内田センセと「カワユイ(^◇^)カリフ道」家元の中田さんとの対談本です。

対談形式なので非常に読みやすく、新書でボリュームもないのであっという間に読めてしまいました。

タイトルは「イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」と3大一神教が並列に並んでますが、中田さんがムスリムであり、「カリフ道」伝道者であるので、もちろんイスラームに関する話がメイン。

非常に勉強になりました。

イスラームについて何も知らなかったな、と痛感させられます。

多くの日本人にとってイスラームというのは「中東のめんどくさい宗教紛争のもとになってる宗教で、イスラム原理主義はテロリストの温床で」みたいな印象なのではないでしょうか。

ラマダンがあったり「食べてはいけない物」が決まっていたり、女性は肌を見せてはいけなかったり、なにかと戒律が厳しいイメージも。

でも中田さんによると「イスラームはそんなに厳しくない。むしろ日本の方が厳しい」と。

マナーに外れた者へのまなざしも厳しいですね。他国の人が見たら日本人ほど戒律をよく守る民族はいない。 (P44)

電車が1分遅れただけで大騒ぎになったり、行列に整然と並んでいたり、日常の色々な場面での「制約」「守るべきとされていること」は日本の方が多いのかもしれない。

「空気読め」とか「世間の目」。日本人が「宗教」だと思ってないだけで、それはイスラームやキリスト教を信仰する人が「宗教的戒律に従っている」のと同じことなのかも。

また、豚肉を食べてはいけないとか、「ハラール認証を受けたものしかダメ」ということもよく聞きますが、中田さんによるとこの「ハラール認証」というのは本来のイスラームの精神には反するもののようです。

イスラームでは神以外に立法者はいませんから。本来は個々人がアッラーに問いかけて、食べていいか悪いかを判断すべきなんです。(中略)ハラール証明などというものを強制するのは神の大権の簒奪に等しい大罪だと思います。 (P63)

現在「ハラール認証」が広まっているのはやはり「ビジネス」の部分が大きいようです。「認証を与える」という権限がお金になるし、「うちの商品は認証を受けている」ということで宣伝になるわけで。

イスラームの食事というとラマダン(断食)も思い出しますが、これも「食べるのを我慢させられる」という話ではなくて、「施しの文化」なのだそう。

ラマダンの時期は市中のモスクやレストランで食事がただで振る舞われ、貧乏な人でも一ヶ月間お腹いっぱい食べられるようになっていると。

(「ラマダン」は「日の出から日没まで飲食禁止」なだけで、日没後は食べてよいのです。)

イスラームの世界では施しの考え方が発達していますので、普段からパンくらいは恵んでもらえます。その上、一年のうち一ヶ月はたらふく食べられる。こっちの方がよほどすぐれたシステムだと、私、最近思うようになりました。だって見ていたら、日本の貧しい人、おいしいものを腹いっぱいになんかまったく食べられてませんもの。 (P50)

ホントだなぁ、と思いますね。

生活保護受給者をバッシングする国ですもんね……。「施しの文化」って、ないですよね……。

「施し」と関わる話ですが、イスラームでは「強欲」と「吝嗇」をはっきり区別するそうです。

(イスラーム世界においては)強欲なのは構わない。しかし吝嗇は最大の悪口なのです。 (P48)

「強欲」と「吝嗇」って同じじゃないの?って思いますよね。

「欲が深い」イコール「ケチ」じゃないのかと。

ちなみに三国さんでは「吝嗇」は「度をすごして、けちであること」と説明されています。新解さんでは「どんな事にでもお金を使うことを極端に惜しむこと(様子)。けち。」

商売でぼったくりなのは構わない、けれども目の前に困っている人がいるのに食べ物や金銭を差し出さないこと、困っている人でなくても、たとえば自分が何かを食べたり飲んだりしていて、通りすがりにでも目が合って「どうぞ」と言わないことは、「末代までの恥」なのだそう。

へぇー。

日本だとなんか、「金持ちほどケチ」みたいなイメージが……。強欲に金を稼ぐのも当たり前、その金を惜しむのもまた当たり前みたいな。

「寄付文化」が日本には根づかないとか言いますよねぇ。

いや、私も人のことは言えないケチなんですけども。気前良くなるのは本と宝塚のチケット買う時ぐらいです(^^;) それ、自分のためだしね。

やはりもともと自然環境の厳しいところで生まれた宗教ですし、「共有しなければ生きていけない」という知恵が身体化されているのでしょう。

途中で内田センセが「食べ物を輸入に頼ってるとストップされたらアウトだ」「食糧を貿易の対象としてはいけない」というような話をなさるのですが、それに対して中田さんが「それは食糧の自給自足が可能な生産力が高い農耕民の発想ですね」と答えます。

砂漠の遊牧民の場合には、交易はまず食糧の確保が主目的で、文字通り、生命線です。 (P137)

なるほどなぁ、と思います。「風土が違うのだから考え方も違ってくるだろう」というのは頭ではわかっていても、ついつい「自分の感じ方が普通」という前提で世界を見てしまうのですよね。

本当に色々、「そうだったのか」と思うことが多いのですが、読んでると「日本人としての日本的な見方」以上に、「西欧的な見方」に毒されてるなぁ、と思います。

別にクリスチャンじゃないのに「宗教」と言うと「キリスト教が標準」みたいに思っちゃうし、イスラームに対する見方も欧米からの受け売り。世界史で習った以外のことを自分で調べようとも思わないし。

イスラーム圏の国の「民主化」って聞くと、つい「資本主義や欧米的な政治形態を受け入れること」って思ってしまうけど、彼らにとって「民主化」っていうのは、20世紀の「帝国主義」によって無理矢理押しつけられた国境線や「欧米的なもの」を排してイスラームのやり方に回帰することなんですよね。

押さえつけられてきた敬虔な民衆の、強権支配からの解放を求める動きを民主化と呼ぶなら、当然それは強制された西欧化、世俗化の否定、イスラームへの回帰となるわけです。 (P167)

日本でも安倍さんが「戦後レジームからの脱却」言うてはりますもんね。

欧米列強という「勝者」に押しつけられた枠組みを脱却して「自分たちのやり方でやりたい!」と考えるのは別に悪いことではないわけで。

でもシリアの内戦の様子とか見てると、「中東は大変」「宗教が絡むと大変」「民主化無理」みたいに思ってしまう…。

第四章で中田さんが現在の中東情勢について解説してくださってますが、たとえばシリアについては

不自然な境界線によって仕切りが作られることによって、複雑なものが混在しつつ生きてきた許容力みたいなもの、知恵のようなものが破壊されてしまったのではないかと。 (P180)

反政府側ですから、当然ながら無政府地帯なんですけど、なんの問題もなくて。(中略)みんなイスラームの教えに従って相互扶助で生きていて、けっこう安らかなのです。(中略)むしろ政府のあるダマスカスの方が誘拐や強盗が頻発しておりはるかに治安が悪い。 (P181)

とおっしゃっています。

イスラームは基本に「相互扶助」や「共有」の理念があるし、遊牧民のDNAもあるから、交易のためにあちこち移動するのが当たり前。たとえ民族が違っても「イスラーム」という同じ「法」に従っていて、うまくやっていくことができる。「国境線」が引かれたことによってかえってうまくいかなくなってしまった。

「領域国民国家」だけが正しいあり方ではないし、アメリカ的な「グローバリゼーション」だけが「グローバル」でもない。

イスラームとアメリカが衝突しているのは

アメリカ主導のグローバリゼーションはイスラーム圏が存在する限り成就しないからです。 (P140)

というお話に本当に目から鱗。

「イスラーム」という「グローバリズム」は、アメリカの広めたい「グローバリズム」とは違う。だから、潰しにかかる。

今のアメリカって、自分たちは一つの国であると同時に世界であると考えてますよね。自分たちがやっていることはナショナリズムでしかないのに、グローバリズムだと思い込んでいる。 (P130)

かつてローマが広大な「帝国」だった頃、ローマ人は自分たちの宗教を押しつけなかった。イスラームも同じだったそうです。

イスラームでは「人の内心はわからない」と考えるそうで、「だから干渉しない」と。

いいなぁ。その態度、すごくいい。

イスラームについても自分の無知を思い知らされましたし、「国家とは何か」「国境線を引くというのはどういうことか」ということも考えさせられる本でした。

折しもクリミアではロシア編入の住民投票が行われています。

ウクライナ全体から見ればおそらくクリミアのロシア系住民は「少数派」で、「国家」からは抑圧される。でもクリミアという地域だけ見ればロシア系住民は「多数派」。同じようにそこに住んでいながらロシアには帰属したくないという人々を抑圧することになる。

「多数派が勝つ」という「民主主義」って何だろうと思うし、「国家の意思」と「地域住民の意思」、そもそも「その国境線は正しいのか」「国境線を引くこと自体正しいのか」……。