前半の「おばさんとかユダヤ人とか」の部分について感想を書いたあと、後半部分についても感想を書こうと思っていたのに、色々あって間が空いてしまって、何が書かれてあったのか、どんなことを思ったのか、ほとんど忘れてしまった。

でもそのままほったらかしにするのもヤなので、ぱらぱらっともう一度本書をめくって、目についたところをメモしておく。

「個性」とは「人を見る目」

「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。

 「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。

(養老センセの言 P171~P172)

人は社会的な生きものである、ということだよなぁ。

無人島で、自分以外に誰もいなかったから、どんな「個性」を持っていても発揮しようがない。いや、そりゃ、魚を釣る特技とか、生きていくために発揮できるスキルはあるわけだけど、たとえば無人島に3人で流されて、そのうちの1人は「魚を釣るのが得意」、1人は「手先が器用で道具を作るのが得意」、1人は「色んな昔話を知っててみんなの退屈を紛らわせてくれる」だったとして、3人がそれぞれの特技で貢献して、無人島生活を協力して乗り切ってゆく、という場合の「魚を釣る特技」とは、ずいぶん意味合いが違ってくるのではなかろうか。

たしか前に『街場の教育論』で「他者とのコラボレート」という話が出てきたと思う。

自分の得意分野と不得意分野をわきまえて、不得意なところは他者に助けてもらって、協力して一つのことを成し遂げる力。

自分の得手不得手をわきまえるのと同時に、「これはあの人に頼めばいい」っていう判断力というか「つながり力」というか。

「人を見る目」だよね。「この人にはどーゆー分野を助けてもらえるのかな」って。

自分でどれだけ「私ってこーゆー人」と主張しても、他者が「そーゆー人」だと認めてコラボしてくれないと意味がないわけで。

・「正しい日本語なんてない」

 「個性は内在しているのではなくて、人を見る目だ」というのと同じで、オーラルな言語というのは、聞いている相手が判断するもののはずです。下手でも一生懸命喋っているときにちゃんと聞いてくれる人はいい人で、それでわかってくれる人は頭もいい人なのです。

 だけど、ほんとうは要素じゃなくて、それを見る人間のほうに判断はあるはずです。言語は典型的にそうで、相手がわかればいいものです。日本の英語教育の議論を見ていると、そこは絶対に出てこないのです。

(養老センセの言 P187~P188)

書いていて思ったけど、子どもに言葉を教えていく時に、「お茶!」と言ったら「お茶ください」と言い直させる、というのがあるでしょう。

「お茶!」だけではこっちは行動を起こさないで、「お茶ください」と言うまで放っておくという。

こういう訓練というか躾って確かに大事だとは思うんだけど(「うぜぇ」とか「ヤバい」としか言えない少年少女になっちゃ困るし)、でも「お茶!」と言われただけで「お茶を出す」っていうのも、「コミュニケーション」としては大事なことだよね。

たとえば「寒い」とだけ言われた時に窓を閉めるとか、暖房の温度を上げるとか、そういうことをするのって自然でしょう?

相手が一から十まで全部言葉で説明してくれないと、こっちは何の行動も起こさないってゆーのは、すごい「いけず」だよね。

外国へ行って、その国の言葉がほとんどしゃべれなくて、単語と身振り手振りで必死になって何か訴えてる人に、「全部正しく言葉で表現できるまで何もしてやらない」というのは人間としてどうなのか(笑)。

相手の意を汲んで、「こういうことが言いたいの?」とわかってくれる人は「いい人」で、「頭もいい人」。

「空気を読む」というのとは違って、会話している相手の「意を汲む」。

養老先生は「それが重要でしょ」とおっしゃっている。

ずっと「読み書き」中心の教育で来て、「話せない」から、英語教育のみならず日本語教育でも「ディベート」の授業とか行われるようになってきたみたいだけど。

「ディベート」とか「討論」だと、自分の意見をいかにうまく主張して、相手をへこませられるか、が重要になるわけでしょ。

いかに相手に丸め込まれないかという「いけずになる」訓練をするわけだよね(笑)。

「事業仕分け」で仕分け人に負けないように、もっとプレゼン能力を磨かなきゃ、という話も出てた。

「発信する能力」ばかりにスポットが当たっていて、「受信する能力」の方は置いてきぼり。

まぁ「事業仕分け」なんかでは仕分け人は相手の言いたいことがわかっていてもあえて「それじゃわからない」と言っているんだろうけどな。あれは最初から「聞く耳持たん」的なところがある。

「書き言葉」と「話し言葉」って、やっぱり役割分担なのかな。

書き言葉がきっちりできてれば、いざという時に討論はできる気がする。思考とか理論的に言葉を使うということを訓練していれば。

討論の言葉は、しゃべってるけど「書き言葉」に近い。

「話し言葉」は実際に発された言葉だけでなく、表情や声の調子、身振り手振り、その場の状況ぜんぶ込みで、聞く側は相手の意図をくみ取らなきゃいけない。

「発信する能力」しかなくて、「受信する能力」がなかったら、会話は成り立たない。

小学生の時に、「相手の目を見て話を聞きなさい」とよく言われたものだった。「人がしゃべっている時は、ちゃんとその人の目を見て聞きなさい」と。

「聞く姿勢は大事だよ」と教えられた。

討論の時も、相手を負かすためには「相手の考えてること」をしっかり読み取れなきゃダメだけど、でも相手を負かすために言葉を磨くっていうのはやっぱりな。

最後にもう一度、養老センセの言。

他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。