昨日の時間性うんぬんの記事を書いていて思いだした。

橋本治さんの『ひらがな日本美術史』第2巻に出てきた、「動き出そうとするもの――日月山水図屏風」。

日本人は、絵の中に時間を流す。

「絵巻物」というのが日本以外の国でどれくらい作られていたのかわからないけど、日本には古くから「絵巻物」というのがあって、「時間を追って絵を見ていく」という描き方、見方があった。

それだけでマンガやアニメの原点のように思えるんだけど、日本では連続した絵ではなくて、1枚きりの固定された絵にも時間を流していた。

『“流れている時間を描く”は日本の絵画の常識』と、橋本さんがおっしゃっている。

普通、私たちは「絵」も「写真」と同じように、「一瞬を切り取る」と思っていて、ある一時点の風景なり人物なりがそこに描かれていると思っているのだけど、日本の絵画には、そうじゃない絵が「常識的に」存在するのだ。

『“流れている時間”などという描きようもないものが一つの固定された画面の中に描かれてしまうものだったら、“流れ出す大地”が描かれていたって別に不思議ではないじゃないかと、私は思う』 (ひらがな日本美術史第2巻P133-134)

うつろう時間、それによって変わっていくこの世界。

そういうものに対する感覚が、日本人は鋭いんじゃないかな。

いわゆる「諸行無常」。

四季の変化がはっきりしていて、「うつろいゆく」ということに敏感で、またそれをあたりまえのことだと了解している。

だからマンガには時間性が――と言うとあまりにもこじつけかもしれないけど、切り取った「一断面」だけではなくて、「うつりゆく時間の全体」を表現しようとする感覚、それを読み取るのが快感だという感覚、それが失われていくのは、イヤだな。

ケータイの小さな画面で、切り取った1コマ1コマを追っていくようなマンガの読み方だけでなく、色々なことが「固定された一点だけを見る」になっているような気がする。