先に読んだ息子ちゃんが、「1ページ目から既視感バリバリ」と苦笑していたのですが。(息子ちゃんはすでに内田本を5冊は読んでいて、「辺境ラジオ」も全部聞いています)

確かに、内田樹ファンにとっては「その話もう何度も聞いたよ~」的な内容ではあります。特に『荒天の武学』を読んだ後だと重複するキーワードも多く、間に何か別の本を挟めば良かった的な(笑)。

『荒天』は対談でしたから、こちらの方が「身体運用」について順序よくまとまっていると言えるかもしれません。ただ私には光岡氏の視点が入っている『荒天』の方が新鮮で良かったなぁ。もちろんこちらも色々と「再確認」できて面白く読みましたけども。

この仕組み(※“修業”の仕組み)は、「努力とは一種の商取引である」と信じている人には、なかなか理解できません。 (P7)

修業というのは、エクササイズの開始時点で採用された度量衡では計測できない種類の能力が身につく、という力動的なプロセスです。 (P10)

という「まえがき」だけでもう「既視感」ですし(笑)、「まえがき」で要旨は全部出ちゃってる気がしないでもない。

丁寧な「各論」となる4本の論考はもともと異なる媒体に発表されたもの。最初の「修業論―合気道私見」の部分が一番分量が多く、『荒天』を内田センセお一人で順序だててきちっとまとめるとこうなる、みたいな感じ。

合気道の雑誌に発表されたということで、割と硬い文章ですが、わかりにくくはないです。

自分の不調を、何らかの原因の介在によって「あるべき、標準的な、理想的な私」から逸脱した状態として理解する構えそのものが敵を作り出すのである。 (P41)

継時的な流れでものを説明しない、因果関係を取らないというのは、何よりもまず、時間意識を書き換えるということである。 (P43)

『荒天』でも「武には時がない」というようなお話がされていました。

横綱白鵬関が双葉山の「後の先」を目指している、という話を思い出します。双葉山が言ったという「われ未だ木鶏たりえず」の「木鶏」の話も引かれていますし。

『荒天』を読んでる時から白鵬関の相撲のこと考えてたんですけど、彼の強さが別格なのは「相手がこうきたらこう返そう」という、そういう相撲を取っていないからなんだろうな、と思うのです。

2本目の「身体と瞑想」の部分に、

何が起きるのか「待つ」構えは、原理的に「後手に回る」。どれほど迅速かつ的確に反応したとしても、そもそも「反応する」ということが「遅れる」ということを前提にしている。 (P132)

ということが書かれてありますが、「相手がこう来たらこう返す」というのは「反応している」わけで、「遅れてる」んですよね。

だからと言って「自分が先手を取る!」「自分はこう行く!」と「自分が自分が」ばかり考えていても、たぶん強くはなれない。そうやって「先にこうしよう!」とする構えもまた、「時間意識」から逃れられていない。

そして相撲にしろ他のことにしろ、「相手」のあることをやる場合、やっぱり「自分」のことばかりではうまくいかない。

内田センセは「キマイラ的身体」という言葉を使っておられますが、自分と相手と、頭2つ、胴体2つ、手足それぞれ4本という「主客を超えた1つの身体」をいかに統御するか。それをコントロールする「運転手」の立場に立てる者が「勝てる」。

実際には「主客がない」状態なので、「勝ち負け」はなくなるのですけども。

横綱朝青龍も後期には相手の力を使ってくるりと相手を投げ飛ばしてしまうような、マンガに出て来る「武道の達人」みたいな勝ち方をしていることがありましたが、「出て来る相手の力を使って」みたいな動きって、「二人で一つの動きをしている」ってことなんですよね。

「狐疑」に居着いている人間は、外からの操作的介入にきわめて感受性が高い。わずかな入力に敏感に反応する。極端な話、こちらの指一本の動きにも反応する。だから、こちらの望むところに導き、こちらの望むような姿勢をとらせることができる。 (P132)

「狐疑」というのは、警戒心を最大にして、センサーの感度を上げて、次に何が起こるのか見きわめようとする態度のこと。

そうやって警戒した方が「危機に対処できる」と思えて実は、逆に相手の思うツボにはまってしまう。

面白いですよねぇ。

「後の先」をググると、「相撲で立ち合いで遅く立ったように見えながら、組んだときは先手を取っていること。」(コトバンク)と説明されていたりしますが、実際には後手も先手もない状態、いわゆる私たちが普段使っている「時間の枠組み」をはずれたものなのではないでしょうか。

白鵬関がそれをどのように実現しているのか、そもそも私の解釈が合っているのかどうかわかりませんが、あたかも相手が勝手に転がるかのような美しい投げを見ていると、「先手」「後手」などというちまちました時間軸の世界を超えて、「二人で一つの動き」の統御を見事にこなしていると思えてなりません。

で、えーと、何の話でしたっけ(笑)。

「身体と瞑想」の中には、

東電の原発事故のときに、「想定外の危機については対応しないこと」を、私たちの国の為政者たちが久しく「危機対応」のデフォルトに採用してきたという事実が露呈された。 (P134)

という言葉も出てきます。

そして、「想定外の危機」に対した時に適切な対応ができるようになる、それこそが「武道修業の目的」だと。

そうではなくて、「自我」という、平時においては有用だが、危機においては有害な「額縁」装置の着脱の訓練をしているのである。危機に臨んだときに、すぐに「自我」を脱ぎ捨てることのできる訓練をしているのである。 (P152)

すごいですね、「武道」。

3本目の「現代における信仰と修業」は、結びの部分にジーンと来ます。内田センセが打ち込んできた合気道とレヴィナス研究。「その二つは繋がっている」という若き日の直観が、30年を経てやっと言葉で表現することができた、という深い感慨。

長い時を経て、「そういうことだったのか」と腑に落ちる。「ああ、これを選んだのは間違いではなかった」としみじみ思える。

いいなぁ。

合気道とレヴィナスを繋ぐものは、その「身体性」「生身性」。

あらゆる非人間的な行為は、人間の等身大を超えた尺度で「真に人間的な社会」や「真に人間的な価値」を作り出そうと願った人たちによって行われた。自分の生身が届く範囲に「正義」や「公正」の実現を限定しようとせず…(後略) (P180)

『仮面ライダーオーズ』の映司くんを思い出しますけども。

大きな「正義」を実行しようとして挫折し、「自分の目の届く範囲、この両手の届く範囲の人々を助けよう」と思い直した(?)映司くん。目の前の相手ではなく「世界を救おう」などと考えたら逆に誰も救えない。「世界」のために目の前の相手を切り捨てることになるなら……。

そういうデリケートなさじ加減の調整は、身体を持った個人にしかできない。法律や規則によって永続的に「正義と慈愛のバランスを取る」ことはできない。 (P182)

善悪二元的な考えが幅を利かせ、いわゆる「グレーゾーン」がどんどん潰されていく。それって「その都度の正義」を考えすりあわせるのが面倒くさいのと同時に、「身体」でなく「頭」でばかり考えようとする結果なのかもしれません。

4本目は「武道家としての坂本竜馬」。司馬遼太郎は竜馬の「修業時代」をほとんど描いていない、という話で。

司馬にも竜馬にもあまり興味のない私にはふうんという感じでした。

軍隊での「不合理」な訓練に激しい嫌悪感を持っていた司馬が「修業」というプロセスを嫌悪した、関心を持たなかった、という推論に、「“修業”と“旧日本軍的訓練”の“不合理”の違いって何だろう」とちょっと考えたりしました。

一見何の役に立つのかわからない「ぞうきん掛け」のような“修業”。

何の役に立つかわからなくても、間違っていると思っても、反論せず上司の命令に従わなければならない“軍隊的訓練”。

目指すところはまったく違うわけだし、「良き師」は「理不尽な上官」のように弟子をいじめて喜んだりはしないはずなのですが、「納得いくように説明してくれなきゃ従いたくない」という態度では、この本に書かれてある“修業”はできない。

“修業”は頭では納得できなくても、“身体”では納得できるのではないか。逆に軍隊的な有無を言わさぬ訓練、体罰でもって鍛えるような不合理な訓練というのは、“身体”に無理をさせることであるわけで。

軍隊や体育会系でお馴染みの「根性論」というのは「精神論」で、実のところ「身体」を蔑ろにしている。

この本で言及されている「武道」、「身体哲学」というものとはまったく逆のものでしょう。

というわけで、「これって前にも読んだな」と思いつつ、やっぱり色々考えさせられる内田センセのご本なのでした。