2017年6月24日土曜日

『銀河帝国の興亡』第2巻/アイザック・アシモフ



はい、2巻です。(1巻の感想はこちら

間に別の本をはさむとあっさりお話を忘れてしまう私のような者のために、まず「プロローグ」という形で1巻のおさらいをしてくれます。親切。

二百年目の終わり頃には〈ファウンデーション〉は、天の川の第三中心部に集中して、いまなお宇宙の人口と富の四分の三を占める〈帝国〉の残存部分をのぞいては、銀河系の中で最強の国家にまでなっていた。 (P9)

全体は二つのお話に分かれていて、一つ目の舞台はシウェナ! 1巻でホーバー・マロウが訪れていた星です。四十年前のその訪問が「魔術師との遭遇」として語られるのです。

うぷぷ。

語り手はかつてマロウを迎えた男の息子。

「父は亡命中、一人の放浪者と出会いました。相手は〈銀河系〉の端から来た商人でした。奇妙なアクセントでしゃべる青年で、最近の〈帝国〉の歴史についてはかいもく知らず、個人用の力場防御壁(フォース・シールド)で身を守っていました」 (P23)

この年老いたシウェナ人デューセム・バーと、〈ファウンデーション〉の貿易商人ラサン・ディヴァーズが〈帝国〉相手にちょっとした冒険を繰り広げるんですが……。

すでに、〈帝国〉では「ハリ・セルダン」の名前が忘れられているし、

「〈ファウンデーション〉だと? それはなんだ?」
「わたくしは古い記録文書をたんねんに捜してみましたが、それについては何も記録が残っておりません、陛下」 (P54)

ええー、〈ファウンデーション〉のことも忘れられてるの? 記録を探してもないの??? 〈帝国〉の公文書管理ずさんすぎない?と思うけど、これはまぁわざとセルダンが「消した」のかもしれません。〈ファウンデーション〉に心理歴史学者を移住させなかったのと同様、彼の目的のためには自分達に関する資料を残さない方が都合が良かったのかも。

すっかり弱体化している〈帝国〉だけれども、中には有能な将軍もいて、有能というか「好戦的」とみなされて外縁星域に送られていたベル・リオーズという男が、〈ファウンデーション〉を攻撃し始めます。

リオーズの艦隊に攻め込まれて劣勢の〈ファウンデーション〉を救うべく、ディヴァーズとバーは帝国の首都たるトランターまではるばる乗り込んでいきます。その行程はなかなか面白く、どうなるんだ?と思うんですが。

どうともならないんですね。

彼らの「活躍」には意味がないんです。なぜなら

「死んだ手が、われわれ全部を押しているのです。あの強い司令官や、偉大な皇帝を、わしの世界とあなたの世界を――ハリ・セルダンの死んだ手がね」 (P132)

セルダンが、というより、人間の「心理のあや」で、強い将軍と強い皇帝は並び立たない。野心を持っていようといまいと、強い将軍は皇帝に疎まれ、排除される。〈ファウンデーション〉やディヴァーズとは無関係に。

ディヴァーズの「活躍」がけっこう面白かっただけに、このオチには「やられた」感がありました。しかも最後の最後、「もうこれ以上敵はないわけだ」と言う〈ファウンデーション〉の偉いさんに対して、「もしかすると、内部に敵がいますよ」と答えるディヴァーズ。

「たとえば、もう少し富の分散を望み、それが労働して獲得した者たちの手から抜け出して、あまりどこかに集中しすぎないようにしたいと思っている国民ですよ。わたしのいうことがわかるでしょう?」 (P135)

ふふふ。アシモフさん心憎い。

ってことで二つ目のお話は〈ファウンデーション〉の内乱の話になるのかと思ったら……。

「ミュール」という正体不明の敵が出てくる。
〈ファウンデーション〉の上層部に対する反乱の芽は確かにあったんだけれど、「ミュール」という敵が出てきたことで、それどころじゃなくなる。とにかく「ミュール」をなんとかして、〈ファウンデーション〉を守らなければ。

「突然変異体(ミュータント)」という噂だけがあって、誰もその顔を見たことがない「ミュール」。〈ファウンデ-ション〉に属する星々は次々に「ミュール」の軍門に降ってゆく。

〈ファウンデーション〉の危機。今回のこともきっとセルダンが予見していたはず。「時限遺品館」にセルダンの立体映像が出現するのを固唾を飲んで見守っていた〈ファウンデーション〉の人々。

けれども彼らは裏切られます。現れたセルダンは、「〈ファウンデーション〉は今はじめて内乱に直面したところだろう」などとピントのずれたことを言うのです。ミュータントという言葉など何一つ出てこない。セルダンは、「ミュール」への対処法など、まったく教えてくれませんでした。

果たして〈ファウンデーション〉は、生き残ることができるのか――!?

1巻の最初の方には書かれていなかった気がするんですが、〈ファウンデーション〉は実は二つ作られていました。もう一つの、便宜的に〈第二ファウンデーション〉と呼ばれるものの在りかは誰も知らない。2巻の一つ目のお話で、帝国の記録には〈第一ファウンデーション〉のことすら残っていませんでしたが、〈第二〉の方はさらに念入りに隠されていて、研究者が必死で調べてもなかなかわからない。

「ミュール」に対抗するためには〈第二ファウンデーション〉の存在に賭けるしかない。そしてもちろん「ミュール」の方もその情報を狙っている。

「ではよく注意して聞きなさい。〈第二ファウンデーション〉は精神科学者の世界だった。それはわれわれの世界を鏡に映したようなものだ。物理学ではなく、心理学が君臨していた」 (P351)

「それは今までひた隠しに隠されてきた。その秘密は、今後も守られなくてはならぬ。それなりの目的があるのだ」 (P357)

寝食を惜しんで調査研究に勤しんだ科学者がようやくその秘密にたどり着いた時、思いがけない結末が……。

ううむ、この終わり方もなかなか。

で、次の3巻目、ハヤカワ版ではずばり「第二ファウンデーション」となっていて、そちらへ舞台が移るよう。



〈第一ファウンデーション〉はミュールにやられたまま、もう復活しないのかな。

そしてセルダンの「死んだ手」はもう何もできないのか。「ミュール」の存在などまったく予見できなかったみたいだし、この巻の結末も、一人の聡明で勇敢な女性が自身の力だけで対抗したようなもので。

「個々人の行動」を読めるわけではない心理歴史学には、ただ一人生まれた「ミュータント」や、そのミュータントと個人的に関わりを持つ人間の行動など、読めるはずもない……けど、心理学が君臨する〈第二ファウンデーション〉は、もちろんこの事態を予測していたのか!?


3巻目、借りてきます。

2017年6月23日金曜日

久しぶりに『DIABOLOS』



タイトル通りなんですが。
久しぶりに『DIABOLOS』を聞いてます。

GACKTさんの曲はほぼ全部取り込んでPCでもネットワークオーディオでも聞けるようにしてあるんですが。

今のPCには『DIABOLOS』のデータを入れてなくてですね。
けっこう長いこと聞いてなかった。

「届カナイ愛ト知ッテイタノニ 抑エキレズニ愛シ続ケタ…」があんまり好みじゃないので、「ま、いっか」と思ってたんですよね。『MARS』や『MOON』といった初期アルバムはビットレート高くしてわざわざ取り込み直したぐらいなのに、『DIABOLOS』はいいか、と。

で、ふと思い立って聞いたら「あれ?いい曲ばっかりやん」。「Farewell」も「Noesis」も「Ash」も「Future」も「Storm」もええやん、好みやん。

まぁ当たり前なんですけど。
GACKTさんの曲って、最初ピンと来なくても聞いてるうちに結局全部好きになっちゃうから。

でもなんというか、「あ、MOONだ」「昔の音だ」みたいのは感じます。『DIABOLOS』は中世的世界観だし、バックの音がファンタジックでいいなぁ、と改めて。

発売当時はくり返し聞いてたはずだけど、ほぼPCでしか流してなかったはずだから、ちゃんとしたスピーカーで聴くと当時は気づいてなかった音も聞こえてくる……ような気がする。そもそも久しぶりなので、忘れてるだけなんやろうけど……。

発売、2005年ですもんねぇ。
12年前。

♪時の流れは残酷すぎて~♪ (「Storm」)

東京ドームのクリスマスライブの時、息子ちゃんまだ小学1年生。ライブの爆音にビビってた子も今や大学生やもん、ほんまビビるわ……。



「Ash」とか「Storm」とか、また生で聞きたいなぁ。
次のライブいつかなぁ――。

2017年6月21日水曜日

『ケルン市警オド』第2巻/青池保子



(1巻の感想はこちら

『修道士ファルコ』の良き相棒、兄弟オドの市警時代を描いたスピンオフ作品、待望の第2巻が出ました♪

1巻も面白かったですが…2巻も楽しかったです。山奥の僧院に秘められた謎を解き明かしに行った1巻とは違って、2巻ではお膝元ケルンが舞台。

貧しい平民の少年が変死体で発見され、「食中毒」として片付けられそうだったところ、オドはその死体の状況に疑問を感じます。「これは事故ではなく事件では?」

「貧しいレンガ工の子どものためにわざわざ捜査するのか?」と上司に言われながらも、部下フリートとともに捜査を始めるオド。

貴族たちのいさかいによる傷害事件で少年の死が忘れられそうになっても、オドは逆に「そちらに気を取られている今がチャンス」と真相解明に突き進みます。

やっぱりすごく“少佐”なんだけど、少佐よりは立場がだいぶ弱くて礼儀正しいし(笑)、死んだ少年とその家族のことを気にかけるオドの優しさがとてもいいです。

最後、少年のことを忘れていない人が他にもいた、っていう終わり方がホントにね~。青池先生ご自身の優しさですよね。

1巻のお話よりわかりやすい感じがするし、1巻の最後で修道士ペトルスが紹介した「薬草に詳しい修道士カイ」も登場。

「師とか弟子とかは面倒臭い 「友」でよかろう 友で」ってセリフに痺れます、カイ修道士。

「修道士の頭巾」という異名を持つ有名な毒草トリカブトが出てくるところといい、修道士カドフェルのシリーズをやっぱり思い出してしまいますね~。(カドフェルの3巻目、ずばり『修道士の頭巾』というタイトルでした)

カドフェルシリーズ、全部読み終わっちゃうのがもったいなくて中断したままなんですが、『ファルコ』や『オド』を読んでるとまた読みたくなってきます。

オドは14世紀の治安役人。貴族と平民の格差は激しいし、司法も現代とは違って、さほど“正義”や“真実”は追求されない。オドが不審に思わなければ少年もあっさり「食中毒、事故死」として処理されてしまっていた。そんな中奮闘するオドの姿がいいし、今とは違うからこその温かみがあって、楽しいです。

『エロイカ』の続きも読みたいけど、このシリーズも長く続いてほしいなぁ。オドが修道士になったきっかけまで描いてくださるかな……。

2017年6月16日金曜日

『知性の顚覆~日本人がバカになってしまう構造~』/橋本治



e-honから橋本さんの6月発売の本の新刊案内が来て、Amazonさん見に行ったら5月にこれも出てました。

なぜe-honはこちらの「新刊案内」を送ってこなかったのか。来てたのに見逃したのかな。

ともあれ「読まねばならぬ」と早速図書館で借りてきました。原則橋本さんの著書は買って読むことにしてるんですが、冗談抜きで本の置き場所がヤバいので、タイトルからして「いつもの話かなぁ」と思って“こっち”は買わずにすませました(6月発売の方は買った)。

読んでみたらやっぱり面白くて、買えばよかったかな……と思ったけど(^^;)


この本の元となった『知性の顚覆』という評論は、『小説TRIPPER』誌に2015年の夏から2017年の春まで連載されたものです。

「ヤンキーに本読ませなきゃだめだよ」という橋本さんの言葉がきっかけで始まった連載だそうで、第一章のタイトルはずばり「ヤンキー的なもの」。「知性」の周辺を絡め手から攻めていっていたらEU離脱とトランプ大統領誕生で、「本当に顚覆しちゃいましたね」っていう。

いつも橋本さんの本は、読んでる時はすごくわかる気がしてどんどんページを繰れちゃうのに、後で何が書いてあったかまとめようとすると「あれ?」ってなっちゃうんですが、今回は特に難易度高いです。

橋本さんご自身が「あとがき」で
この本を改めて読み直して、「むずかしい本だな」と思いました。 (P226)
と書いてらっしゃるぐらい。

わかりにくいところ、「飛躍している」ところがあるけれど、
私がその「飛躍」を残したままにしているのは、そこを受け手の人にそれぞれ埋めてもらいたいからです。 (P228)
と。

何しろ、

この現代で「知性」というものは、様々に存在する複数の問題の整合性を考えるもので、一昔前のもっぱらに自分のあり方だけを考える「自己達成」というような文学的なものではないのだ。 (P204-205)

なのです。橋本さんのご本の「いつもの話」、つまり「わかりやすい正解はない」「面倒でも自分の頭でああかな?こうかな?と考えなければならない」、ということ。

って、これ最終章の「顚覆しちゃいましたね」に出てくるフレーズで、いきなり結論になっちゃってますけど。

そこへ至るまでに、「ヤンキーとは何か」、そもそも「知性」とは何か、そして昨今のトランプ現象に見られるような「反知性主義」はどうして生まれるのか、というお話があります。

キーワードは「不機嫌」

反知性主義の根本にあるのは、「ムカつくんだよ」という不機嫌な感情なのだと、私は思う。 (P207)

なぜムカつくか、っていうとその人があんまり幸せじゃないからで、単純に「不幸」「悲しい」じゃなく「ムカつく」になってしまうのは、「本当だったら自分はもうちょっといいところにいるはずなのに、その優越性が崩された」と感じるからだ、と橋本さんは解説してくれます。

「そうそう優越性が崩されはしない真のお金持ち層」や、最初から「優越」を感じられない貧困層ではなく、「それなりの安定した生活を送れている(送れていた)」中間層がもっとも「不機嫌」になりやすい。グローバルに進行する「中間層の崩壊」が「不機嫌な人達」をどんどん増やしてしまっている。

第一次世界大戦で王様はいなくなり、第二次世界大戦では「擬似王様」であるような独裁者のいる国が敗れて、世界は「中流である共和制の国」と「後進国」の二つに分かれた。 (P85)

世界は「ほぼみんな中流」になってしまって、その「中流」が資本主義経済の行き詰まりで「下流」に落ちつつあり、その不安感が「ムカつく」になって、「私の安定が脅かされているのはあいつらのせいだ」と移民だったり他宗教の信徒だったりを敵対視する方向へ行ってしまう。

現代の知性は人に、「複雑なことを考えろ」と言ってくる。簡単に解決策のないようなこと、自分だけじゃなく世界中の「みんな」が幸せになるにはどうしたらいいか、なんてことを。でも安定を崩されて不安に陥っている人には、もちろん「みんな」のことを考えるような余裕はない。

「みんなのことを考えろ」という声は、「均質なみんな」のことだけ考えて、その「均質」からはずれた「個人の不幸」を考えてくれない。考えようとしても、それが出来るだけの用意がないから、考えることが出来ない。その結果、「自分の固有な不幸」を抱えた人間は、「みんなのこと」を考えるだけの余裕を持った幸福な人間達の中で、孤立して不幸を募らせる。 (P219)

いわゆる「リベラル」が嫌悪の対象になってしまったのってたぶんこれで、不安で不幸な人は「この自分の不幸をなんとかしてくれ」と思っているのに、「全体」を考える「リベラル」は即効性のある薬を用意してくれない。

世界は色々と複雑だから、そうそう「すぐ効く薬」なんてないんだろうけど(あったとしても副作用がきつかったり)、「すぐ効かなくてもいい」と言える人は「今困ってない恵まれた人達」だけで、「リベラルな言論」だったり、「知性的な物言い」というものは今や「上から目線」と同義のようにもなってしまっている。

私にとって、「反知性主義」を生むものは、「均質で、そのことが他人を排除しているということにつながるのだという自覚がない、“幸福な知性”なんだろう」としか思えない。 (P219)

219ページのこの文章のあと、最後のまとめで「こうしていくしかないでしょ?」みたいな結語が書かれているんですけど、うーん、「不機嫌な土壌」を変えていくことってできるんでしょうか。この先再び世界経済が上向いて中間層が潤う、なんてことはあんまり期待できないだろうし……。

えーっとそれで、全然感想がうまくまとめられないわけですが、個人的に「第四章 知の中央集権」部分のお話がとても興味深かったです。

言文一致体以前の人間は、すべてなんらかの形で「生活属性」を背負っている。言文一致体でなにかを語る人間は、そういうものを捨て去らないと「俗な語り手」になって、人の世のあり方を語る「普遍的な(ユニヴァーサル)語り手」にはなれないのだ。 (P106)

とか、

「誰でもないことによって、すべてに共通しうる書き手になれる」というのが言文一致体の文章で、「それ以前の日本的属性から離脱することによって、形式上、優越的な日本人のポジションを確保出来る」というのが、言文一致体以後の、日本の標準語なのだ。(中略)「オシャレタウンになれる力」を生み出すのは、標準語を駆使することによって「誰でもない男性」になれる人達なのだ。 (P107)

というような話。なるほどなぁ、と思います。

近代教育が行き渡って、「お上だけが賢ければいい。お上だけが自我を持っていればいい」という状態から、「みんなが自我を持つ」=「みんなが自分の利益を前提とした意見を持つ」になって、その結果みんなの意見は集約しない。

第四章の結論は、

「知の顚覆」というのは、そのような「知の行き渡った結果」を言ってしかるべきなのだと、私は思う。 (P117)

で、でもだからって再び「上の方の人間だけが賢ければいい」世界を私たちは望むのか。「自我」とか「人権」というのが一部の人にしかない世界。「難しいことを考えなくていい」という意味ではそれは「楽」なのかもしれないけど……。


やっぱり全然まとまりません。
諦めて橋本さんの次の本読もう――。



2017年6月11日日曜日

『銀河帝国の興亡』第1巻/アイザック・アシモフ



『鋼鉄都市』『はだかの太陽』『夜明けのロボット』、そして『ロボットと帝国』という一連のベイリ&ダニールもの(最後の『ロボットと帝国』ではベイリはもういませんが)を読み終わってから、早くも2年が経とうとしています。

ああ、ほんとに月日の経つの早い……。

『ロボットと帝国』のラストで、ひとりぼっちになってしまったダニール。ただ人類に危害を加えないだけでなく、人類の危機を未然に防がなければならないという「ロボット工学第零原則」を自らに課す、宇宙でただ一体の超高性能人型ロボット。

パートナー・イライジャとフレンド・ジスカルドを失ったあとも、一人生き残ったダニールの行く末について、アシモフさんの別の有名シリーズ『ファウンデーション』のうちの一冊『ファウンデーションと地球』に言及があるということで。

ようやくシリーズ1作目『銀河帝国の興亡』第1巻を読み始めました。

創元推理文庫とハヤカワ文庫と、両方から訳書が出ているのですが、創元の方を読みました。原題は「FOUNDATION」なのでハヤカワ版の邦題の方がわかりやすいというか素直かな。



まぁこちらも「銀河帝国興亡史」と付いてるんですが。

「帝国の興亡」とか言われるとこう、宇宙艦隊とか出てきて派手にドンパチやってるようなのを思い浮かべてしまうんですが、全然違うお話でした。

創元版の中表紙に書かれているあらすじはこんな感じ。
“広大な銀河系宇宙を傘下に収め、数百万の恒星と惑星を支配する大銀河帝国の威容!しかし、さしもの大帝国にも、徐々に没落と崩壊のきざしが現われていた。(中略)このとき、天才的な心理歴史学者ハリ・セルダンが出現し、帝国の崩壊を予言して、その再建の方策を不可思議な方法で遺言した……。”
「心理歴史学」という謎の学問により帝国の崩壊を予知したハリ・セルダンは、未来の人類を救うために「百科事典」の編纂を企画します。

個人は孤立しては、無力で役に立ちません。意味のない知識の断片は、伝達されることもなく、何世代か経過するうちに忘れ去られてしまうでしょう。しかしですよ、いまわれわれが、あらゆる知識の集大成を試みるなら、それは二度と失われることはない。われわれの後裔は、その知識を利用することができ、自力で再発見する必要がなくなるでしょう。三万年かかるところが一千年ですみます。 (P48)

おおお、素晴らしいですね。知識、情報、これまでの歴史の記録。失われる前にきっちりと整理保存して、伝えていかなければならない。滅亡は避けられないとしても、その「知識の集成」があれば再び立ち上がれる。

セルダンにそう提言された帝国側は、

「いま〈銀河系〉全星上に生存している千兆の人間のうちで、あと一世紀生きる者は一人もおるまい。それなのに、なぜ五世紀も先の出来事を心配しなければならんのだね?」 (P50)

と、実に「あるある」な回答をするのですが、ともかくセルダンは辺境の惑星で百科事典の編纂をすることを許されます。セルダン以下科学者たちごとごっそり移住したその星、テルミナスが「ファウンデーション」なのです。

あ、そういう言い方は正しくないのかな。テルミナスに設立された科学機関の名前が「ファウンデーション」ってことか。

セルダンが登場する第一部は50ページほど。第二部では、「ファウンデーション」設立からもう50年経っています。帝国の力は衰え、各星系では独立して他の星を従えようとする星が出てきていて、「ファウンデーション」も近隣のそういう星から圧力をかけられます。「自分たちの支配下に入れ」と。

科学者たちは「何言ってるんですか?ここは皇帝直轄の科学機関なんですよ?」と言い返すのですが。

「テルミナスは惑星ではないのです。大規模な百科事典の編集を行なっている科学機関なのです。そもそも、あなたは科学を尊重なさらんのですか?」
「百科事典じゃ戦争には勝てないよ」 (P76)

はははは。

現実主義者の若き市長ハーディンは、頭の固い(というか古い)科学者たちのとんちんかんな対応にイライラしながらも、セルダンの降臨を待ちます。「遺品館」と呼ばれるセルダンの“遺言”の扉が開くのを。

行政官としては無能な科学者たちや、「生の知識を得る必要なんかない。大家たちの手でもう調べつくされているんだから」と言う貴族を揶揄するハーディンの言葉がなかなか面白くて刺さります。

自然科学者たちが行政官として、なぜこうも無能なのだろうかと、ぼんやり考えていた。要するに、確固として動かない事実にばかり慣れていて、人間の柔軟さにはあまりにも不慣れでありすぎることが、理由なのだろうと思った。 (P80)

「終始一貫、あなたがたは権威や過去によりかかって――決して自分の力に頼ろうとしないのだ」 (P107)

そうして、ファウンデーション五十周年記念日に「遺品館」で明らかになったことは、驚くべき事実でした。

「わしもわしの同僚も、〈百科事典〉などただの一巻も出なくてもいっこう差し支えないという気持だった点で、これは欺瞞であるといえよう」 (P114)

ファッ(゚Д゚)!?

ちょ、ちょっと、待って、セルダンさん。未来の人類のために知識を伝えていくことが云々ってくだりにめっちゃうなずいて感心した私の立場は。

心理歴史学によって未来を見通すセルダンさんの真の目的は、別のところにあったのです。でもそれをすべて語ってしまうことはできない。

というのは、知識をもつと、あなたがたの行動の自由は拡大され、導入される変数が増えて、われわれの心理歴史学では扱えなくなるからだ。 (P115)

セルダンさんの敷いたレールの上を歩かされるファウンデーションの人びと。第三部は名実ともにファウンデーションのトップとなったハーディンが再び危機を回避する話。そして第四部はそれからさらに75年。

「さて、最初の危機は〈ファウンデーション〉建設五十年後に来た。第二回目は、それから三十年後だ。それ以来、七十五年ほどもたっている。もうその時期ですよ、マンリョ、その時期です」 (P245)

四部と五部はそれぞれ違う人物がファウンデーションの危機に対処します。

で、この対処方法がドンパチではなく、口八丁手八丁というか、“交渉”なのですよね。SFというよりは、政治史を読んでるみたいな感じ。

ある意味「言葉だけ」で危機を乗り越えていく様子、面白いんだけど、いくら心理歴史学がすごいと言っても、本当にこんなふうに「レールを敷く」ことって可能なのかと考えてしまう。

「それ以外には進む道がない」というところにまで追い詰めることによって、「それ」を選ばせる。でもそこには「それ」を選べるだけの頭を持った人物が必ずいなくてはいけない。もしもハーディンがいなくて「無能な科学者たち」しかいなかったら、追い詰められても降参しちゃうだけなのでは……。

そんなにうまい具合に毎回毎回「セルダンの意図」を理解し、ファウンデーションが置かれている立場もしっかり見きわめた上で、「この道しかない」と判断し、実行できる人物が「上の方」に出現しているものなんだろうか。

四部と五部では商人がその任を負います。必ずしも「上」ではない人物がファウンデーションの危機を打開する。心理歴史学はそこまで見通せるものなのか……。

あと、面白いのがファウンデーションの武器。もともとが「科学機関」であるファウンデーションには「原子力」が健在だけれども、他の星々にはもうその技術を扱える人間がいない。もうこれだけでファウンデーションは「優位に立てる」んだけど、それをそのまま「武器」にするんじゃなく、「宗教」という衣をかぶせていく。

僧侶だけがその不可思議な機器を制御することができる、というふうに。

ところが第五部ではもう宗教は「時代遅れ」になりつつあり、

僧侶を抜きにした貿易! 貿易だけ! それで充分に強力なのだ。 (P336)

ということになる。宗教による世界制覇(というほどファウンデーションは大きくなってないけど)から、貿易による他国のコントロールへ。

……これ、「銀河帝国」の話じゃないですね。「地球人類の進化の話」ですよね。「神様」による統一から、「経済」による統一へ。相手の持っていない技術や製品を押し売り、それなしでは生活できないようにして実質的に支配する。

一旦衰亡した「銀河帝国(人類)」を一千年で再び立て直すというのがハリ・セルダンの企図だけど、「やり直す」とやっぱりそういうふうになるのか、みたいな。

歴史を通じて、独裁者は、彼らの人民の幸福を、自分たちが考える名誉とか征服とかと引換えにしてきた。しかし、物をいうのは、やはり生活における些細な事柄なのだ――そして、アスパー・アルゴは、二、三年のうちにコレル全体を襲う不況の嵐には立ち向かえないだろう。 (P339)

この『銀河帝国の興亡』が書かれたのは1951年(昭和26年)です。創元推理文庫版の初版は1968年。原子力技術が重要な鍵になっているところや、「帝国」という一つの枠組みが衰えて群雄割拠になる宇宙を再びまとめることができるか?という問題提起に“時代”を感じます。

でも、今も同じですよね。

東西冷戦という枠組みが消えて、貿易と人の流れはグローバルになって、でもだからこそ反動が起きて、「戦後秩序」という形でとりあえずはまとまっていた世界が急速に瓦解していっているように見える“今”。

もしも本当にハリ・セルダンがいたら――心理歴史学というものが本当にあったら――、どんな未来を予測し、どんな対策を取ってくれるのでしょう。


1巻目の最後には「現在、宗教が無力であるように金力もまた無力となっていよう」(P343)というセリフがあって、この先2巻3巻と続くうちに、ファウンデーションはまた「違うものを武器」に危機を乗り越えていくことが予想されます。

今、現実のこの世界ではまだ、「金」の次に来るものが登場していないと思うけれど、果たしてそれは何なのか。

セルダンならぬアシモフさんの対処法を楽しみに、続きを読もうと思います。

2017年6月4日日曜日

『日本庭園の秘密』/エラリイ・クイーン



『中途の家』で終わりなんて寂しいので、図書館でソッコー借りてきました。日本では長らく「国名シリーズ最後の一冊」と言われてきた本書、原題は「The Door Between」。“日本”という国名は入っていません。

けれども江戸川乱歩が「雑誌に掲載された時は“日本の扇”という題名だったそうだ」と書いたことから日本ではずっと「国名シリーズの最後を飾るのは日本!」と思われてきたようです。

ところが角川新訳版『中途の家』巻末の解説によると、初出誌でもタイトルに「日本」は入っていなかったのだとか。「ある推理の問題」という副題や「読者への挑戦状」もないことから、これを「国名シリーズ」に入れるのは無理があるようです。

『中途の家』で国名タイトル途切れちゃってますしねー。

ただ、この作品、本当にとっても「日本」なのです。『中途の家』のまえがきに、「ギリシャの棺ちゃうやん!フランスの化粧品ちゃうやん!」という自己ツッコミがありましたが、本書には本当に「日本庭園」が出てくるし、その日本庭園を見下ろす日本趣味たっぷりの部屋で着物を着た女性が殺されるという、ほんとに「なんでこれに国名つけずに今までのに付けてたんや?」とクイーンさんを問い詰めたくなるほど。

日本の大学の教授だった父親と一緒に長く日本で暮らした経験のある女性、カレン・リース。『八雲立つ』という小説で文学賞を取った彼女は、自宅の日本庭園で受賞パーティを開き、エラリーも出席します。

カレンのフィアンセであるマクルーア博士の娘エヴァは、そのパーティでリチャードという青年医師と知りあい、トントン拍子で婚約まで進み、幸せの絶頂。ところが彼女以外に誰もいない準密室でカレンが殺されてしまい……。

『中途の家』と同じく、若い女性が状況証拠により無実の罪に落とされる展開。そしてやはり『中途の家』と同じように、事件をきっかけに知り合った男女が惹かれあい、エラリーの推理よりもエヴァのロマンスと葛藤を軸にお話が進む感じです。

うん。

そういうところが、ライツヴィルシリーズに繋がるところなんでしょうね。エラリーの謎解きよりも、事件に関わる人間模様の方に重きを置いた描き方。

人間関係どろどろやもんなぁ。カレンとマクルーア博士、そしてエヴァの三人をめぐる過去の因縁。パーティで一目惚れしてあっという間に婚約したくせに、エヴァが殺人の容疑をかけられたとたん及び腰になり、何の役にも立たないリチャード。一方、事件現場でエヴァと運命的な出会いをした私立探偵テリーは彼女への疑いを晴らすため、献身的に捜査に関わる。

またこのテリーがいい味というか可愛いというか。

「どうやら」エラリイがドライな調子でエヴァに言った。「あなたは、あの男を征服したようですね。わたしが知る限り、あの男がまいったのは、はじめてですよ」 (P151)

「女にほれたのは、はじめてだ。おれには女は毒だと思っていた。だが、きみにはまいった。眠ることも、なにをすることもできない。しょっちゅう、きみの姿が目の前にちらつくんだ!」 (P300)

エラリイと同じくらいの、27歳だか28歳だかで、クイーン警視たちともなじみの青年なんですけどね、テリー。最後、めでたくハッピーエンドになるところも絵に描いたようなラブコメで(笑)。

事件の真相は私にも「これはこういうことかな?」とおおむね想像がついたんですが、最後の最後に「おまけ」というか、「刑事事件としては終わったけどあなたの責任は――」みたいなのがついていて。

エラリーが、「彼女を真の意味で殺したのはあなただ」と、ある人物を糾弾するんです。

うーん、ここねぇ。なんか、こじつけっぽい感じが否めない。いや、「彼女を真の意味で殺したのはあなただ」ということ自体には納得なんだけど、その理由が私の想像してたのと違っていて。え、そんな理由なの、こっちじゃないの、と。

エラリー、自分で「神のような役を演じるのは、あまり気持のよいものではなかった。(P415)」って述懐するんですけど、はったりを使ってまで――証拠を捏造してまで、糾弾するのはどうなんだろう。「正義」ってなんだろう、と思っちゃいます。

読者にそう思わせることが狙いなのでしょうか。
もちろん冤罪は覆されなければならない。けれども名探偵が暴く真実は、必ずしも関わった人間すべてを幸せにするものではない。修道士カドフェルのように、真実を知っても、それを明らかにせずそっとしておく方が“正義”なのかもしれない。

エラリーは相手に「あなたは三つのうちの一つを選ぶことができる」と言って、その中に「警察に自首する」が入っているんだけど、糾弾された人物がやったことは「精神的な殺人」で、物理的に殺したわけじゃないから、そういうのって「いや、自首されましても法律上あなたには何の咎も……」じゃないのかな。

殺人教唆の一種にはなるのか???

三つのうちの最後、言葉を濁した部分は「自分で自分の始末をつける(=自殺する)」とも思えるし、もしも相手がそれを選んだら、エラリー自身も「精神的な殺人」を犯したことにならないんだろうか。

……って、これこそ「後期クイーン問題」の一つでしたっけ? 名探偵がいることによってかえって犠牲者が増えてしまうという。

「ある推理の問題」という副題、そして「読者への挑戦状」がなくなった最初の長篇。タイトルに「日本」は入ってないとはいえ、クイーンの転換期に「日本趣味」が選ばれたことはやはり日本の読者としては嬉しい気がします。

1937年(昭和11年)発表ということもあって、

「気にくわんのはあの民族の気性だ。日本人はおそらく、地球上でいちばん劣等感をもってる国民だ。それで、しょっちゅうアジアで騒ぎを起こす。白人優越の心理がもたらした災いだよ」 (P200)

なんてエラリーに言われちゃったりしてるけど。

カレンの侍女みたいな役回りのキヌメという老女は琉球人という設定で、

琉球の人たちは日本人よりも小柄ですけれど、もっと均斉のとれた体をしています (P13)

と説明されています。「(琉球人は)世界中で、いちばんやさしい人たちです(P13)」とも。

あと、この作品でもまだジューナ君は健在♪

黒い目をしたジューナは自分の偶像の海外からの帰国を迎える喜びを、充分に表現するのを控えなければならなかった。 (P141)

「自分の偶像」というのはもちろんエラリーのことです。

エラリイはキッチンへ行った。「ジューナ」ジューナは、たちまち姿を現わした。
「映画を見に行きたくないか?」
「そうだね」ジューナは迷いながら言った。「近所の映画館にかかってるのは、みんな見ましたよ」
「なにかあるはずだ」エラリイは紙幣を少年の手に押しつけた。ジューナは彼を見あげた。二人の目が合った。
すると、ジューナは答えた。「ええ、そうですね」そう言うと、急いで押入れへ行って帽子を取り出し、アパートメントから出て行った。 (P391)

ってところも好き。「二人の目が合った(察し)」ってやつですね。

ライツヴィルシリーズ1作目の『災厄の町』までの間にあと三つ長篇があるようですが……。ジューナくんはいつまで出てきてくれるのかな。やはりこうなったらエラリーの出てくる作品全部読むべきでしょうか。「まだ読んでない」を残しておきたい気もするんですけど。

会おうと思えばまた会えるって(いや、読み返せば会えるんですけどね)。

2017年5月30日火曜日

『中途の家』/エラリー・クイーン



角川文庫の新訳版エラリー・クイーン。国名シリーズ9作の後、この『中途の家』も刊行されていたんですが、もったいなくてずーっと後回しにしていました。

だって読んじゃったら終わるじゃん! 生意気な新訳版若造エラリーの活躍、もう読めなくなっちゃう!

……これ、2015年の7月に出てるんですよね。すぐ買ったはずだから、丸2年近く置いてあったことになる。

国名シリーズ最終巻『スペイン岬の秘密』を読み終わってからもほぼ1年。1年早いなぁ……。

デビュー長篇である『ローマ帽子の秘密』以来ずっとタイトルに国名を冠してきたエラリー・クイーン、その例を破るに当たって、「まえがき」で自虐めいた言い訳をしています。

「まえがき」はいつもエラリーの友人J.J.マック氏が書いている体(てい)なのですが、「なんでいきなり『中途の家』なんだよ! 国名が入ってないなんて、これはきみの失策だよ!」と怒っている。そしてエラリーに「たとえば『スウェーデン燐寸の秘密』なら良かったのか?でもあれはスウェーデン製のマッチじゃない」と言われ。

「そんなことはわかっている。しかし、あの棺はギリシャ式の作りでもなんでもなかったのに、『ギリシャ棺の秘密』という表題にしたじゃないか。『フランス白粉の秘密』だって、パリの化粧品とはなんのつながりもあるまい?」 (P11)

うわぁ、クイーンさん、それ言っちゃおしまいなんじゃ(笑)。

私も読みながら「関係ないじゃん」と思ってましたが、国名シリーズ刊行当時も読者からの「フランスの化粧品じゃないじゃん!」というツッコミが多々来ていたのでしょうか。

もうこの「まえがき」だけで「掴みはOK」すぎるのですが。

本編ももちろん面白かったです。

原題は『HALFWAY HOUSE』、「途中にある家」。ニューヨークとフィラデルフィアで二重生活を送っていた男ジョーが、その中途にある家で殺害され、フィラデルフィアでのジョーの妻、ルーシーが容疑者として告発されます。ルーシーの兄ビルと大学の同窓生だったらしいエラリーは兄妹のために事件の調査を始めますが……。

ちょっと『災厄の町』を思い出しますね。あれも重婚が招いた悲劇だったし、裁判の様子がしっかり描かれているところも似てる。

ニューヨークでは上流階級の男として暮らし、フィラデルフィアではしがない行商人として暮らしていたジョー。秘密の重婚が明らかになった時、ニューヨークで彼の“妻”として生きていた女ジェシカはあからさまにルーシーを蔑み、彼女が保険金目当てで殺したのだと決めつけます。

実際、状況証拠はルーシーを指し示すのですが、ビルにしてもエラリーにしても、彼女がやったとは到底思えず、「こんな薄弱な状況証拠では有罪にできない」と考えるのですが、なんと陪審は有罪判決を下すのです。

当初は無罪に傾いていた陪審団を、一人の女が長時間かけて覆したってことになってて――それもおそらくは「ルーシーが美人だから」という理由で――、陪審怖えええ!と思わされる作品です。もしエラリーがビルの友人でなかったら、ルーシーは無実の罪で刑に服することに……。

解説によるとこの『中途の家』はクイーン自身が自選3位に選んだお気に入りだったそうで、「パズルに偏りすぎて人間描写がなってない」などと言われることもあったクイーンが、「謎解きだけでないミステリ作家」へと大きく足を踏み出した記念碑的作品のようです。

金持ちの女と貧しい女がいたら、まずは貧しい方が疑われる。そしてその容姿により、同じ女性から「どうしても彼女を信じられない」と有罪判決を下される。

冒頭からエラリーの後をくっついていち早く事件を取材した新聞記者エラ・アミティは

この社会では、財産も身分もある男が、他の都市に住む労働者階級の貧しい女性と偽名を使って結婚し、その女性の人生の最も貴重な十年という歳月を奪ったすえ(中略)ようなことがまかり通ってきた。 (P195)

社会はルーシーをみずから守れるだろうか。(中略)社会はまた、富と社会的影響力を持つ奸智に長けた勢力がその無慈悲なかかとでルーシーを踏みつぶさぬよう、取り計らえるだろうか。 (P195)

という挑戦的な記事を書きます。無罪にせよ有罪にせよ、真の犠牲者はルーシーであり、殺された男ではないと。


『スペイン岬』を読んでから一年、先にライツヴィルシリーズを読んじゃってることもあって、社会描写や人間描写が国名シリーズより明らかに深くなってすごい!……というふうにはそんなに思わなかったですが(ごめんね、クイーンさん)、法廷での緊迫したやりとりは面白いし、新訳版はやはり読みやすく軽快で、エラリーと一緒に楽しく真犯人捜しに没頭できました。

今回珍しく私にも「あ、犯人に繋がるヒントこれか」ってわかったのも嬉しかった(笑)。

「ある推理の問題」という副題、そして「読者への挑戦状」があるのはこの作品が最後だそうで。

角川さんがここまでを「新訳」として出したのも、そういうことがあるようです。タイトルに「国名」は入っていないけど、ここまでがひとかたまり、初期のクイーン、生意気な若造エラリー時代。

警視もちょこっと出てくるし、万能執事ジューナくんは3回ほど登場します。

ジューナが作る滋養たっぷりの食事をとったり (P143)

「女の人です」居間の戸口に現れたジューナは、ふくれっ面で答えた。年端もいかない少年でありながら、頑固一徹の女ぎらいなのだ。 (P380)

え、ジューナくん女嫌いなの!? そんな設定ここまであったっけ?

エラリーに女の人が寄ってくるのが嫌なだけなんだろうと思いますが、エラリーは最後に美女にキスして「ご褒美をもらった!」って喜んでますから……ジューナの心エラリー知らず(笑)。


はぁ。ほんとにこれでおしまいだなんて寂しすぎる。
角川さん、他のクイーン作品も新訳してくれていいのよ?


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