居住していた星々が次々とミモサ真空により消滅していっているのです。

「ミモサ真空」の発生経緯を描くのが「第一部」。そしてそれから605年後、既存の宇宙と新次元との境界面付近に設置された「リンドラー」という実験施設に、チカヤという人物が到着するところから「第二部」が始まります。

チカヤはなんと4009歳です。
なんせ2万年も先の話なので、「人類」の在り方がずいぶん違ってしまっています。解説されてもよくわからない「クァスプ」という「量子力学デバイス」やら「外自己」やら「介在者」やらいうものがあって、この時代の人類は自己をデータ化して、服を着替えるように「肉体」を着替えることができ、星と星の間はデータだけ送信して「送られた先に用意されている肉体に宿る」らしい。

だから、チカヤもリンドラーに到着して、「宿り先の肉体がチカヤ好みのオーダーになるよう処置をする槽」で目覚める。

どうすればそんなことが可能なのかさっぱりわからないけど、肉体はリサイクルされて、チカヤがリンドラーを離れることになればまた別の誰かの肉体として再利用されるそう。

で、チカヤはそういうふうに「肉体」を利用する「実体主義者」なんだけど、「非実体主義者」という人たちもいて、この人たちは肉体を持たずバーチャルなまま存在している。そのこと自体はまぁ、理解できるんだけど、「生まれついての非実体主義者」みたいな言い方が出てきて、最初から意識(データ化した自己)しかないってそれはどういう……。どうやって「生まれて」くるんだ???

生殖の方法も今とは異なっていて、チカヤは男性でも女性でもない。「二つの性」に分かれていないのです。

分かれてないけど、単性生殖というわけではなく、二人の愛情が高まると肉体が変化して、お互いでだけ愛し合えるような形になって、性交ができるらしい。

大半の非特定(ジェネリック)身体がそうであるように、〈リンドラー〉で用意されているそれも性交無制限だった。ジェネリック身体のどのふたつでも、適合性のある性器をほぼ随意に発育させることができる。 (P183)

「えええーっ」と思うけれども、これ、すごくいいよね。性別がないってことは性による差別がないってことだし、同性愛だ異性愛だって区別することもない。何より互いにOKしないと「適合性のある性器が発育しない」なら、「合意のない性交」ってものが存在しなくなる。

つまり「性犯罪」がないのでは!?

やたらに他人の体を撫でまわしたがる痴漢とかは存在するかもしれないけど……。

こういう「この世界での人々の在り方」は、説明のための説明ではなくエピソードを通してうまく語られていきます。こんな「未来世界」を想像できるだけでも「この人の頭の中どうなってるんだろ?」なんですが、それをスムーズにお話の中に落とし込んで読者にさらりと設定を提示できるのがまたすごい。

リンドラーでチカヤは幼なじみのマリアマと再会。ミモサ真空に対する態度の違いからリンドラーでは譲渡派と防御派の対立が激しくなっていましたが、譲渡派のチカヤに対して、マリアマは防御派でした。

防御派というのはつまり、「私たちの既存の宇宙を守ろう→どうにかしてミモサ真空を消滅させよう」とする人々。一方譲渡派は「私たちの宇宙はもちろん大事だけれども、ミモサ真空を研究することも大事だ。そんな簡単に潰してしまうなんて」という考え。

「そんな簡単に」は言葉の綾で、どうすればミモサ真空の拡張を止められるのか、この600年間科学者たちはあらゆる実験を繰り返してきたわけなんですけれども。

あ、「防御派」も消滅とまでは思ってないのかな。後半、もっと過激な人たちが出てくるから……。

ともあれリンドラーにいる人たちは「ミモサ真空をどうにかするために境界面に研究に来ている人」なので、もう全然何言ってるかわからない。

「量子ゼノン効果は、継続的な観測によって系を安定化します。すべてが埋め込まれた全体グラフの一部は、わたしたちが真空と見る部分を“観測”し、さらに真空中を動く物質を支配する動力学法則を決定します」 (P177)

議論の具体的なことは全然わからないんだけど、防御派と譲渡派が丁々発止で色々やって、その間にチカヤとマリアマの過去の因縁エピソードとか、非実体主義者のヤンが性交を試してみる話とかが差し挟まれ、わからないなりに読み進められてしまう。

なんか、とにかくこの世界設定がすごくて、「データとして自己を送信することで他の星へ行く」という話一つとっても、「1世紀近く送信され」たりしてるし(100光年離れた場所に送信するには光の速さで100年かかるわけだもんね)、終盤で描かれてる冒険譚はマイクロスケールの話っぽいし(そもそもリンドラーで提供されている“肉体”もすごい小さいのかもしれない)、ミモサ真空を生み出した実験の際には「原子核化」とかフェムトマシンとか出てくるし……。

ナノマシンより小さいのがフェムトマシン。

そこに意識を――自己を乗せられるってどういう状況なの!? 自己意識のデータ量どうなってるの???

こんなの日本語訳できる訳者さんもほんとすごい。

なんとか最後まで読んだ私もすごい。

って、「すごい」しか言ってないな。



「シルトの梯子」というタイトルは、チカヤが子どもの頃父親に聞かされた話から取られています。9歳の誕生日を控えたチカヤは「年を取るのが怖い」と父親に訴え、

「でも、もしぼくが……ぼくがぼくのままだと、どうしたらわかるの?」 (P345)
「自分が別の誰かになったんじゃないことが、どうやったらわかるの?」 (P346)

と尋ねるんですね。

この時代の人は、めったに死にません。肉体が死んでも「自己データ」のバックアップがあるので、別の場所でそれがまた目覚めるのです。最後の数分か数日か数週間かの記憶はないかもしれませんが、ともあれそれは「彼(彼女)」なのです。

たった80年ほどの寿命しかなくても、5歳の自分と50歳の自分が「同じ自分」であるのは非常に奇妙な気がします。中身はアニヲタな中学生のまま、と言っても、中学生だった私の“意識”とすっかりおばちゃんな私の“意識”が同じはずはないのです。

1世紀も送信されっぱなしだったり、何度も別の星でバックアップから目覚めたり、この先何千年も生きることを想像した子どものチカヤが、「それってどういうことなんだ?」「それでもぼくがぼくであるってことは」と思うのは実にもっともで。

で、父親は「シルトのはしご」を持ち出してチカヤに説明するのです。Wikiによると「シルトのはしご」というのは“一般相対性理論や微分幾何学における、ベクトルの曲線に沿った平行移動を(1次の近似的に)構成する手法”

「変わらない方法」を教えてもらったのかと思ったらそうではなく、「変わっていくけれど大丈夫」という話になる。

お父さん、賢くて、しかもいい人だなぁと思うけど、ううむ。何千年の記憶と経験を積み重ねてもやはり「自分」であるということ、バックアップも「自分」であるということ……。その説明では、あまり納得できないような……。


科学的な議論が理解できなくても読めたし、たまにはこういう歯ごたえのあるものを読んで頭を刺激するのもいいな、と思ったけど、イーガンさんの別の本をすぐ手に取る勇気はちょっと、ないです。ははは。

2018年6月10日日曜日

『仮面ライダーアマゾンズ最後ノ審判』観てきました

(※以下ネタバレあります!これからご覧になる方はご注意ください)



観に行ったのは5月の23日で……もう3週間ぐらい経ってしまいました。記憶違い等多々あると思いますがご容赦ください。

さて。

4DX上映も非常に気になったのですが、めまいの既往があるため安全を鑑みて通常上映で観てきました。

うーん。

テーマとしては好きだけど、最後「え?これで終わり……?」みたいな。

「良かった、最高、もう1回観たい!!!」って感じにはならなかったです。うん、まぁ、シーズン2もちょっと微妙だったし、七羽さんがあんなことになってしまった時点でね。七羽さん、今回も回想でしか出てこられないだろうとわかっていたし。

七羽さんと仁さんの出会いを描くスピンオフください!七羽さんが生きてて、仁さんがこんなにズダボロになっていない時期のお話を見たいですっ。

悠&美月にはときめかないんだもん……。

しかし映画は悠&美月が4Cに追い詰められ、湖に飛び込むところから始まる。

対岸(?)の施設「切子聖園」の子ども達に助けられた二人。「身寄りのない子ども達のための養護施設」に見えたそこは、実はアマゾンを家畜として養殖する「牧場」だったのです。

黒塗りのセダンで子どもたちを迎えに来る上品な夫婦。いかにも「新しい家族のもとへ引き取られていく」ように見えて、園長も他の子どもたちも旅立っていく子を祝福して送りだしていたのだけれど、その夫婦は「食べるため」にアマゾンを買ったんですよね。

村内の別の建物が「レストラン」になってて、引き取られたアマゾンの子どもはそこで調理され、夫婦によって舌鼓を打たれる。

その実態に気づいた悠は当然激怒し、施設の子どもたちを助けようとするんですが……。

いやぁ、ほんと、相変わらずテーマがエグい!

シーズン1の「人肉レストラン」回を思い出します。あれ見たあとハンバーグが食べづらくなった人も多いと思いますが、大丈夫です、今回はステーキなので(何が大丈夫なのか)。

アマゾンが人間を食べるなら、人間がアマゾンを食べたっていいじゃないか、というのは「なるほど」なんですが、しかし冷静に考えてアマゾンって美味しいんだろうか。見た目完全に普通の人間だし、普通の人間の腹の肉とかももの肉とか、人間が食べて美味しいのかな……。しかもただ肉だけを「どうぞ」って出されるんじゃなく、生きてる状態の子どもと言葉を交わして、「さぁこの子を今から食べるぞ」ってことになるんだよ。鴨とか豚だって、「今からこいつをさばいて夕飯にします」ってなったら気持ち悪くなったりするよね。普段、もう「食べ物」になってるとこしか見てないとさ。

「アマゾンを食糧にしよう」なんて妙なこと考えるのはもちろんドクター真木――じゃなくて橘さん。世界的に肉の供給が足りない、そこでアマゾンだ!みたいにぶち上げて政治家を「視察」に連れてきて実際に食べさせようとする。

その政治家さん、悠が親しくなった「ムク」って女の子を食べることになるんだけど、一緒に車に乗り込んで女の子を「ほほぉ」という感じで見るのがなんか“やらしく”て、「おっさん、食べる前に変なことしとこうかなとか考えただろ」みたいな。

そう思う私が変なこと考えてるな、ははは。汚れつちまつたかなしみに(´・ω・`)

それはともかく、「生け簀から出したばかりの魚を造りにする」みたいに「ほぼ人間」を調理させて食べるって、普通の人にはできなくない? まだ実験段階だから、ってことはあるだろうけど、あのやり方では一部のゲテモノ食いの人たちを喜ばせるだけだよね。

それで「美味しい食べ方」を確立してゆくゆくは「工場→大量生産→肉だけパック詰めで売る」を考えてるのかもしれないけど、いくらアマゾンの成長が早くても、そして人間を食べさせず草食で育てても、コスト的に「食肉供給の救世主!」にはならないんじゃ……。

施設の子どもたちは自分たちで作った野菜を食べて育ってて、もし本当に人間を食べないアマゾンが作れるなら「食糧」としてより「安い労働者」として使った方が良くないかとか、「食糧」として育てるんならよけいな知恵つけないでもっとドライに、それこそ厩舎にすし詰めブロイラー状態で“飼え”ばいいじゃん、と思ってしまう。

何も知恵をつけなければ――“教育”を施さなければ、生存本能が勝ってあっさり逃げ出したり、人間を食べたりするかもしれないけど。

施設の子どもたちは、知っているんだよね。自分たちが食べられるために育てられていること。そしてそれを「素晴らしいこと」だと教えられている。「私たちは幸せを運ぶ天使だ」と。

中には逃げ出した子もいて、その子たちは「肉食のアマゾン」として施設を襲ってきたりする。で、草食の子どもたちに「彼らは穢れた肉食になった」と忌み嫌われる。食べられて他の命の糧となって生きていくことは尊く、自分のためだけに生きることは醜い。

いやほんと、このテーマはすごく好きなんだけど。

「食べる」ってどういうことなのか。牛や豚なら平気で、なぜそれが「アマゾン」になったら――ほぼ人間と同じ生きものになったら嫌悪を感じるのか。レストランで子ども達を調理する連中もすごい心臓してるな、と思うんだけど、自分では殺さずパック詰めになった肉や魚を当たり前に食べている私は、果たして彼らより“まとも”なのか。

食べる側のアマゾンを「食べられる側」に持ってきたのすごいし、ただ食べるんじゃなく彼らに「食べられることは素晴らしい」と教えこんじゃうやり方、ほんとすごい。

橘さんの思惑はともかく、あの園を切り盛りし、「草食アマゾン」を実現した研究者でもあったらしい「園長」は、単に「アマゾンを支配」したかっただけなんじゃないのかな。わざわざ信仰心みたいなのを植えつけるって、それによってコントロールしたい、そんなものを信じて従順でいるアマゾンズを嘲笑いたい……みたいな。

生命力とか戦闘力では人間よりも上で、放っておいたら人間を駆逐するだろうアマゾンズを俺は「飼える」のだ、っていう。

もしも人間がアマゾンズに、「食べられることは素晴らしい」と教えられて「飼われる」としたら。食べるばかりで、普段食べられることのない人間という生きもの……。

で。

その施設で神様扱いされてるのが仁さんなんですが。

かなり長いこと後ろ姿しか映されず、「仁さんでしょ!わかってるんだから!もったいぶらないで早く仁さんの顔拝ませてよ!!!」って欲求不満になります(笑)。

仁さんの細胞を使ってアマゾンズの子どもたちを生み出しているので、園の子ども達にとっては文字通り仁さんは創造主。

しかしやっぱり「牧場」としてはすごく効率が悪いような……。

上半身裸で鎖に繋がれっぱなしの仁さん。トイレとかどうしてるんだろう、とつい考えてしまいました。この状態で何ヶ月経ってるんだろうとか。(シーズン2の最後からは2年経ってるんだっけ?あれ?設定どうだっけ)

園の子ども達を救いたい悠、なぜかライダーに変身できる園長、そして仁さん。これまで徹頭徹尾人間の味方であり、いい奴だろうが何だろうが関係なくアマゾンズは無条件に倒し、人間は無条件に守るを貫いてきた仁さん、ついに「人間」である園長を殺します。

ライダーに変身できるってことは、あの人アマゾン細胞を注入されてたんじゃないの?と思わなくもないんだけど……。仁さんと悠以外でこれまで変身できたのは、アマゾン細胞注入されて蘇った死人だけじゃなかった???

一方これまで「肉食」をせずに生きてきた悠もついに人間を(っていうかアマゾンズなんだけど)食べることに。

自分に課していたルールを破った仁さんと悠、それでもやっぱり二人は闘うしかない。

なんか、仁さんはもう疲れてて、悠に引導を渡してもらいたがってた感じでしたね。そういうセリフもあった気がする(すでに記憶が曖昧)。アマゾンズを殺すことに「何度やっても慣れねぇな、自分の子どもみたいなもんだしな」とも言ってた、確か。

七羽さんがいなくなって、七羽さんが生んだ自分の息子も始末して、ホントもう、心も体もボロボロだったよね、仁さん。アマゾンをすべて駆除する、っていう妄執だけでどうにか生きてたんだろうし、そのアマゾンの中には自分自身も入ってたから、「さっさと殺してくれよ」ではあったんだろう。

なんとなく、悠なら――悠が生き残っているなら、希望があるのかもしれない、って思ってたんじゃないのかな。仁さんも。

アマゾンを利用しようとする人間がいる限り、ただアマゾンだけを駆除していても、戦いは終わらないから……。

七羽さんに向かって「ただいま。やっと言えた」って言う仁さんせつなかったけど、でも泣けたのはそこよりも三崎くんのとこでした。

解散させられてはまた集められる駆除班のメンバー。悠の母に頼まれて養護施設のある村にやってきた彼ら、施設を抜け出したアマゾンズの若者たちに捕まってしまいます。もともと草食の彼らはすぐには人間を食べない。でも他に食糧もなく、飢えが耐えがたくなってきていて。

三崎くん、「食べていいよ」って言うんだよね。

「仕方ないよな、生理現象だもんな」って。

シーズン1で、マモちゃんに片腕を食べられて、それでも「こんなのどうってことないよ!戻っておいで!」って言えた三崎くん。

他のメンバーもみんなマモちゃんのこと思い出して……私も思い出して……うう。マモちゃーん!

「食べていいよ」って言える三崎くん、すごいよね。仲間でも何でもない相手にもそう言える。理想論で言ってるんじゃなく、ホントに食べられて、その痛みと恐怖と、腕をなくしたハンデを全部体験した上で、それでもまだ言える三崎くん、神か……。


札森さんが相変わらず札森さんで(あの人ほんと肝が据わってるっていうか、ある意味サイコパスなのでは)、最後橘さんがすごくドクター真木っぽかった(ギャグ的な意味で)。

そして野座間製薬会長。

この人をどうにかしないとアマゾンの悲劇終わりそうにないよね。全部知ってるくせに止めないどころか楽しんでるもんな。っていうか最後何食べてたの、会長……。


「食べる」こと、「食べられる」こと、たとえ存在自体を「悪」とされても「生きる」こと。
テーマは本当にすごく好きだけど、仁&七羽成分が足りない。
スピンオフを、どうかスピンオフを!

(おまけ:ちょうど今朝書評が載ってて気になった本『食べることの哲学』。読んでみたい)


(おまけ2:「食べる」といえばこれも忘れられない清水玲子さんの名作マンガ『22XX』。食べる必要がないのに食べる機能のあるアンドロイドと、聖なる儀式としての人食を行う部族の娘の邂逅…)

2018年6月6日水曜日

星組公演『ANOTHER WORLD』観てきました♪

6月2日の15時、VISAと友の会の合同貸切公演を観てまいりました。

大劇場で星組を観るの何年ぶりだろ……。2012年11月の『宝塚ジャポニズム』以来? 6年ぶり???

紅さんと綺咲さんのトップコンビは昨年梅田芸術劇場の『オーム・シャンティ・オーム』を観ているんですが、あれからもうほぼ一年。一年過ぎるの速いな……。

で。

そんな、久々の星組大劇場公演だったわけですが。

めっちゃ楽しかった!!!最高っ!!!!!!

落語ミュージカルと銘打たれたお芝居『ANOTHER WORLD』が本当に面白くて楽しくて、観に来て良かったと心底思いました。

“ANOTHER WORLD”ってGACKTさんの曲にもありますが、日本語にすると「もう一つの世界」。そう、「あの世」です。

いきなり、トップスターさんが死んでます。

蓮の小舟に乗って、「あれ?ここはどこや?そうや、わては死んだんや!死ぬ前は死ぬほど死ぬのん怖かったけど死んでもうたら意外とええもんやなぁ」などと大阪弁でまくしたてる!

さすが大阪出身、紅さんのセリフ回しが素晴らしい。セリフが多くてちょっと早口なので、大阪弁話者以外にはもしかして聴き取りにくいかもしれないけど(^^;)

「地獄八景亡者戯」「朝友」「死ぬなら今」といった落語がモチーフになっていて、紅さん演じる康次郎はのっけから死んでます。両替商のぼんぼんで、なんと死因は恋煩い。「あの世でも借金取り立てて来い!」と父親が借金の証文を棺桶に入れるとちゃんとそれがあの世に届いて、三途の川を渡ったりする時に役に立つ、というのがすごい。

康次郎の恋の相手、菓子屋のいとはん、お澄もまた恋煩いで死んでしまっていて、「同じあの世にいるならぜひ探しに行こう」となるのですが。

袖すり合うも多生の縁で道連れになるのが江戸の米問屋の若旦那、徳三郎とその取り巻き。大金持ちのこの若旦那、「娑婆の遊びにはもう飽きた、あの世なら何か面白いことがあるだろう」とわざとふぐの肝を食べて死んだっていう豪儀なお方でございまして。

大阪の純なぼんぼんと、江戸のいなせな若旦那。水と油かと思いきや、みんなが「死因は恋煩い」と聞いて笑う中、徳三郎は「いや、立派じゃねぇか。“おまえさんがいないとあたしゃ死んじまうよ”とよく言われるが、ホントに死んだやつなんか見たことねぇ。それだけ人を好きになれるなんてすげぇよ」と康次郎を褒める。

おおお、さすが「娑婆に飽きた」からって死んじゃう人は人間の器が違うわいな。

この徳三郎が礼真琴さんなんですが、ちょっと見ないうちに(いや、6年は“ちょっと”じゃないけど)すっかり男臭くなって!!!

びっくりしました。

6年前は少年役だったこともあって「可愛い子だな~」という印象だったのに、すっかり立派な男役。歌やお芝居の巧さは以前観た時にも光っていたけど、さらに「男の色気」が加わって、「何この人すごい」に。

紅さんのコメディエンヌぶりと礼さんのいなせな若旦那ぶりが好対照で、お話の楽しさに奥行きを与えておりました。

「冥途にあるからメイドカフェ」とか、「出演者が全員団十郎、初代から全部揃ってる歌舞伎」などなど、小ネタも楽しい。小林一三翁はあの世とこの世を繋ぐ電車を建設中、もちろん「冥途歌劇団」もあって、美稀さん扮する冥途のスターが「宝塚我が心の故郷」を熱唱(ここ、場面名が「冥途、我が心の故郷」なんですけど、いいのかそれで(笑))。歌舞伎が全員団十郎なら、さしずめこのスターさんは春日野八千代大先生かしらん。美稀さんさすがの貫禄で素敵でした。

続くラインダンスが阪急電車モチーフのマルーン色の衣裳なのがまた! 可愛いし、阪急ファンにはたまりません。

『ベルサイユのばら』ならぬ『ベルサイユの蓮』というポスターが貼ってあり、「演出:植田紳爾」という名前の横に「近日来園予定」と書いてあるとかなんとか。

わはは。楽しいけど大丈夫なのか。
(プログラムに“落語では自分の師匠を登場させるのが慣例なので”と谷先生が書いてらしたので、大丈夫なのでしょう)

全編本当に楽しいんだけど、ただ楽しいだけじゃなくほろっとさせられるところもあって、康次郎が閻魔大王に「みんな一緒に裁きを受けたい」と訴える場面などグッと来ました。

康次郎の恋煩いを笑わず「立派じゃないか」と言うところ、そして「福の神になりたい貧乏神」をも笑わず、「きみの夢を応援するよ」「諦めちゃダメだよ」と言うところ。この、「人を笑わない」っていうのがすごくいい。

人を貶めたりバカにする笑いはしっかり否定して、そうじゃないところで笑わせる。

いやぁ、ほんと、いい作品だったなぁ。

『エリザベート』とか『ファントム』とか、この後大作の再演が目白押しだけど、私はこういう素敵なオリジナル作品をもっと見たいわ。あの世のお話だけど(あの世のお話だから?)康次郎も徳三郎も若衆姿で格好良く、宝塚の日本物の美しさも堪能できて、初めて宝塚を観る人にもお薦めだと思う。

閻魔大王の場面で三面六臂の人がいたのもよくできてて面白かったな~。閻魔大王に「浄玻璃の鏡」と来たらつい「鬼灯さんはどこ!?」と思っちゃうけど(わからない人は『鬼灯の冷徹』を読もう)、もちろんそれっぽい補佐官は出てきませんでした。奪衣婆も『鬼灯』とは違って美人だったし。

閻魔大王役は声ですぐわかる汝鳥さん。さすがのお芝居、貫禄でした。貧乏神のびんちゃんも専科の華形さんが演じていて、華形さんはショーの方にもご出演。

ということで、『ANOTHER WORLD』の後はショー『Killer Rouge』。こちらも華やかでキラキラ☆ 楽しめました~~~。

紅さんにちなんだ「Rouge」というタイトル。のっけから紅い竜で格好いい! あの場面、ビジュアルが大変好みでした。

薔薇モチーフの中詰めでは綺咲さんがなんと「薔薇は美しく散る」を。「あれ?ベルばらじゃん」と軽くスルーしそうになりましたが、ベルばらはベルばらでもアニメのベルばら。今まで宝塚の舞台で使われたことってあったのかな。大好きな曲なので嬉しかった♪

初舞台生のラインダンスは「SAKURA ROUGE 104」と銘打たれ、「さくらさくら」の曲……と思いきや、ケツメイシの「さくら」、森山直太朗の「さくら」、いきものがかりの「さくら」と、「さくらメドレー」。どれももう10年くらい前の曲で、「最近のJ-pop」とは言えないのかもしれないけど、ン十年宝塚を見ている身としては、「こんなに最近のJ-popが使われるなんて!」とちょっと衝撃でした。

時代は変わっていくのね……。もう平成も終わるんだものね……。

しかぁし!

フィナーレの男役大階段では昭和の名歌謡曲「情熱の嵐」がっ!!!

まさか公演中に秀樹の訃報を聞くことになるとは思わず、「紅」→「情熱」というイメージで使ったのでしょうけど……礼さんの歌とダンスがピタリとハマり、感慨深い名場面になってました。うん、この男役大階段は何度でも観たい。

続く紅さんの歌は歌詞の最後が「くれない」になってて心憎かった。これも歌謡曲かなと思ったけど、プログラム見ると「スパニッシュ歌謡」って書いてあって、日本の曲ではないみたい(なんか知ってる曲のような気がしたんですが(^^;))。

貸切公演恒例、最後の紅さんの挨拶までたっぷり楽しんで、一緒に行った母も「久しぶりに観たけど星組いいね。また観に来よう」と高評価。「最近雪組ばっかりやったから新鮮やった」とも。

でも今年はもう大劇場での星組公演はないんですよね。来年のお正月までお預け。あ~次はどんな舞台を見せてくれるんだろ、早くも待ち遠しいぞ~。

 
おっと、来年のことを言うと鬼が笑いますな。うぷぷ。

2018年6月1日金曜日

『AI vs 教科書が読めない子どもたち』/新井紀子



2月に発売され、3月にはもう5刷という話題のベストセラーです。

図書館でもずっと貸し出し中。ほとぼりが覚めた頃にのんびり読もうと思っていたら旦那さんが買ってきて、思いがけず早めに読むことができました。

非常に面白い&興味深いお話でしたし、何より大変読みやすい。論理的で明快、頭のいい人の文章を読むのは気持ちいいです。

著者の新井紀子さんは東ロボくんプロジェクトのディレクターを務める数学者。「ロボットは東大に入れるか」というプロジェクトはメディアでも大きく取り上げられたので、ご存じの方も多いでしょう。

結論から言うと、現在のところロボットは――東ロボくんは、その名に反して東大には入れません。でも、Amazonの表紙画像にもある通り(実際には表紙ではなく帯に書いてあるのですが)、すでに「MARCH」合格レベルには達しているそう。

ええっとMARCHっていうのは……明治、青山学院、立教、中央、法政の5私大。関西の人間には今一つレベルがピンと来なかったりはしますが、要は東ロボくんは“センター入試受験者の上位20%に入った”のですね。

もちろん実際にセンター試験を受けたわけではなく、模試を受けて偏差値を出しているんですが、模試受験者の80%が東ロボくんに敗れたと。

で、著者は

どうすれば、東ロボくんに負けた80%の子どもたちに明るい未来を提供できるのか。そのことと真剣に向き合わなければならない、そう決意しました。 (P62)

と、中高生の読解力調査を始めるのですが、その前に。

・東ロボくんはどのようにして数学や歴史の問題を解くのか

というお話と、

・そこまで賢くなったんなら東大入学も夢じゃないのでは

・AIが人間より賢くなる“シンギュラリティ”の到来が近いのでは

というお話があります。それがこの本の前半部分。



AIにどうやって問題を解かせるのか。その具体的な手法も大変面白いです。

東ロボくんは、世界史と英語と数学では、言語処理一つとってもまったく異なるアプローチを採ることになったのです。 (P54)

数式処理研究とか自然言語処理研究とかオントロジーとか、へぇーと思ったのですが、重要なポイントは「AIは意味を理解しない」ということ。

意味を理解しなくても問題に答えられ、その偏差値が上位20%に入るってすごいですが、AIはコンピュータ上で実現されるソフトウェアであり、数式で記述できること以外は実現できません。数式で記述できる範囲でめっちゃがんばった結果、「MARCH合格レベル」にまで達しましたが、そこから先は今のところ「数式で記述できない」世界なのです。

だから、これ以上チャレンジを続けても、東ロボくんが東大合格レベルになることはない。東ロボくんの演算装置としてスパコンを使ったところでそれは同じ。

「そこそこのサーバーを使って5分で解けない問題は、スパコンを使っても、地球滅亡の日まで解けない」 (P82)

数式化できないものは処理できないわけですからね……。

これ以上偏差値を上げるには「意味がわからないといけない」けど、人間だってなんで「意味がわかるのか」、そもそも「意味がわかる」ということがどういう活動なのか、解明されていないのです。

人間の知的活動のすべてが数式で表現できなければ、AIが人間に取って代わることはありません。 (P2)

なので、シンギュラリティは来ない。

アシモフ描くところのスーパーアンドロイド・ダニール君や、現在放送中のアニメ『BEATLESS』で描かれているような世界は、少なくとも今後数十年の間には実現されない。

『BEATLESS』の中には政治をAIにやらせようという試みも出てきますが、「人の幸福」というものを数値化できない以上、幸福を実現するための「良い政治」も数値化できず、AIに政治判断をさせるのは無理、ということになる。

うん、まぁ、そうですよね。
「心」を持たない、たとえ「形」だけだとしても、自律的に状況判断・価値判断をくだして人間と同じように行動するAIっていうのは……残念ながら……。

 
シンギュラリティは来ないし、AIが人間の活動すべてに取って代わることはない。でも。

やっぱり、人間の“仕事”はかなりの部分、AIに取って代わられることになるだろう。AIにできる仕事はAIがどんどんやっていくことになる。だから、人間はAIにはできない仕事をこなせなければならない。でなければ生き残れない。

AIにできない仕事――それはつまり、「意味」を肝腎とする仕事、ということです。

決まったフレーム(枠組み)の中で計算処理をすることは得意(というか、それしかできない)なAI、

その反対の、一を聞いて十を知る能力や応用力、柔軟性、フレームに囚われない発想力などを備えていれば、AI恐るるに足らず、ということになります。 (P172)

えー、そんな難しいこと……って思いますよね。

そんな能力備えているぐらいなら苦労してないわ、っていう。

AIが人間に取って代わることはないけれど、しかし既にセンター試験模試の偏差値で人間の80%が負けている。AIはまだ意味を理解していなくて、文字通り「機械的」に処理しているだけなのに、その時点でもう80%がAI以下の解答しかできてない。

「もしかして人間も、“意味”わかってない?」

ということで著者は「中高生は文章の意味をどれくらいわかっているか」ということを測るための「リーディングスキルテスト」というものを開発し、調査を始めます。

その調査の結果はメディアにも取り上げられました。(たとえば東京新聞のこの記事「中3の15%、短文も理解困難」。また、この記事に絡んだ昨年9月の新井さんのツイートまとめも話題に)

私もこのお話聞いて「うわー」と思った覚えが……。

で、この本の中には実際に中高生が受けたテストのごく一部が「こんな感じの問題です」と紹介されているのですが。

「え、これ間違うの?」と思うものもあれば、「あれ?正解は3か、間違えた……」というのもあり、意外と難しいというか「私もその程度か~」と凹んだり(^^;)

中高生だけでなく学校の先生や一流企業の社会人、記者さん達にも試してもらってるそうで、やっぱり、意外と間違えるそうな。なのでこの本のタイトルは「教科書が読めない子どもたち」ですが、読めないのは子どもたちだけじゃないもよう……。

ツイートまとめの中にも出て来ますが、残念ながら「読書量」と「読解力」との間に相関は見られないらしく、単純に「本を読めばいい」とか何かをすればいい、しなければいい、という問題ではないそうな。

何につまずいて「理解できない」のか、それも人によって違うらしく、読解力を向上させる簡単な処方箋はない。

ただ、リーディングスキルテストで「どういう分野が苦手か」ということは可視化されるので、そのタイプ別に、「教え方」を工夫することはできるのではないかと。

今まで「画期的な教育法」と呼ばれるものは、山のように提案されてきました。(中略)それにもかかわらず、今回お伝えしているような読解力の状況なのです。 (P245)

私のような一介の数学者がRSTを発明するまで、なぜ「中高校生は教科書を読めているか」という事実を考えようとも、調べようともしなかったのでしょうか。なぜ、数十年前に卒業した中学校の記憶と、自分の半径5メートル以内にいる優秀な人たちの印象に基づいて、こんな「餅」の絵を描いてしまったのでしょうか。 (P239)

「餅」というのはアクティブ・ラーニングのことなんですけどね、はははは。
ホントにねー、これまで色んなこと提案して学習指導要領変えて、でも実際にそれが効果があったのか、どれくらいダメだったのか、ちゃんと検証もしないまま次々と新しいことが提案され……。

センター入試改革についても著者は否定的です。現行のセンター入試はよくできていると。

センター試験の英語を「実用性ゼロの暗記英語」と批判している方々は、おそらく実際にセンター入試の問題を解いたことがないのだと思います。 (P94)

インパール作戦でさえ検証可能な資料が残っているのに、「第五世代コンピュータ」プロジェクトがなぜ失敗したのか、きちんとした報告書は何も残ってない、って話も「日本あるある」すぎて……。「実はあのプロジェクトは成功した」と強弁する報告書ならあるんだって。マジ笑えない。

AIのできない仕事云々以前に、作業マニュアルや安全マニュアルを読んで内容が理解できないと普通に仕事ができなくて困るわけですが、この話で思いだしたのがずっと前の「クローズアップ現代」。

「漢字が読めないから仕事ができない」という案件が取り上げられてたことがあったんですよね。「漢字が読めない→マニュアルや注意書きが読めない→職場が漢字教室を開く」っていう話。

blog記事(読み返すとかなり偉そうに書いてて赤面…)にもしたんですが、なんと2006年。10年以上前です。その後漢字教室を必要とする職場が増えているのかどうなのか知りませんが、2006年にはすでに「マニュアルが理解できない」が顕在化していた……。

RSTでも「漢字が読めない、熟語の意味がわからない」から「そこを飛ばし読み」した結果、誤答したのだろう、という例が出てくるし、小学生から英語だプログラミングだと言う前に、とにかく漢字と文章の理解。

重要なのは中学卒業までに中学校のどの科目の教科書も読むことができ、その内容がはっきりとイメージできるようなリアリティのある子どもに育てることです。 (P258)

やれグローバルだアクティブなんちゃらだと旗を振りながらも、

日本の教育が育てているのは、今もって、AIによって代替される能力です。 (P272)

……この本はすでにベストセラーですが、果たしてこの危機感は文科省に届くのだろうか……。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
で、ここからは余談。

学校の授業で、教科書って、あんまり読まないですよね?
国語の教科書はまぁ音読させられたりするけど、歴史とか理科とか、そもそも授業ではろくに教科書使わなくて先生のプリントで進んでいったり、問題だけやったり。
これもまた「数十年前に卒業した中学校の記憶」なので、今の学校でどうなのかはわからないけど、そもそも教科書を授業であんまり使わないから、生徒が「教科書の文章を理解できているか」なんて、気にしなかったのでは……。

理解できてないと気づいても、理科の先生が「いやこの文章はな」と“文章”を解説することはないだろうし。

一方で国語は「この時作者はどう思ったでしょう」みたいな話になりがちで。論説文とかもやるはずだけど、「国語は道徳」「読書感想文も道徳」という印象しか残ってない……。

なんか、「論理的」であることがあまり褒められない風土という気もするし。理屈っぽいと嫌われる、「小難しいこと言うな」みたいになる。「場の空気」の方が大事なので、「論理的に正しいかどうかは問題ではない」とか。

(新井さんも「現代の社会の中で上手く生きて行くには、場の空気を読むことは非常に大切で、論理的に正しいことや、正しく推論するとそうなるに違いないことを主張し過ぎると、窮地に立たされることがあることを、私も知っています。 (P238)」と書いておられます。新井さん好き)

SNSの隆盛で文字に触れる機会は増えたけど、そのほとんどは短文で、しかも感情の表出が多くて、論理的な文章を書く機会も読む機会もどんどん減っていってるような気がする。書き言葉が話し言葉にどんどん浸食されて、「論理的な日本語の文章」というものが古代の漢文のような、「一部の人しかわからないもの」になってしまっているのでは。

かつては「公的な記録」「できごとを記述する論理的な言葉」はすべて漢文が担っていて、和歌や随筆を主とする日本語の文章は「私的なもの」「感情を表現するもの」だったんですよね。

たとえば橋本治さんの『古典を読んでみましょう』を紹介する記事中の、“昔の文章で大事なのは「ブレスの息づかい」であって「意味じゃない」”って話とか。“現代の日本語はただ意味を説明するだけのものになってしまった”なんてことまで橋本さんおっしゃってる。

おお、そもそも意味わかんないのが日本語か……。

書き言葉が話し言葉に浸食されて意味より感覚や感情が優先されるのって、ある意味先祖返りだったりするのかな。

でも公式記録や教科書はもはや漢文ではなく日本語で書かれているんですから、「そーゆー日本語」をちゃんと扱えないとやはり困る。

しかし読書の多寡が関係ないとしたら、読解力ってほんと、どういう仕組みで涵養されるものなんだろう……。

2018年5月19日土曜日

『メカ・サムライ・エンパイア』/ピーター・トライアス



(※単行本も同時発売になっています)

“第二次世界大戦で日本が勝ち、日本統治下となったアメリカ西海岸で巨大ロボットが闊歩する!”世界を描き、“『高い城の男』&『パシフィック・リム』だ!”と話題になった『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』の続編です。

前作では「え?メカほとんど出てこないじゃん…」と肩すかしを食ったのですが、



という著者トライアスさんのツイート通り、今作はメカ・パイロットを目指す少年が主役! がっつりロボット戦もあって「メカ・サムライ」というタイトルを裏切りません。

39歳の、酸いも甘いもかみ分けたみたいな、どこか飄々としたおじさんが主人公だった前作は、色々とややこしい陰謀やらグロい拷問やらあって刺激が強かったですが、今回は若者の成長物語といった雰囲気になっていて、とても読みやすくとっつきやすい。

SFとか翻訳物苦手……という人はむしろこちらを先に読む方がいいかも。

(※以下、ネタバレ含みます。これからお読みになる方はご注意ください)


物語は前作から6年が経った1994年。前作の時点ですでに戦後40年が経っていたんですが、さらに6年の月日が流れ、主人公・誠は「日本合衆国(USJ)」の存在を当たり前に育った18歳。高校卒業を控え、今後の人生を大きく左右する帝試に向けて勉強に励んでいます。

メカ・パイロットの母と整備士の父は10年前に亡くなり、“意地悪な”養父母のもとでつらい子ども時代を送った誠。母と同じメカ・パイロットを目指しているものの、正直そんなに成績は良くない。USJで一番の陸軍士官学校、通称「BEMA」に入学するにはとても点数が足りないけれど、軍事科目でいい成績を出せればもしかして……!

そのわずかな可能性に賭けて毎日天皇陛下に祈る誠なのですが。

この「軍事科目でいい成績を残せれば特例で」というところで、久地樂(母)の名前が出てくるのですよね。前作でのメカ戦闘を一身に担っていた久地樂母子。

のちに最高のメカパイロットとして有名になる、久地樂という暗号名の候補生だ。 (上巻P16)

久地樂って暗号名だったのか!
前作のキャラクターがこういう形で出てくるの、にやりとさせられます。

歴史や数学といった普通教科の勉強もできる限りがんばり、軍事科目(シミュレーションでのメカ戦)でも必死でくらいつく誠。

でも。

その模擬戦、最初から誠にだけ異常な負荷がかけられており、実力を発揮するどころではありませんでした。それどころか安全装置が切られていて、シミュレーションのはずなのに実際に肉体を痛めつけられることに。

誠のことを快く思わない教官が、「試験」ではなく「懲罰」として、そのように仕組んでいたのです。

「挑戦することも許されないのですか?」
「貴様の挑戦など機甲軍への侮辱だ」
「僕の両親は皇国のために殉死しました。友人は皇国でもっといい人生を送ろうとして死にました。そんな彼らの名誉のために受験するのもだめだというのですか?」 (上官P102 一部省略)

この上官めっちゃ腹立つわー。
すごく“ありそう”な話なのがまたなー。

このシーンより前に、「皇国でもっといい人生を送ろうとして云々」の友人が

「両親は究極の犠牲になったのに、その子どもはこんな仕打ちを受けるのか? 帝国に命を捧げるのは愚かな決断で、俺たちはその報いを受けるのか?」 (上巻P47)

って教師にくってかかるところもあって、誠もその友だちも親を「名誉の戦死」で亡くして、親は「英霊」なんて呼ばれるのかもしれないけど、その実遺族は(とりわけ孤児は)苦しい生活を強いられるだけ。「僕らのような孤児にはなんの権利も庇護もないのだ。(上巻P47)」

嗚呼……ほんとありそう………。

将来を悲観した友人は事件を起こして、親しかった誠も関与を疑われ、だから試験でも教官に「貴様の挑戦など!」という扱いを受けたんだけど、事件の直後に特高の尋問も受けていて。

その、特高の人が昭子。

前作でベニコとともに主役だった槻野昭子なのです。

昭子、まだ特高にいるのかぁ。前作の最後で皇軍からもアメリカ人からも攻撃され、「あたしたちはどちらにも属していない」と言っていた昭子。生き残ってしまったのは酷だったのでは……と思ってた。

まだ特高で――それでも特高で、皇国のために働いているのか。

でも誠への接し方を見ると、昭子は自分の信念のために働いているように見える。相変わらず強面で厳しいけど、先に尋問した警察連中が誠をボコボコにして連れてくると、「無事に連行しろと言ったはずだ」と詰問。「偶然こけたんですよ」と答える警官たちに

「すまんな、偶然ぶつかった」 (上官P83)

と顔面パンチにまわし蹴りをお見舞い。
きゃー、昭子ーっ! 格好いい!!!

「彼を救えなかった記憶を生涯持ちつづけろ。それが貴様の罰だ」 (上巻P86)

ってセリフも昭子自身のことを言ってるみたいで、「どちらにも属していない」を自覚しながら、それでも生きて、特高だからこそできる仕事をやっているんだなぁ、って。

決して出番は多くないんだけど、ほんとこういうふうに前作のキャラ出てくるの心憎い。

そんなこんなで試験には受からなかった誠、民間のメカ警備会社RAMDETの訓練キャンプに入ることになります。このキャンプがまたすんごいスパルタなんですが、それでも誠は耐えてメカの操縦も経験し、キャンプを無事卒業するところまでこぎつけます。

が。

卒業試験代わりの訓練ミッションで思わぬ悲劇が……。

そこで生き残ったことで誠はBEMAに入学できることにもなるので、「禍福はあざなえる…」でもあるのですが、BEMAでもがんばった誠、「五虎」と呼ばれる候補生のトップ集団の一員に。

その「五虎」の中にはなんと久地樂(息子)もいます。誠とは寮で隣同士。しかも昭子直々に「仲良くしてやってくれ」って誠に紹介するんですよね~。「あいつには友だちが必要だ(下巻P30)」って、昭子やっぱりいい奴。

RAMDETの訓練ミッションで誠と一緒に生き残った千衛子、そして同じ高校で超優等生だった(BEMAでも依然として優等生)範子と、五虎のメンバーはほぼ誠の知り合い。残る一人は兵卒からBEMAに入学したカズ先輩。既婚者で双子の娘もいます。

「いうまでもないが、兵士の命は上官しだいだ。上官が考えなしだったり、部下の話を聞かずに無茶な突撃をするとひとたまりもない」 (下巻P269)

バカな上官に従うのもごめん、部下にバカな命令を下すのもごめん、だから士官になるべく努力してBEMAに入った人。

しかしその五虎をまたしても悲劇が……。

誠はそういう星に生まれているのか何なのか、RAMDETの時も五虎の時も、ナチスのバイオメカに襲撃されてしまう。

「第二次世界大戦で日本が勝った世界」というのは「日本とドイツが勝った世界」ということで、アメリカは日本とドイツ(第三帝国)に分割支配されているわけです。このお話の時点で日本とドイツは戦争してるわけではないんだけど、アメリカ人のテロに手を貸す形とか諸々でバイオメカが日本側を攻撃してくる。

表紙イラストに描かれたゴジラみたいなのがそのバイオメカ。こいつの設定がなかなかエグい。攻撃しても攻撃しても再生してくるドロドロした外殻はなんと「死体由来の生物組織」。パイロットは四肢を切断され、直接メカと接続。

うわぁぁぁぁぁ。

なんだっけ、ガンダムサンダーボルトだっけ、メカと繋ぐために健康な腕まで切り落とされちゃうやつ。

なんで人間ってそんなことまでしちゃうのかな。そりゃ「やれ」と命令する方は、自分がやるんじゃないから言いたい放題だろうけど。

「あいつら人を人と思うとらん。使えるもんは使い倒す。家族やら名誉やら忠誠やらの話は聞く価値ない。人をうまいこと働かすための方便や」 (下巻P124)

久地樂の言うとおり、上層部は下っ端の命なんてなんとも思っていないようで、実は誠が遭遇した二つの悲劇にも裏がありそうなんですね。

RAMDET時代の悲劇は、指揮を執っていた教官の先生が途中で「おかしい」と気づいて上司に問い合わせるんだけど、上司は「任務に変更なし」と言うばかり。「こっちは卒業前の訓練生だ」と訴えているのに……。

どうも上の方は敵の襲撃を知っていて、あえて彼らを「生け贄」にしたみたいなのです。

厳しいけれども誠たちがよく耐えて卒業を目前にした時には心からの言葉をかけてくれ、「訓練生には無理だ」と判断してちゃんと命令中止を求めてくれた先生(まぁ最終的には命令に抗えなかったんだけど)。そんな先生も、もう少しで卒業してRAMDET本部に配属されるはずだった仲間たちも、この事件で死んでしまう。

そしてBEMAで五虎が遭遇した事件も、ドイツ側から事前に警告があって、“上”は知ってたはずなんですよね。その証拠に、事件時主力メカ部隊は不在。いくらエリート集団と言っても五虎はまだ「候補生」に過ぎない。ちゃんとした軍隊の留守時を向こうが狙ったのか、こっちがわざと軍隊を不在にしたのか。

もしも知っててあえて誠たちを「生け贄」にしたのなら、その目的は何なんだろう。正規の軍隊を損なわずにバイオメカの実力を知りたいとかなんだろうか。でも範子なんかはめっちゃ優秀な候補生で、彼女を捨て駒にするのはすごくもったいない気がするのに……。

裏でドイツと日本の“上”は繋がってて、時々悲劇を起こすことで互いの国民の敵国への憎しみを煽り、それを政治利用しているとかなの???

誠の高校の同級生で日独ハーフのグリゼルダのセリフに

「USJに反撃の余力を残すためよ。究極の狙いは皇国と第三帝国に戦争を起こさせることだから」 (下巻P295)

っていうのがあって、この間のガンダム(ORIGIN映画6作目)と同じく、「なんだかんだみんな戦争がしたい」ということなのか。なんでそんなに戦争したいん……。

ドイツからの留学生として誠と同じ高校にいたグリゼルダ。

「わたしのような混血はもっとひどいわ。どちらからも受け入れてもらえない。忠誠心はどちらの側にあるのかといつも問われる。(中略)わたしは、どこが母国なのか自分でもよくわからないのよ」 (上巻P193)

「わかってないわね。わたしのような立場の者に終わりはないのよ」 (下巻P312)

どこにも居場所がない、どちらにも属していない――昭子に似てますね。ラスト近くでグリゼルダを守る五虎の姿にはジーンとしてしまった……。

混血であるがゆえに、「どちら側につくのか」という選択を常に迫られ、葛藤しなければならないグリゼルダ。でも、「皇国民」であることを当たり前にしている誠も

若者は捨て石だ。きびしい訓練に耐えれば自分の価値が上がると思っているが、実際にはなにも変わらないのだ。 (下巻P126)

という現実に直面しているし、英雄扱いされ華々しいニュースになっても、「現実はそんないいもんじゃなかった」ということをもう知っている。皇国民であること、国家に――“上”の命令に従うことは、果たしてもっとも優先すべきことだろうか?


憧れのメカ・パイロットへの道を歩み出し、ここまで生き延びてきた誠。「謝辞」の中で著者はすでに第3作執筆について言及していらっしゃいますが、次作では昭子や誠たちはどうなっているんでしょう。山崗大佐の真の計画って一体……。なんかあの人、信用できない気がするんだけどもなぁ。

2018年5月14日月曜日

『機動戦士ガンダム THE ORIGIN Ⅵ 誕生 赤い彗星』観てきました

(※以下ネタバレあります。これからご覧になる方はご注意ください)

◆これまでの感想記事はこちら→『Ⅰ 青い瞳のキャスバル』『Ⅱ 哀しみのアルテイシア~』『Ⅲ 暁の蜂起』『Ⅳ 運命の前夜』『Ⅴ 激突 ルウム会戦』

【Blu-ray&DVDは7月13日発売】


【Amazonビデオでの視聴はこちら】


はい、また京都まで遠征して観てきました。正直だいぶ面倒くさくなってたりもしましたが、5作目まで観て最後を観ないわけにもいきません。

感想は……。

マ・クベがすごくマ・クベでした!

すごく塩沢さんぽくてびっくりしました。ググったらマ・クベ役の山崎たくみさん、生前の塩沢さんと親交があられ、J9シリーズ(ゲーム)等でも塩沢さんの後継を務められているらしく。

素晴らしかったです!

あとは――。

戦争

戦争が主役でした。

5作目観た時も、コロニー落としのために毒ガスで殺される人々とか、なんかよくわかんないうちに戦争始まって、よくわかんないまま殺される、「ああ、戦争ってこうなんだろうな」と思わされたし、「戦争はしかし、始まったばかりだった」というナレーションに「うわぁ……」ってなったんだけど。

今回も、「始まってしまった戦争はそう簡単に終わらない」んだなぁと。

ってゆーかこれ、レビルが一番悪くない?

デギン陛下が「バキッ」と電話だか無線機だかを壊して「レビルめ……!」ってなるところ、私も「おのれレビル……」ってなったもん。

いや、まぁ、デギン陛下が甘すぎると言えばそうなんですけどね。捕虜になっていたレビルを逃がしてやったところで、デギンの思う通り行動してくれる保証は何もない。「この戦争はやめなければなりません」ってレビルも言いはしたけど、「今すぐやめなければ」とは言ってないし、そもそも捕虜として敵の頭領と喋ってる言葉のどこまでが本心か……。

デギン陛下、東都の首相(※わからない人は仮面ライダービルドを見よう)並に人がいいよね。

まぁ仮にレビルもいい人で、デギンの意を汲んで休戦を訴えてくれたとしても、他の人たちに戦争をやめる気がさらさらないわけだから、休戦条約が結ばれたところですぐに破棄されたのかもしれない。

すごくマ・クベなマ・クベ様が全権大使として派遣された休戦交渉の場。マ・クベを送ったのはキシリア様で、キシリア様はデギンに「キシリアがついております」って言って、レビルを逃がしたのもキシリアの手の者なんだろうな、と思うんだけど、でもキシリアは「戦争は続行されなければなりません!」ってマ・クベに言ってて……。

ふぉーん。大人たちの考えること、よくわかんないよ(´Д`)

ギレンも戦争めっちゃ続けたい派やん? そのギレンを止められるのはきっとおまえだけだ、ってデギン様言うわけやん? そんでキシリア様「合点承知」で、わざわざマ・クベにまで「うち、ギレンのこと嫌いやねん」って告白して、でも戦争続行の部分はギレンと同意見なん?

なんで?

戦争続けるとキシリア様的にどういいの???

連邦的には「ここで休戦するのは休戦じゃない、降伏だ」ってなるのわかるんだけど。

ギレンにしてもキシリアにしても、ジオン公国を認めてもらうだけじゃ足りない、私をそんな小物と思わないでもらいたい、ってことなんかなー。

「こんな戦争さっさと終わらせるべき」って思ってるの、デギン陛下だけなんだもんね。そしてデギンだって、「休戦に応じるからジオン公国なんてやめろよ、自治は認めてやらないこともないから」とか言われたらちゃぶ台ひっくり返すんだろう。

いったん始まっちゃったら簡単に終われないのが戦争で、だからほんと、戦争なんか始めちゃダメなんだ、って、レビルの演説聞きながら思いました。

最後、そのレビルの演説を、サイド7へ向かうセイラさんや、カイさんも聞いてて。

セイラさん、原作ではヤシマ氏(ミライさんのパパ)を頼ってサイド7へ行くみたいな描写だったけど、映画では病院長っぽい人から「サイド7へ行ってみたら?」って言われてた。

セイラさんとシャア(というかエドワウ=キャスバル)はもともとサイド5のテキサスコロニーにいて、で、シャアがジオン軍に行ってしまった後、セイラさんはサイド5の首都バンチ・ミランダの病院で看護士やってるような感じだったんですね。

「ルウム戦役」の“ルウム”はサイド5のことで、ジオンの勢力下に入ったサイド5に留まることのできないダイクンの遺児セイラさんは、「ならサイド7に行ってみたら? あそこ無医村状態だし」と勧められるのです。

テアボロさんが生きていたら、テアボロさんのために危険を冒してサイド5に居続けることもあったかもしれないけど……。セイラさん、本当に孤児になってしまったんだもんね。

「行きます、サイド7へ!」と宣言するセイラさん。

ちょっと、大げさなぐらいの答え方なんだけど、これ――このセリフ、「そして“ガンダム”が始まる」っていう象徴なんだろうな。

ミライさん父娘もサイド7にやってきていて、ミライさん、お父さんから「第一志望はカムランか?」とかからかわれて赤面してた。

すでにサイド7にいるフラウは水遊び中。カイはそのそばで寝転んでレビルの演説を聴き、通りすがったハヤトは子ども達(カツ・レツ・キッカ)に無理矢理水の中に引き込まれる。

そしてアムロは。

アムロも通りすがって、フラウに「一緒に水浴びしようよ!」って声かけられるんだけど、暗~い思い詰めたような顔してプイッと遠ざかっていく。

そのシーンより前に、アムロは「ガンダムって何です!?」って軍の施設に乗り込んで行って、あげく自宅をガサ入れされ、部屋の中の一切合切を持ってかれちゃってるんですよね。

原作にはないエピソードのような気がするけど(今回の映画はおおむね原作14巻の内容が映像化されてます)、別の巻にあったりする???

アムロがいじってたコンピュータだけでなく、家具調度まで全部なくなってたけど、アムロ、あの後どうやって生活してるんだろ……。すっからかんにされたのはアムロの部屋だけだとしても……。

でもこうしてみんながサイド7に集まってきて、それぞれの傍らに「ホワイトベースに乗艦云々」ってテロップが出るとホント、「ああ、ガンダムが始まるんだ」ってドキドキしますね。

シャアもドズルから「連邦のV作戦とやらを阻止せよ」と命令を受けているし、エンドクレジットの後にはサイド7へ向かうホワイトベースのシーン。

すべての糸がサイド7に集まってくる。

ガンダムが、1stの世界が、始まる――!

むしろ今回が「運命の前夜」って感じがしました。赤い彗星はもう前作の「私にひざまずけ!神よ!」で誕生しちゃってる気がするし、前作と今作は本当に「ルウム戦役を描く映画」で、必ずしもシャアは主役じゃない。

シャアもまた、戦争という大波に翻弄される駒、あるいは戦争という大波を構成する小さな波の一つにすぎない。

ガルマがシャアに、「ぼくには無理だと、今そう思ったな!?」と勝手にキレるシーン面白かったし(ガルマってかなり情緒不安定だよね(^^;))、シャアとドレンさんとのやりとりも楽しかったけど。

「私は大宇宙の戦士だ。どんな艦(ふね)よりも速く、自由に天(あま)かける戦士だ」とか言い出したシャアに、「え、何、この人、厨二?」って表情で引いてるドレンさんすごく好き(笑)。

そのドレンさんと自艦の訓練するはずが、レビル将軍がこっそり逃げようとしてる艦(ふね)に出っくわしちゃって……のシーンも一つ見せ場ではあった。

レビルの姿を認めた時点でシャアは全部察しちゃうんだけど――「あやうく最高の政治ショーをだいなしにするところだった」って、やっぱりシャアも、「これはまだまだ戦争を続けるための策」だとすぐ理解したってことなんだよね?

それが休戦のためになる、って思ったの、デギン陛下だけ……。

ミライさんパパの言うとおり、「なんだかんだみんな戦争がしたい」んでしょうね……。

 
冒頭の艦隊戦、そしてそこへ割り込んで圧倒的な機動性で連邦軍を叩くモビルスーツ。その映像は圧巻で、うぉぉ、と思います。

あ、そうだ、そこにリュウさんも出てくるんだよね。

偵察機に乗ってて、いきなりジオン艦隊に遭遇しちゃって宇宙空間に放り出され、「あっという間に人は死んで、ゴミになる…」

あの後無事連邦の艦に救助されたんだろうけど(でないとホワイトベースに乗り込めない)、よくあそこで死ななかったなぁ、と。

途中だから、リュウさんにはフラウ達みたいにテロップが出ないのが少し残念でした。カツ・レツ・キッカにもテロップ出てほしかったなー。

えーっとそれから、マ・クベが美術館だか博物館だかで「これも贋作だ」つって館長(?)を嘆かせてるシーン、どう見てもローマじゃないのに「ローマ時代の仮面劇に使われたといわれるもの」って説明して、さらに般若の面を「それもローマ」っていうの面白かった。

原作通りなんだけど、アニメで見るとさらに楽しい。

ガルマがドズルに「ぼくも前線に出たい!」って直談判するシーン、原作では軍の執務室みたいなとこなんだけど映画ではドズルの家らしく、隣にミネバを抱いたゼナさんがいて、ゼナさんが「あなた、便宜をはかっておやりなさいな」って感じでドズルの腕をツンツンして、それで「ギレン兄に話してみよう」になる。

ガルマの剣幕にミネバがぐずってるし、ゼナさん的には「さっさと帰ってほしい」だったんだろうなぁ。

あのシーン、ザビ家の生き残りとして宇宙世紀のガンダムを繋ぐことになるミネバをどっかに出したい、っていうスタッフの思いもあったのかな。

エンディング、クレジットとともに「HOLLYWOODをバックにしたガルマ様」とか、「さぁみんな位置についたぞ!」みたいなカットが流れてわくわくするんだけど、でも歌が山崎まさよしで、「え…」ってなりました。

歌自体は悪くないし山崎まさよしが嫌いなわけでもないけど、宇宙世紀からいきなり現代日本に引き戻される感じで……。なんで山崎まさよし、と思わずには。

【エンディングテーマこちら】


クレジットの後、前述した通りホワイトベースのシーン。あああ、ブライトさぁぁぁぁん! 成田剣さんもすごくブライトさんだよね。セリフが少なくて寂しい。

ホワイトベースにはテム・レイが乗っていて、ついにガンダムが完成したぞ、ってアムロの写真に語りかける。

ガンダムという言葉と、アムロの姿で映画は終わる。そして

「ここから“ガンダム”が始まる」という英語テロップと、「君は生きのびることができるか」のナレーション。

ああああああああ、始まって! 続けて「翔べ!ガンダム」始まって!

みんなが位置についただけでスタートしないとかぁぁぁっっっ。


でも本当は、ここで終わっておくべきだったんだよなぁ、戦争……。