また今日から事業仕分けが再開されているんですが。

前半の仕分けでばっさり切られたかに見えたスパコン事業などが、復活もありそうでさてどーなるのかなー。

スパコンやSpring-8(何のことか今いちわかってない)や日本科学未来館が対象になっていた日に、「その研究に税金を使って、納税者にどんなリターンがあるのか」というような言い方がされて、「うわぁ」と思ったことは確か前にも書きました。

科学技術研究でさえそう言われてしまうんだから、文系の学問なんてもう全然お金出してもらえない、「無駄だ!」で切られてしまうんじゃないのぉ、とも思ったのです。

哲学とか言語学とか、そんなん研究しても、納税者の生活に一体どんなリターンがもたらされるのか?

無駄っちゃ、無駄だよねぇ。

ついに邪馬台国の位置が確定できるか?と話題を呼んでいる纏向遺跡。あの発掘・研究にどれくらい税金が投入されているのか知らないけど(全然使われていなかったりする?)、あれだってまぁ、「わかったら楽しいけど、でも直接的に納税者の生活が豊かになる」というもんではない。

宇宙の果てはどうなっているのだろう、というようなことを研究するのは、哲学や文学と同じように、「実際的には役に立たない」ことなんだなぁ。

私は常々「こんなことやってていいのかなぁ。私って穀潰しだよなぁ」と思いながらぐだぐだ色々考えては書き散らす「正しい文学者」なので、最先端の科学さえも「実際的な役には立たないんじゃない?」と思うと、なんかちょっと嬉しいような、味方を得たような(笑)気分になったりもするのだった。

まぁ「科学」の方は、短いスパンでは実生活に役立たなくても、そのうち応用されて意外なところで役立つということも多いと思うんだけど。

そしてそれを「科学技術」と言うんだろうけれど。

「技術」という言葉がくっついてるところが重要かな、と。

そもそも「学問」って、あんまり実際的に役に立つもんじゃないと思うんだ。

その、食べることに直結しない、金儲けに直結しないっていう。

やっぱり、今日の飯にも困る状況、安全な住まいが確保できない状況で、「研究」とか「思索」を優先することって、そうはできないでしょう。

いいとこの子しか上の学校に行けない、っていうのは、「直接食い扶持に繋がらないことをやる余裕のある家の子」じゃないとそんなよけいなことはできない、ということで、たとえ授業料がただだったとしても、学校に行ってる間その子は原則「無職」で食い扶持を稼がない、ということを許容できる「裕福さ」がなければいけない。

「学者なんかじゃ食ってけない」――というか、「食ってけるほどの学者にはなれまい」と思ったもんなぁ。

でも。

たとえば「宇宙の果てはどうなってるんだろう」と考えたり、「生きる意味ってなんだろう」と考え、それを「文学」という形で表したりすることって、人間だからこその特権で、そういう「思索」や「探求心」がなくなってしまったら、ものすごーくつまらない。

難しい算数の問題が解けた時の、あの、「そうか!」という快感。

受験に役立つとかそーゆー次元じゃなく、純粋にあれは快感なんだよな。

実験とか施設整備にお金がかかるから「この研究はこれこれの役に立つんです!」と一生懸命訴えなきゃいけなくなるけど、本当は科学者の皆さんも、「ただ知りたい」「この先を見たい」という気持ちで日々研究されているのではないのかなぁ。

もちろん、世のため人のために研究されている方もいっぱいおられるんでしょうけど。


文系の学問は理系ほどお金がかからないから事業仕分けで叩かれることもないのかなと思うんだけど、お金かからない分「金にもならない」ので、どんどんと肩身が狭くなっているような。

経済学ははやっているのかもしれないけど、いわゆる「文学部」の範疇の、「哲学」「史学」「言語学」「美学」といった学問。(ちなみに私は文学部社会言語学専攻でした)

「実学志向」で「教養課程」が廃止・縮小され、大学も「学問」より「就職実績」をアピールする時代だったり。


「学問」というのはいわば人間だけに許された「贅沢」で、だから、その「贅」を尽くせるということは、その社会が「豊か」である証なのだろう。

「役に立つ」「合理的」「効率的」ばっかりじゃ、つまんないよね。