最近はマンガもケータイで読む人が……多いのかな?

私はまだ一度も読んだことがないし、今後も読むつもりはない。

実際に読んだことないから、たまにニュースなんかで取り上げられてるのを見て、「あんな感じに表示されるのか」と思うだけなんだけど。

これの前の記事の、「日本語の特殊性」の話で、「マンガを読むときに、脳は見開きを“画像”処理しているから、無意識的に先読みしている」ということを書いた。

内田センセがおっしゃってた話だけれども。

ケータイのマンガって、基本1コマだよね?

少なくとも、見開き全部のコマがあの小さい画面に表示されるってことはないよね。

ってことはやっぱり、それは今までの「紙の上のマンガ表現」とは違うものなんじゃないのかな。

「読み方」が違うわけだから。

無意識的に先読みしたものを、後から意識的にコマを追っていく、というのが「紙のマンガ」の「読み方」で、だからそこには「既視感」が発生していて、「既視感」というのは重要なファクターだと内田センセがおっしゃっていた。

村上春樹文学には「既視感」があるとか。

「紙のマンガ」には1ページに複数のコマがあって、無意識に全体を把握したあと、コマを追っていくわけだけど、読者は必ずしも全部のコマを追わなくてもいい。読み飛ばしてもいいし、作者が意図しない順番でコマを追ってもいい。

それが、たとえばケータイのマンガだと、1コマ1コマ、「正しい順番」で出てくるわけでしょう。

「次ページへ」とかいうボタンでごっそり読み飛ばすことはできるのかもしれないけど、提供者の視点でしかコマを追えないんじゃないかな。

「紙の本」だと、「この先どうなるんだろう」と思ってついぱらぱらとページをめくって最後のところを先に読んじゃったり、逆にこれまでの展開をおさらいするためにちょっと前の方に戻ってみたり、読者が好きに「時間」を行ったりきたりできる。

デジタルの「本」でページジャンプするのと、本のページを繰るのって、やっぱり違う。

「紙の本やマンガ」では「全体」がもう見えてて(というか手元にあって)、そこでどーゆー順番でどーゆースピードで「部分」を追っていくかの裁量が、読む方に任せられてる。


マンガとアニメの違いというか、つまりは活字と映像の違いって、「読む」のか「見る」のかなんだけれども、「読む」方がやっぱり「能動的」な行為なんじゃないのかなぁ。

「時間」を自分でコントロールできる。

映像では、先に最後を見るということはできないし、提供者の決めた時間の流れでしか、こっちは物語を追うことができない。


そういえば昔、「私、映画は見ないんで」と言ったら「オタクなのね」と返されて、世の中ではそーゆーことになっているのかと驚いたんだけど、私にとっては優先順位の問題だった。映画館に行く金と時間があったら本や宝塚に投資する、というだけ。

それに、映画ってほんと、行ったら2時間でしょ。

まとまった時間を取られるというのが、すごくイヤなんだ。

その間、他のことができない、ずっと提供者の「時間軸」の中にいなきゃいけないっていうのが、すごい損する気がする(笑)。

宝塚なんか全部で2時間半じゃん!という反論もあるでしょうが、あれは「生の舞台」やから。

どこに視点を置くか、自分で選べる。

拍手したり、笑ったり、息を飲んだりすることで、「舞台上の時空」に干渉できる。

宝塚を2時間半映像で観るの、けっこうつらい時があるもん(笑)。


別に、アニメ大好きやし、好きな映画だって全然ないわけちゃうねんけどね。


橋本治さんが、雑誌連載時と単行本と文庫で、それぞれにレイアウトを美しくするために文章を削ったり足したりした、という話がある。

最近はそうでもなくなったけど、昔は凝ってた、特に「絵」のある作品では凝ってた、と『花物語』の巻末のところでおっしゃってた。

挿絵が入らなくても、文章だけでも単行本と文庫じゃレイアウトが変わってくるから、それに合わせて文章を変える。

マンガの「絵」や「漢字」だけが「画像」処理されるんじゃなくて、文章のかたまりそのものが、「見開きの絵」として処理される。


紙の本やマンガと、デジタルのそれって、やっぱり別物だよなー。