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※以下ネタバレあります!これからご覧になる方はご注意ください!!!

(セリフ等記憶違いも多々あると思われます。また、タイトル通り感想というよりほぼ妄想です。ご承知おきの上お読みください。ちなみに「漸ノ篇」の感想はこちら

観てきました。公開から10日ほど経った12月9日。

なんというか、寂しい。

哀しい。

せつない。

これで本当に「SPEC」という物語が終わってしまった、という寂しさ。当麻と瀬文、二人の新しいエピソードをもう見ることはないのだ、という「終わり」に対する寂しさと、物語自体の、決着のつき方自体に対する寂しさ。

「美しい終わり方」だと堤監督が言っていたとおり、「にじみとなって落ちてくる当麻の手を瀬文が掴む」というのは、本当に美しい、素敵なシーンだったけれども、そのシチュエーションは、やっぱり哀しい。せつない。

単純なハッピーエンドは違うし、時間が完全に巻き戻されたり、「何も起こらなかった別の世界」になってしまうのも違う。だから、きっと、「こうしかしようがない」というラストなんだけど。

やっぱり、元気に餃子食ってる当麻や、元気に「命捨てます!」言ってる瀬文さんを見たかった、普通に生きててほしかった、って気持ちもあって。

まだ、整理がつかない。

『結』はすっかりSF超スペクタクル大作になってしまって、特に「爻ノ篇」はそうで、そのことに対してきっと賛否両論あるんだろうな、って思う。

うちの夫なんかは「全然わからなかった」って言ってたし、「超能力の出て来る異色の刑事ドラマ」というつもりでTVシリーズを見ていた人にとっては「何じゃこりゃ」という展開の仕方。

もちろん私も、『天』と『結』に対しては賛否両方の気持ちがある。

映画に合わせて深夜に再放送されていたTVシリーズを見返していて、やっぱりあの頃が良かったな、と思ったり。

「尺の都合で泣く泣く芝居を切った」部分も多々あるらしいのだけど、やっぱり10回かけて話が進んでいく、だんだんわかってくる、という「じっくり描かれてる」感があって、何より瀬文さんと当麻の掛け合いが楽しくて、「早く次を見たい!」と来週の放送日を心待ちにするあの感覚。最終回の、「え!ここで終わり!?」っていうあの「未解決」感も、「自分であれこれ妄想を膨らます」のが好きな私には、すごく面白かった。

今TVシリーズを見返すと、改めて美鈴ちゃんが可哀想だったり、最終回のセリフが色々たまらなかったり、本当に面白いんだよね。話の筋はもう全部わかってるのに、引き込まれてしまう。見入ってしまう。

で、『結』。漸と爻に分けてしまったせいで、爻ノ篇はCG全開でほとんど「屋上での対決シーン」で、野々村係長の「刑事魂」という「人間ドラマ」があった漸ノ篇に比べてさらに「SFスペクタクル巨編」になっていて、ちょっとバランスが悪くなってしまった感じ。

分けずに3時間ぶっ続けであれを観るのも大変だとは思うし、かと言ってカットに次ぐカットで無理に2時間程度にまとめられるのも嫌だから、仕方がないけれど。

やっぱり本来は通しで3時間観るべき作品なんだろうな。『七人の侍』みたいに間に5分休憩入れて公開するとか(あれは207分もある。一度映画館で観たけど大変だった…)。

人類を一掃し、地球を「リセット」しようとする「セカイ」達との対決。テーマは重いし、「先人類(SPECホルダー達)の霊体」をその身に吸い込んだ当麻の描写はかなりエグくて、しかも長くて、辛かった。

口から溢れそうになるカラス、ぼこぼこに膨れあがる当麻の肉体。

瀬文さんと当麻、現世での最後の対峙があの姿というのはちょっと――かなり哀しい。「信用してますから」と言った当麻の顔が、瀬文さんの脳裡には蘇るけれど。

『天』でも描かれた二人の対峙。『天』の時には、「俺におまえは撃てん」と言った瀬文さん。でも今度は。

撃つしかなかった。

その身に悪霊どもを呑み込んで、「あたしはこいつらとともに地獄へ行く!」と覚悟した当麻。でももう肉体の自由が利かなくて……自分では決着をつけられなくて。

「瀬文ぃ!」と叫ぶ。

瀬文さんを呼ぶ。

誰よりも信じてる人、誰よりも甘えられる人。たった一人、当麻が弱音を吐けた相手。

「セカイ」達に地上へ吹っ飛ばされて、ホントだったらとっくに死んでるだろう瀬文さんはちゃんとその声に応えてやってくる。どうやって登ってきたんだよ、って思うけど。ホント瀬文さんこそ最強の「不死身のスペック」を持つ人だって思っちゃうけど。

もうずっと、ボロボロだもんね。TVシリーズの最後から、ずーっと怪我しっぱなし。最後の最後まで――当麻を撃って、「人類が滅びなかった世界」へジャンプした後も、ボコボコにされて。

あれはあまりにも可哀想だったよ、瀬文さん。何もあんなにズダボロにされなくてもいいのに。

「人類が滅びなかった世界」では、少しずつ歴史が違ってる。当麻は死んで、「にじみ」となって空中を――無間地獄を――漂って、瀬文さんは「凶悪殺人犯」として廃墟のような牢獄に拘置されてる。

地居と美鈴ちゃんが楽しげにデートする(それはかつての、当麻と地居の遊園地デートを再現しているのだろうけど)「違う歴史を刻む世界」で、誰も「未詳」の戦いを知らないだろう。当麻と瀬文さんが払った犠牲の大きさを知らないまま、誰に救われたのか知らないまま、みんな生きてる。

本当だったら、瀬文さんの記憶だって違ってておかしくないんだけど。

でも瀬文さんは――瀬文さんだけは。

わかるんだ。

当麻のことが。

もしかしたら、「違う歴史を生きる瀬文さん」の中にも、細かい記憶はないのかもしれない。でも。

「餃子臭い人間のことはこの鼻が――この体全部が覚えてるんだ!」

最終回の瀬文さんのセリフ。

空中を漂い、落ちてくる当麻の腕を、瀬文さんは掴む。

「おまえの手は温かいよ」と言ったあの時のように。

……思い出しても泣けてくるわ……ううう。せぶみさぁぁぁぁぁん!!!!!

すごい人だよね。

世界を救うために無間地獄を選ぶ当麻はもちろんすごいけど、その当麻の想いを引き受けた瀬文さんも、ホントに。

だって瀬文さん、あの後「凶悪殺人犯」としてきっと死刑になるんでしょ。もちろんそんなふうになることを予想して引き金を引いたわけではないだろうけど、「救われた世界」で自分自身は救われないことを、やっぱり瀬文さんも、自然と呑み込んでいたのかもしれない。

牢獄にいる瀬文さんは、とても泰然としていたから。

引き金を引く時、「来世で待ってろ」って瀬文さんは言った。『天』では、「俺もすぐ行くから」って言ってたんだよなぁ。

たまらないよね。

無間地獄に墜ちた当麻に「来世」ってあるんだろうかとも思うんだけど(それを言ったら無間地獄に墜ちたはずの魂がなんで空中を漂っているのかという話もあるけど)、たとえ生まれ変わらなくても、実体のない影のままでも、瀬文さんは、当麻の手を掴んでくれる。

ちゃんと、覚えていてくれるから。

決着をつける前、「卑弥呼」が言ってた。「生と死を分かつことに意味はない。死者も認知されれば存在し、逆に生者であっても認知されなければ……」みたいなことを。

「漸ノ篇」の最初で、「想いが時間を生み世界を生む」的な話が語られるけど、なんていうか、「存在」ってそういうものなのかなって。

覚えている瀬文さんがいれば、当麻は生きてるっていうか。

TVシリーズの最終回でも、「記憶」ってことがすごく重要な鍵として語られてた。「覚えてる。覚えてる。こんな大切なこと、忘れられるわけがない。私のここが、全部覚えてる」

哀しい記憶なんか全部消してやるという地居に向かって、「哀しいことも辛いことも、全部あたしの財産だ!」「そんな痛みより、陽太のことを忘れる方がよっぽど辛いわ!」って当麻は言い放つ。

そう言えば「卑弥呼」が「セカイ」に向かって、「わしを殺せばおまえも死ぬ」とかって言ってたんだけど、あれも「おまえという存在を認識しているわしがいなくなるということはおまえも存在しなくなるということだ」って意味だったのかなぁ。

実際には「卑弥呼」が消されても「セカイ」は残ってたよね……。あの人達そもそも「霊体」だから「死ぬ」とか「殺す」という概念が適当なのか、って話があるけど。

一回当麻の体の中に入って、また突き破って「セカイ」が外に出て来た時、当麻という「ゲート」をくぐったことで「実体(肉)」を持ってしまって、その結果「殺せる」ようになったのではないかとも思ったけど、そういう決着ではたぶんなかった。

「実体」と「霊体」ということで言えば潤も、肉体を殺しても「霊体」としては全然平気と言っていたのに、結局青池ママと一緒に「死ぬ」ことを選ぶ。

「生んでくれてありがとう」って最後に言うんだよね、潤。

「汚らわしい肉体」と言っていたけど、その「肉」に閉じ込められて、短い「一生」を送ることの意味。「霊体」として永遠とも言える時を過ごす「セカイ」達と、「今この肉体込みで生きている人間」の、「命」の違いというのかなぁ。

魂は転生できるとしても、「今生(こんじょう)」を大事にしたい、「青池の娘としての自分で終わりたい」っていうことだったんじゃないか。

「卑弥呼」は当麻に向かって、「手伝おうと思っていたがそれはガイアの意志ではなさそうだ」って言う。たぶんガイアは人間に向かって、「自分達でなんとかしてみろ」って言ってたんだろう。「先人類」と今の人間達と、どっちが進化でどっちが退化なのか、それはきっとわからない。「超能力」が使えたり、「霊体」として長く存在できたり、そっちの方がいいように見えて、でも人間には「想いの力」があるだろう、それを見せてみろ、みたいな……。

まぁ、そうは言っても大半の「人間」は何も知らなくて、当麻一人の覚悟にかかっていたんだけど。

当麻と、瀬文さんの。

病室で、「使いますよ、スペック」って当麻が言う時の瀬文さんの表情がたまんないんだよね。あの表情をどう言葉で表現したらいいのかわからないし、ものすごく色んな感情が渦巻いて、瀬文さん自身にも「その時の気持ち」なんて説明できなかったと思う。「スペックを使う」という当麻を止めたい気持ち、でももうそれしかないんだろうという気持ち。賛成するしかない、見送るしかない、心配でたまらないけど、でも……。

あー、あの瀬文さんの表情をアップにしたポスター欲しい。

そして瀬文さんに背を向けた当麻の、あの微笑。

またこの表情がっ!

戸田さんも加瀬さんも、俳優さんってホントすごいわ。

パンフで堤監督もあのシーンのお二人の表情を絶賛してらっしゃる。あのシーンだけでも見る価値あるよホント。

ああ、本当にたまらない。

瀬文さんと当麻、あの二人の関係が好きすぎるっ。



「にじみ」として空中を墜ちていく当麻。そこで流れるのは、佐野元春の『彼女』

うわぁって思ったよ。ここで佐野元春来るか!って。当麻の父親役として出演してはいたけど、まさか歌が使われるとは思わなかった。しかも昔懐かしい……。

あれ、『HEART BEAT』ってアルバムに入ってた曲だけど、高校生の時、よく聞いてたんだ。たぶんまだどこかにカセットテープあると思うんだけど。

なんか、自分の高校の時の思い出と、30年近く経ってここで、この二人の物語の最後でこの曲を聴くとは!って想いと、何より「まるで二人のために作られたような歌詞」に……。

ノックアウト。

植田プロデューサーのリクエストで挿入されたってパンフに書いてあった。なんて同世代なの植田P……。

「彼女を愛していた」

瀬文さんはそんなこと一言も言わないし、当麻だって言ってない。男女の恋愛なんかより、もっとずっと深い関係だったろう。

「どうして俺がおまえに出逢ったかわかった」

『天』ではそう言ってた。

最後、漂う当麻は『百億の昼と千億の夜』の阿修羅王みたいだなって思ったんだ。永遠に戦い続ける阿修羅王。「決着」というもののないまま、また新たな百億の昼と千億の夜を戦い続ける彼女。

その戦いに「意味」があるのかないのか、でも、それでも阿修羅王はシッタータに出逢えた。『百億の昼と千億の夜』を読み終えた時、そんなふうに思った。

世界を救って、でも自分自身はもう、「にじみ」としてしか存在できない当麻。

でも。

彼女の手を、瀬文さんは掴んでくれる――。


(……当麻と瀬文さんについて語るだけでめっちゃ長くなってしまった。続きます……)

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