養老孟司センセと内田樹センセの対談本です。

面白いに決まってます(笑)。

さくさく読んじゃって、残りページが少なくなってくると「ああ、終わっちゃうよぉ」と読むスピードを落としたくらい。

なんていうんだろう。

もちろん内容も知的刺激に満ちて面白いんだけど、それ以上にその「語り口」がこう、性に合うんだよね。読んでて気持ちいいの。

橋本治さんの文章もそうで、リズムとか表現のクセとか、とにかく「読む」ことそのものが楽しい。

逆に、どんなに内容がよくても、「受け付けない文章」っていうのがある。小説でも、物語の内容以前に、文体・語り口だけで「目が拒否する」っていうのが。

この本の第1章に、養老センセと内田樹センセの共通点は「おばさん的なところ」だという話がある。

編集者がそう言って、二人の対談企画を立てたと。

うーん、そう言われれば橋本さんも「おばさん的」だよなぁ。あの方、女性心理も男性心理も自在に操れるもの。

「おばさん的」と「おじさん的」の違い、つまりは女性と男性の考え方の違いということだけど、おばさんの思考は水平的で、どんどん連想ゲームで横にずれていくのに対し、おじさんは垂直で論理性を重んじ、頑固である。

別のところで「女性の脳はネットワークになってるが、男性の脳は箱がいっぱいあって、それぞれの箱はつながっていない」って書いてあるのを見た。

ネットワークは「水平的」、個別に並び立つ箱は「垂直的」ってことだよね。

それで、男性の頭の中の「箱」には「空っぽ」なのがあって、しばしば男はその箱を開けて「何も考えてない」状態になる、って。

橋本さんが『桃尻娘』シリーズの中で描いた延々と続く「……」だけの思考。あれは本当のことなんだなぁ。

……話がずれましたね。まさに私も「おばさん的」。どんどん連想ゲームして行ってしまう。

この『逆立ち日本論』は「対談」を書き起こしたものになってるからよけいだけど、養老センセも内田センセも、「こういうこともあるね」「そういえばこれもそういうことだよね」という感じでどんどん色んな話が出てくる。

お二人とも博学でいらっしゃるし、狭い専門分野の話にまったく留まらない。

……内田センセなんて、もう肩書きがよくわからないものね。何を専門に研究してらっしゃる方だったんだっけ?って(笑)。

この本の裏表紙には「武道の達人と解剖学者」と銘打たれてあって、もはや何かの研究者ではなく武道家なのかと(爆)。

さてそして。

第2章は「ユダヤ人問題」。

ここはすごく勉強になった。
「ユダヤ人」って、定義できないらしい。

「ユダヤ人というのは国民でもなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない」

えええええっ!?

だって、イスラエルの国民は、ユダヤ人でしょ?そんで、みんなユダヤ教徒なんでしょ?

いや、もちろんイスラエルという「国」の外、他の国にもたくさん「ユダヤ人」はいて、その人達がなぜ「ユダヤ人」と規定されるかというと、それは「ユダヤ教徒」だからだ、と思っていたんだけど……違うの!?

イスラエルができる前は、「国」がなかったわけだから、「国民でもなく」はなんとなくわかって、あちこち散らばっているがゆえに混血とかもいっぱいあるのかな、「人種でもない」はそーゆーことなのかな、と思うけど。

でも「ユダヤ教徒」っていうのは、必要十分条件だと思っていた。

ユダヤ教徒じゃないユダヤ人、ユダヤ教徒なんだけれどユダヤ人じゃない、っていう人がいるのだろうか。

『ローマ人の物語』の中で、「キリスト教はどんどん異民族に布教するが、ユダヤ教は“選民思想”が根本にあるから布教しない。だから帝国にとってキリスト教は脅威になるが、ユダヤ教はそうならない」というふうに書いてあって、「布教する・しない」の区別になるほどと思ったのだ。

「選ばれた民である」というのが根本なんだから、そこには「人種」というか「民族」というか、「こっからここまで」的な境界線があるんじゃないの???

うーん。

でも、じゃあ「日本人」の定義はどうなるのか?

「日本人」は、どの宗教を信仰しているかではまったく規定できない。「日本国民」とイコールでは、やっぱりない。外国籍を持っている日本人、というのをすぐに想像できる。

想像できるけど……なぜその人を私は「日本人」だと思うのか?お父さんとお母さんが日本人だったから??「顔」が「日本人」???

DNA的に、日本という国に住んでいるいわゆる「日本人」には3パターンあって、アフリカから3回の移動を繰り返した、その1回目、2回目、3回目全部の遺伝子が、日本には存在するらしい。

全部がいるのは、日本だけだとか。

日本は、実は「人種のるつぼ」だというわけ。

「日本人」という定義さえよくよく考えると「実はあいまい」なんだから、「ユダヤ人」が定義できなくても不思議ではないのか……。

ユダヤ人は「神」に選ばれ、「神」に名指されることで「ユダヤ人」になった。そしてその後の歴史でも、ヨーロッパの他の人間達、キリスト教徒やイスラム教徒から、「自分たちとは異質なもの」と排除されることで、「ユダヤ人」であり続けた。

キリスト教もイスラム教も、ユダヤ教とは兄弟で、だからこそ「その違い」が際立ち、選別・排除が先鋭化するのだけど、インドや中国に行くとそもそも全然違うから目立たなくて、ユダヤ教徒の共同体は解体してしまうらしい。

なんと。

そういうことなのか。

「自己を規定するのは他者である」。

ああ、なるほどなぁ。

「民族文化というのは、周辺の文化とあまりにも違いすぎても持ちこたえることができないんだと思うんです。生き残るためには中途半端に違うことが必要なんです」(P124)

なぜユダヤ人(というかユダヤ教徒?)が迫害されたのかというと、それはキリスト教徒側の結束を高めるためというか、「あれは自分達とは違う」という攻撃目標があることで、「自分達」というアイデンティティがしっかりするような気がするからかもしれない。

「他者がいるからこそ自己がいる」という関係。

そして「中途半端に違うことが必要」というのも、なんだかすごく示唆に富んでいる。

「いじめ」の構造を連想するよなぁ。

私の頭は大変に「おばさん」的なので、勝手にあれこれ繋げて、「そういうことか!」と思ってしまうけど、でも社会的な問題を色々考えていくと、やっぱりそこには「普遍的な人間性の真実」というものがあって、「根っこは繋がっている」のじゃないかな。


内田センセの『私家版・ユダヤ文化論』も読んでみなくては。


『逆立ち日本論』後半にはまた「言葉」の話も出てくる。だからきっと、私の勝手な連想もまだ続く