昨日(11月8日)、京都国際マンガミュージアムで行われた、養老孟司センセと内田樹センセの対談『世界に冠絶するマンガ』を聞きに行ってきました♪

わ~い、なま養老センセ!なま内田センセだ~~~!!!

ついでになま西くん(MBS『ちちんぷいぷい』のアナウンサー)にも遭遇してしまった。関係者席に座ってはった。いいな~、「関係者」というものに一度なってみたい。

14時開演で、整理番号79番を持っていた私の集合時間は13時35分。

13時頃ミュージアムに着くと、芝生の上で寝っ転がってマンガを読んでいる人多数。昨日はぽかぽか陽気、暑いくらいだったので、実に気持ちよさそうで、ものすごーく羨ましかった。

と同時に、なんて素敵なミュージアムだろうか、と思った。

日本国内に博物館、ミュージアムと名の付くところはきっとアホほどあるだろうけど、「寝っ転がって展示物(というか収蔵物?)を楽しんでもいいよ」というところは、まぁそうはないだろう。

対談の中で養老センセが、「ここほどお客さんが集中して本読んでる図書館はないよ」と言ってらしたけど、本当に幸せな施設だよなぁ。

私は今回は収蔵コミックはほとんど手に取らず、開催中の特別展『サンデー×マガジンのDNA』を駆け足で見ただけ。80年代前半の部分が懐かしかったな。最初の頃の『コータローまかりとおる』とか、『バツ&テリー』とか。『はしれ走』とか。

んで。

肝心の、対談です(相変わらず前置き長い。すんません)。

タイトルは『世界に冠絶するマンガ』というふうになっていましたが、あんまりマンガの話は出てきませんでした。「マンガ」に惹かれて聞きに来た人は、拍子抜けだったかもしれない。

まぁ、養老センセか内田センセのファンだから来た、という人が大半ではないかと思うので、きっとみんな楽しんでいたと思うけど。

私はもちろん大変面白かったです。

まずは、今週末11月14日に刊行される内田センセの『日本辺境論』の販促。

貼り付けようと思ったのに、まだAmazonに上がってませんね。新潮新書、777円です。

以下、当日もらったチラシにメモ書きしたものから抜粋です。「録音不可」なのに勝手に公開しちゃっていいのか、とも思うので、すでに内田センセのblogで語られていることを中心に取り上げます。

また、私の勝手な感想・解釈ですので、必ずしもお二人の主旨に添っているとは限りません。ご了承の上お読み下さい。

・「水戸黄門」のドラマツルギー

 なぜ「印籠」を出すととたんにみんなひれ伏してしまうのか?

 「そんなの偽モンだろ?」となぜ言わないのか?

……確かに私もいつもそう思う。印籠だけで本人だと信じてしまうなんて、あの悪党達はなんて人がいいのだろうと。

しかし。

彼らは「人が悪い」=「悪党」だからこそ、目の前に「葵のご紋」という「権威」をばーんと出されると、平伏してしまうのだそうだ。

なぜなら彼ら自身が「権威」をふりかざすことによって利益を享受してきたから。彼ら自身の「正しさ」、彼ら自身が持っている「権力」を正当化しようと思うと、「葵のご紋」にはひれ伏さざるを得ないのだと。

なるほどなぁ。

・「権威」は外から来る

 外来のもの=素晴らしい  土着のもの=劣る という感覚

 外来の漢字を「真名」と呼び、土着に根ざした字を「仮名」と呼ぶ感覚

 土着の生活実感の上に、外来の「権威」が乗っかるのが日本文化のすべての根源

「ノーベル賞をありがたがる」話とか、例に出てきました。日本の中で、日本人自身が下す評価よりも、「外の評価」の方をありがたがってしまう、というこの、日本人の体質というかなんというか。

これって、さっきの「水戸黄門」の話とも繋がる話で、日本人は自分の力で「権威」を作り出すんじゃなくて、外から借りてきた「権威」によって「偉そうにする」というのが昔からのパターンなんだよな。

橋本さんの『双調平家物語』を読み返していると、本当にそう思う。ずっと、どうして誰も天皇を倒さないんだろう、自分が「天皇」に変わる権力者にならないんだろう、と思っていたんだけど、日本人は自分自身が「権力の源」になるよりも、「外の権威」からお墨付きをもらってその「威を駆る」方が楽で好きなのだ。

藤原氏は「天皇」になるのではなく、「天皇の外祖父」になることで政治の実権を握った。「天皇」という「すでにある権威」を利用する方が、新しい王朝を作り、新しい「権威」を作り出すことよりずっと楽ちんだったんだろう。

実質的なシステムの「外」、自分達の管轄の「外」に「権威」を見出し、その「権威」を笠に着る。

「外」に「権威」がないと、自分達もエラソーにできないので、幕府ができても天皇の朝廷はそのまま滅ぼされずに残ったんだな、きっと。

明治維新の時だって、別に「幕府を倒す」ことと「尊皇」はイコールでもなんでもないはずで、自分達でまったく新しい政体を作ったってよかったはずなんだもの。

「外」に本物があると思うのって、やっぱり日本が「辺境」だからなのかな。

もしもアメリカやヨーロッパや中国や、外の「大国」がぜんぶ消えてしまって、自前で「世界標準」「本物」を作らなきゃならないとなったら、日本はとっても困るのかもしれない。

先進国の仲間入りをして、自前で「日本という権威」を作って「外」と向き合わなければならなくなって、どう振る舞ったらいいのかよくわからないで右往左往しているのは、そーゆーことかも。

・「面従腹背」こそ日本人にもっともつきづきしい生き方

 「面従腹背」でいる時に、日本人の知的パフォーマンスはもっとも上がる。

 「建前」がくずれてくると、「本音」もぐずぐずになってくる。

この話題と関連して、「教会や劇場の過剰装飾性」の話も出た。これはつい先日の内田センセのblogに書かれていた(こちらの記事)。

虚構性、制度制、儀礼制、というようなものの重要さ、ということ。

「それは嘘である」という枠組みの中でこそ享受できる真実があり、それは「真実」で「重要なこと」だけれども、それをそのまんま現実生活に持ってきたらまともな社会生活は送れなくなってしまう。

だから、「それはそれとして」と思わせるために、教会や劇場や学校には「過剰な装飾性=これは現実とは違うからねというシグナル」がある。

なるほどだよなぁ。

「建前」と「本音」、「理想」と「現実」、どちらかだけではうまく行かない。行ったり来たり、どっちも持ってることが大事なんだよな。

私はお芝居でも小説でも、嘘八百なのが大好きで、現実感はない方がいいと思ってるんだけど、それは正しいと思っていいんだよね(笑)。

嘘八百のファンタジーの中に行ったきり、「現実」に戻ってこないのは問題だけど、すべてが等身大の、「現実的な」ものばかりになってしまったら、「現実」にフィードバックされるものがなくなって、きっと「現実」が貧しくなる。

「物語」よりも「ハウツー本」の方が山積みになってるのって、すごく嫌だ。なんでみんなそんなに「現実」が好きなんだろ(笑)。

演劇性、制度性の活用という話繋がりでは「二人の共通点はすぐあやまること」というのもあった。

公の立場でだったら、いくらでもすぐあやまる、と。つまり「面従腹背」?(笑)

「あやまれない人」「仕事上のことなのに、何かちょっと指摘されると全人格を否定されたかのように怒る人」の話、内田センセの著作の中に出てきたと思うんだけど。

結局、「建前」と「本音」という二重構造がないから、「あやまったら全人格的に負け」とか、「怒られたら全人格的に否定された」とかってことになっちゃうんだろうな。

人は社会的生き物で、つまりは「何考えてるかわかんない他者」と付き合わずには生きていけない生き物だから、「建前」というのは社会生活を送る上での「マナー」で、「衣服」なんだと思う。

外を裸で歩いてたら捕まる(笑)。人生という茨の道を行くのに裸だったら、あっという間に体中傷だらけになる。

・日本語の特殊性と「マンガ」の関わり

 表意文字(漢字)+表音文字(カナ)=絵+ふきだし

 漢字は脳内で画像処理されている

 日本人は日本語を読むときに「画像」と「音声」を同時に処理している=マンガを読む時と同じ構造

 マンガのリテラシー=文学のリテラシー

これも著書やblogで何度か拝見したことのあるお話ですが、非常に面白いし、好きなテーマです。

なので、別記事にしたいと思います。


養老センセ、内田センセ、楽しい対談をありがとうございました。

(内田センセ、早速昨日のこともblogに書いてくださっています。こちら そういえば内閣官房副長官の方もお見えになっていたのだった。)