はい、またまたウールリッチです。

1947年に発表された長編9作目。この翌年に『死者との結婚』が発表されていますが、少し似た感じがありますね。花嫁が本人じゃないというところ、いくつかのエピソードを重ねて長編にするのではなく、一人の男と一人の女が繰り広げる一つのお話というところ。

AmazonさんのリンクはKindle版で、表紙が映画『ポワゾン』になっています。アンジェリーナ・ジョリーとアントニオ・バンデラスという濃ゆい二人で映画化されたそうですが……うーん、この表紙写真からして「全然原作と雰囲気違うな」なんですけど(^^;)

フランソワ・トリュフォー監督、カトリーヌ・ドヌーヴとジャン=ポール・ベルモンドの共演で撮られた『暗くなるまでこの恋を』の原作でもあります。

日本では1981年に二時間ドラマとして映像化されているそう(『仮面の花嫁 暗闇へのワルツ』)。こちらは酒井和歌子と愛川欽也。ネットで検索してみるとけっこう原作に忠実な感じで、ちょっと見てみたい気が。

『仮面の花嫁』というタイトルも、原作の内容をよく表しています。

陽は輝かしく、空は青く、時は五月。ニューオーリンズはまさに天国であった。 (P9)

という印象的な書き出しで始まる本編。ニューオーリンズでコーヒー商を営むルイス・デュランドは、埠頭で船から花嫁が降りてくるのを待っています。

デュランドはまだ一度も花嫁と会ったことがありません。花嫁ジュリアは文通相手。互いの写真を送り合ってはいたものの、その「文章」だけで恋に落ち、結婚を決めていたのでした。

今ならさしずめSNS婚という感じでしょうか。ネット上のやりとりだけで、一度もデートせずに結婚まで突き進む。

ネット上だと「アイコンは美少女なのに実はおっさんかよ!」ということが往々にしてありますが、デュランドの前に現れたジュリアもまた、写真とは違っていました。

なんと、写真より若くて美人だったのです!!!

そんなことがあるものでしょうか。

普通はないですよねぇ。

もちろんジュリアは「なぜ嘘の写真を送ったか」について弁解をし、デュランドはそれを信じる――というか、要は若くて美人なジュリアの魅力に参っちゃうわけです。

何しろ連れて歩けばみんなが注目するほどの美女なんですから、37の年まで独身で来たデュランドはもういちころ。

この、デュランドの造型がよくできてるんですよね。22歳の時に結婚するつもりだった女に死なれて、それ以来恋とは無縁に生きてきて、四十路間近に急に寂しさを覚え女性と文通なんか始めて……。

うん、全然アントニオ・バンデラスじゃない(笑)。

読者としては「きっとこいつ本物のジュリアじゃないんだろーなー」と最初から思うわけで、ウールリッチさんもいくつか「怪しいエピソード」をつらねて「ほらほら、この女怪しいだろ?」とけしかけてくるんですが、デュランドは彼女に完全に裏切られるまで気づかない。

ほんまな(´・ω・`)

気づきたくないんだよね。すっかり彼女に惚れちゃってるから。

結婚後1か月ほどして、“ジュリア”は彼のお金をごっそり引き出して雲隠れ。彼女に騙されたことよりも“最愛の妻”を失ったことの方にショックを受け、デュランドはしばらく廃人状態。

「あなたは泣いていらっしゃるけれども、泣くほどのことじゃございませんよ。歎いていらっしゃるけれども、歎くほどの人だったでしょうか?」 (P113)

と女中のサラーばあやが言う通りなんですけどねぇ。若くて美人だけど、金遣いが荒くて葉巻を吸うはすっぱな女。

すっぱり諦めてまた地道に生きれば良かったのに、デュランドは彼女にもう一度会いたくて――会ってこの手で殺そうと思い決めて――私立探偵に捜査を依頼する。本物のジュリアがどうなったのかを調べ、いなくなった方の“ジュリア”がどこにいるか探し出してほしいと。

が。

ダウンズより先にデュランドが彼女を見つけちゃうんです。で、すっかり言いくるめられちゃう。

「私はあなたと結婚するまで男を知らなかったのよ」とか、「あなたを好きになっちゃったから詐欺計画を続けられなくて逃げたの」とかいう言葉にあっさり騙されちゃう。

もちろん最初は「こんな女の言うことを信じちゃいかん」「どうせ全部嘘だ」と理性が言い聞かせるんだけど、でも感情の方は彼女を信じたくてたまらない、彼女が「自分を好きになった」ことを信じたくて信じたくて……。

この「揺れる男心」がウールリッチの華麗な文章で逐一綴られるわけですからもう。

たまりません(褒めてる)。

彼女と再会し、すっかり彼女にめろめろになって、デュランドは一生を棒に振っていきます。気の毒というかなさけないというか、まさに「目も当てられない」感じで、読み進むのが可哀想なぐらい。

そんなロマンチストのへたれ男を面白いように手玉に取る偽の“ジュリア”=ボニーの小悪魔っぷりがまたすごい。

しょうがないよね、うん。こんな女にうっかり出逢って、たとえ一か月でも夫婦としていちゃいちゃ暮らしちゃったら、もう後戻りはできない。

再会の夜、かりそめの懺悔をした彼女は

「さあ早く、あなあたの妻の部屋へいらっしゃい」 (P250)

とデュランドを誘う。

犯した罪がバレないかと戦々恐々のデュランドに「おまえの心臓はいったい何でできているのだ?」と訊かれれば

「あら、だって彼は知らないんだもの。だから、平気な顔ができたのよ。あなたはポーカーをやったことないのね?」 (P329)

と平然と答える。

いい女ですよ、うん。これ以上はないくらい。

道徳観念ないし家事もできなくて男を金づるとしか思ってないけど、悪びれたところは全然なく、度胸も愛嬌もあって、「だって私はこうなんだもの。仕方ないでしょ?」という感じ。

お話の骨格としては「悪い女に引っかかった男の転落人生」なんだけど、後半ものすごく煩悶しながらもその実デュランドは幸せだったんじゃないかなぁ、という気がする。

最後の最後、改心したボニーが「これからはあなたのために…」と言っても、デュランドは

「おれは、いまのままのおまえがほしいんだ。たとえ生きるためだろうと、おまえを変えたくない。おれは、善良な気高い女なんかほしくないよ。(中略)絶対変るなよ。おれは、おれの知ってるとおりのおまえを愛してるんだからね」 (P487)

と答える。

そうなんだよ、彼女があんな小悪魔だったからこそデュランドは身も世もなく惚れちゃったわけで。

もし本物の、文通相手のジュリアが普通に桟橋に現れて結婚していたとして、デュランドがその後幸せだったかどうかはわからない。大きな不幸もないかわり、「こんなものか」という結婚生活だったかもしれない。

「彼女がぼくを愛してくれるならどんな運命でも受け入れます。たとえそれがスペードのエースでも」と神に願ったデュランド。その願いが最後の最後で叶えられるんだから、デュランドは決して不幸ではない……と思う。

最後の数ページはほんとにグッと来てしまいましたわ。あの小悪魔が改心するなんて御都合かもしれないけど、でもボニーが途中でデュランドのもとを去らなかったのは(デュランドの金がなくなった時点で去っても良かった)、やっぱり彼女も彼になにがしかの愛着を感じていたんじゃないかと思うのよね。彼女自身が自覚していようといまいと、それが世間一般に言うところの“愛”とはまた違ったものだったとしても。

少なくとも、二人が並の夫婦よりずっと濃密な時間を過ごしていたことは確かで。

訳者の高橋さんが解説でこうおっしゃっています。

“ウィリアム・アイリッシュは処女作以来ずっと――ほとんどの作品が――女と男の間の愛をテーマにしてきました。そのような愛のもつ矛盾あるいは心の動揺が、底知れぬサスペンスの契機となっている”

愛の物語なんですよねぇ。

ロマンチックでおセンチで破滅的。

やっぱりウールリッチ好きだ!


ちなみに県立図書館の書庫から借り受けてきたハヤカワ文庫はこんな表紙でした。昭和51年発行、定価480円。


本文を読んで想像するボニーとはちょっと違うイラストです(^^;)