昨日、「政府の無駄遣い、国民の無駄遣い」という記事で「結局今の産業って、消費者がどんどん買っては捨て買っては捨てしてくれないと保たないことになっているんだよな」というようなことを書いた。

そしたら内田樹センセのblogでも「商品経済から贈与経済へ」という記事がUPされて、消費スキームについて考察されていた。

後期資本主義社会では、市場を行き来する商品の90%は使用価値でも交換価値でもなく、象徴価値に基づいて値付けされている。象徴価値とは平たく言えば「アイデンティティ指示機能」のことである。

つまり、「それを持っているとステータスが上がる」というようなこと。

消費主体が生理的欲求や物質的必要に基づいて消費している限り、人間の消費活動には限界がある。どれほど卑しい人間でも、1日5食6食食べ続けることはできないし、服だって一度に一着しか着られない。人間の身体が消費活動を限界づける。しかし、消費主体が「自分は何ものか?」という幻想構築のために消費するようになれば、消費活動には原理的に限界がない。

なるほどなぁ、と思います。

高級スイーツを食べたくなるのって、もちろん「おいしい」という味覚に基づく生理的欲求はあるけど、でもそれを食べなくても死ぬわけでは全然ない。

テレビや雑誌で紹介されたお店の料理やスイーツを「わぁ、食べたい!」と思ってしまうのは、かなりの部分、「そのような有名なものを私は食べたことがあるぞ」というような気分に浸りたいから、なんだろう。

もちろん「おいしい」という満足はあるよ。あるんだけど、すごく高いブランドのチョコレートと、名糖アルファベットチョコレートと、ほんとはどっちがおいしいのか? ブランド名を隠して食べたらわかんないんじゃないか?

ボジョレーヌーボーに騒ぐのだって、半分はお祭りみたいなもんだし。

ユニクロの60周年セールに並ぶのも、実際に「安い」とか「商品が欲しい」というよりも「乗り遅れまい」という気分が働いているのじゃないのかなぁ。

ヒートテックが600円なのは確かに魅力的だった。でもイオンのヒートファクトなんて元からヒートテックより安いし、この間「期間限定」で690円ぐらいで売ってた。

売ってたけど、まったく人だかりはしてなかった。

「ヒートテック」と「ヒートファクト」とどっちがあったかいか、とか実験したことないけど(うちの夫は「ヒートファクト」のシャツを十分温かいといって気に入っている)、すでに「ヒートテック」がブランド化していて、「同じ買うならヒートテック」という気分が、私にもあったりする。

実際の必要性とか、利用価値以外の、いわゆる「付加価値」っていうのかな。

去年買った服はまったく破れてもくたびれてもいないけど、デザインが「流行遅れ」だからまた今年も新しい服が欲しくなる。

それはやっぱり「流行を取り入れられる自分でありたい」という、「アイデンティティのための消費」なんだろうな。

そしてもちろん、みんながそのように消費してくれるからこそ――生理的・物質的に必要以上のものを「捨てては買って」くれるからこそ、今の経済は回っている。

こんなことはもう、続けてはいけないと思うけど。

それで内田センセは「商品経済から贈与経済へ」というふうにおっしゃっている。おっしゃっているが、「贈与経済についてはまた今度」で詳しくは教えてくれない。

人類がずっとやってきたこと、ということは「物々交換」みたいな感じかしら。


内田センセの記事の前半には教育関連のことも書いてあった。

「これさえあれば~できる」というような本をふらふら手にとってしまうということが、「生きる力」が足りてないということを実証している、というような話。

お手軽に、即席に、「AならB」というふうにはいかないのがこの世の中であり人生であるのだからして。

ハウツー本というのは「本」のうちに入らないと私は前から思っている。そーゆー本の広告を見ると、「みんな手っ取り早いのが好きなんだな」って思う。

昨日、義務教育国庫負担金関連の事業仕分けを見ていて、「国の役割って結局どこまでなんだろう?」とか、「なんか不毛な議論のような気がするな」とか思ったんだけど、教育も「Aを実行すればBという成果が上がる」とはいかないものなのだ。

それでも優先順位をつけてお金を配分しなければいけないのだから仕方がないけれど、でもやっぱりなんだか、「ずれてるな」という気がした昨日の議論だった。

事業仕分けに連日接していると、「金(かね)金金」の世の中か、「金の切れ目が縁の切れ目」か、という気分になってくる。

国の財政もまた、「商品経済」の中で回っているんだもんな……。