子どもの頃、同じ作者の『小公子』が大好きで、ずっと読み返したいと思っているのですが、大人向け完訳本というのが見つけられず未読のまま。

『小公子』に続けて読んだ『小公女』の方は数ページで挫折して、でもこの『秘密の花園』はちゃんと読んだはずなのですが、細部をあまり覚えておらず、好きとか面白かったとかいう印象も特に残ってませんでした。

で、今回図書館の棚でふと見つけて手に取ってみたら。

何これ!めっちゃ面白い!!!!!

あらすじは知っているのに、「どうなるの?早く続き続き」とどんどんページを繰ってしまう。

いやー、ほんとびっくりした。

お話は、ヒロイン・メアリがインドで一人ぼっちになるところから始まります。当時(作品が書かれたのは1910年)インドはイギリスの植民地。メアリの父親はイギリスの軍人で、家族でインドに赴任していたわけですが、美人の奥さん(つまりメアリの母)は

母親のほうはすばらしい美人だったが、パーティーに出かけて陽気な人々と楽しい時間を過ごすことにしか関心のない人だった。子供などほしいと思ったこともなかったので、生まれたメアリの世話は「アーヤ」と呼ばれるインド人の乳母にまかせきりだった。 (P8)

というわけで、メアリは両親に顧みられることなく育ちます。

インド人の乳母や召使いたちに「お嬢さま」としてかしづかれていたメアリ。自分で服を着たことすらない、わがままで「つむじまがり」な女の子に育つのですが。

メアリが9歳の時、両親も、一番世話をしてくれていた「アーヤ」もコレラで死んでしまい、屋敷の中に一人取り残されてしまうのです。

もうのっけからこの描写がすごい。

両親とろくに口をきいたこともないメアリ、屋敷の様子がおかしくても、「それはコレラという病気のせい」ということをぼんやり知るだけ。誰も世話をしに来てくれず、お腹をすかせて泣いては眠り、眠っては泣くうち、気がついたら一人ぼっち。

コレラを免れた使用人たちも、メアリのことなんかほったからしで逃げ去ってしまっていた!

幸いにもイギリス軍の将校が屋敷を訪れてくれて、メアリは「助かる」のですが、

「例の、だれも見たことがないという子供だ!」(中略)「ほんとうに忘れられていたんだ!」
「どうして、忘れられてたのよ!」(中略)「どうして、だれも来ないの?」 (P17)

というとんでもなさ。「感動の救出」にはほど遠い場面です。

パーティ好きの美人の母親はメアリをパーティに連れて行くことなどせず、「子どもが一人いるらしいが誰も見たことがない」。大人達から存在を無視され、完全に忘れられていた子ども。

将校さん、メアリを見て最初ぎょっとするんだもんね。まぁ、まさか子どもが一人でそんな「死の屋敷」に取り残されてるなんて思わないし、「子どもも一緒にコレラにやられたんだろう」と思ってたから、「こんなところに子どもが! どこの子だ?」って思うわけ。

で、発見されたメアリがまた、「うわぁーん!怖かったよぉ!みんないなくなっちゃったよぉ!」と泣くような子ではなく、「どうして、忘れられてたのよ!」と食ってかかるわけで。

うぉぉ、何この子、すげー。

でもメアリにしてみたら、大人はみんな「自分に奉仕するもの」でしかなかったのです。メアリはそんな召使いとしか触れあったことがなかった。母親のこともきれいな「メム・サーヒブ(奥様)」として遠くから見つめるだけ。

お父さまやお母さまが生きていたときでさえ自分はだれかの子供だという気がしなかったけれど、それはなぜだろう、と。ほかの子には、ちゃんとお父さんやお母さんがいる。でも、自分はだれかの大切な子供だと感じたことがないような気がした。 (P26)

どう考えても、両親から何か話を聞かせてもらったような記憶はなかった。 (P29)

可哀想な境遇なんだけど、一方で召使いにかしづかれてわがまま放題に育っているので、「十人が十人、こんなにかわいげのない子供は見たことがないと言った」(P8)メアリ、親戚であるクレイヴン氏の屋敷に引き取られることになります。

クレイヴン氏の奥方がメアリの父親の妹だったのですね。つまり、クレイヴン氏はメアリにとってはおじさん。

ヨークシャーのムーアの果てにある広大なお屋敷には、「開かずの間」が100もあり、「開かずの庭」までありました。それがタイトルの「秘密の花園」なわけですが、そこに至る前、新しい世界へと少しずつ踏み出していくメアリの描写がすごくいいんですよねぇ。

メアリの世話係はまだ若い(正確な年齢は書いてない)ヨークシャー娘のマーサ。この子が変にびくびくしたり、偏見を持ったりせず、まっすぐ常識的にメアリにぶつかってくれるのが、とてもいい。

自分で服を着られないメアリにびっくりして、「じゃ、そろそろ自分で着ることをおぼえた方がいいよ」と言ったり、「あんた、おつむがからっぽなの?」と言ったり。

「召使いと主人」ではなく、ごく普通に、対等に、話をしてくれるマーサ。次第にメアリはマーサのことを好きになっていくし、マーサが楽しそうに話す「母ちゃん」のことも、弟ディコンのことも、好きになっていく。

またこの「母ちゃん」とディコンがねぇ。素晴らしいんだよ。

マーサは12人兄弟で、一家の暮らしは決して楽ではない。それどころか、家賃を払うのにもいつも四苦八苦している。なのに「母ちゃん」は「一人ぼっちで知らないお屋敷に放り出された」気の毒な女の子のために、縄跳びを買ってプレゼントしてくれるのです。

「母ちゃん」本人が登場するシーンはほとんどないんだけど、マーサやディコンの話の中に出て来る「母ちゃん」の言葉がどれも素敵で、メアリ同様「会ったこともないのに好き」になってしまう。

そしてディコン。

マーサの弟で12歳のディコンは、ムーアという自然の申し子、動物と話ができ、彼が世話した花や野菜はびっくりするほどきれいに、よく育つ。

決してハンサムではないディコンを、メアリは「美しい」と思い、「天使」だと思う。

野生児でたくましいんだけど、乱暴者ではなく、それどころか穏やかで優しく、「貧相でつむじまがり」な初対面の女の子にも、ごく普通に、親しい友だちに話しかけるように満面の笑顔で声をかける。

「いま、ゆっくり立ったのは、いきなり動くとあいつらが驚くからだ。動物がそばにおるときは、そうっと動いて小さい声でしゃべるんだ」 (P154)

「CV:くまいもとこ」で聞こえてきましたねぇ。野性味と素朴さを加味した小狼(しゃおらん)君。

かつてNHKで放送されたアニメではディコンの声は田中真弓さんだったそうで。それもめっちゃわかる。

動物や植物と意思の疎通ができるなんて言うと人間離れした変な子っぽいけど、マーサの弟で、もののわかった素敵な「母ちゃん」の息子であるディコンは本当に“まっとうな”子で、

「おれらは庭が育つのを楽しみにしとるだけの子供だし、坊ちゃんも同じ、ただの子供だ。あんたと、おれと、坊ちゃんと三人で春が来るのを楽しみに庭を眺める、そんだけのことだ。医者の薬なんかより、よっぽどいいさ」 (P263)

なんてセリフとか、いちいち「ディコンー!ええ子やー!」とすりすりしたくなります(笑)。

で、このセリフの中の「坊ちゃん」。

実は、クレイヴン氏には息子がいるのです。でも最初、メアリはその子に会わせてもらえなかった。紹介もされず、時折聞こえてくる泣き声に「あれは誰?」と尋ねても、「風の音でしょう」とはぐらかされる始末。

クレイヴン氏の息子コリンも、メアリと同じく「召使いたち以外には誰も見たことがない子供」だったのです。

メアリとはいとこの間柄、しかも同じ10歳(屋敷に来る頃にはメアリは10歳になってた)で、二人ともが「隠された子供」って……。

最愛の妻を亡くした悲しみ、そして、自身の「せむし」が息子にも遺伝しているのではないかという恐怖によって、コリンから目を背け続けたクレイヴン氏。周囲から「せむしになる」「長く生きられない」という“呪い”をかけられ、死の恐怖を抱えてほぼ寝たきりの生活を送ってきたコリン。

メアリの生育環境もたいがいでしたが、コリンもね。

召使いがいて、生活に不自由はない。コリンのかんしゃくを怖れて、誰も彼に刃向かわない。メアリと同じくわがまま放題の「小さなラージャ(インドの王様)」に育ってるけど、でも彼の心は「ぼくは長く生きられないんだ」という恐怖と悲しみでいっぱい。何しろ主治医がクレイヴン氏の親戚で、「ぼくが死ねば遺産は全部彼のものになるんだから」という状況だったりもする。

「みんなぼくが死ねばいいと思ってるんだ」

そんなコリンとメアリが出会って、容赦ないメアリが

コリンが死ぬことを口にするときの口調が気にくわなかった。同情してやる気になれない。コリンの口調は、もうすぐ死ぬことを自慢してるように聞こえるのだ。 (P235)

「いいかげんにしなさいよ! あんたなんか最低だわ!(中略)あんた、そんなにわめいてたら、ほんとにそのうち死ぬからね! 死んじゃえばいいのよ!」 (P283)

と叱り飛ばす。

この場面、でもほんと、じーんと来るんだよね。
普通だったら「なんて冷たい、ひどいことを言う女の子だ」ってなるところだけど、でもコリンには何よりこうして「正面からぶつかってくれる相手」が必要だった。

コリンの「病気」はほとんど「恐怖」と「ベッドに引きこもっていること」が原因で、実のところどこも悪くはなくて、周りの大人達が腫れ物に触るように扱いすぎたせいだったから。

メアリもコリンも、同世代の子供と遊んだ経験もなく、「人間なんかどいつもこいつも大嫌いだ」という心境で10歳になって、でもマーサやディコン、そしてムーアの自然がまずメアリを変え、そのメアリがまたコリンを変え――。

『小公子』は偏屈なおじいさんの心を天使のようなセドリックが開いていく、って話だったけど、『秘密の花園』は偏屈な子どもがちょっとしたきっかけで自分自身を変え、いとこをも変えていく物語で。

そこがねぇ、なんともねぇ。

おばさんになったからなのかな。子どもがすくすくと、健康な方へ変わっていくのが、とても嬉しいし沁みる。

「貧相で不器量」と言われていたメアリは庭仕事やディコンとの触れあいのおかげでふっくらして可愛くなっていくし、コリンも見違えるようになっていく。

バーネットはこの作品を61歳の時に書いていて、30代後半の作品である『小公子』や『小公女』とはやっぱりバーネットの「子どもへの視線」も変わってきていたのかな、と思ったり。

ディコンをはじめ登場人物には「ヨークシャー訛り」があって、訳者さんが「どこの日本方言でもない訛り」で訳してらっしゃるんですが、これがまたとてもいい感じ。

特に「あいよ」っていう返事がいい。

「あんた、あたしのこと好きかい?」メアリは聞いた。「あいよ!」ディコンは真っ正直な顔で答えた。「好きだとも」 (P175)

ここでメアリはヨークシャー訛りを真似て質問してるんだけど、メアリが真似したくなるのもわかるようにマーサやディコンの言葉が訳されていて、訳者さんすごい。

ちなみにこの、「好きか?」「好きだ」っていうのは別に恋愛感情ではないんですが、1993年に作られた映画では「メアリがディコンと恋に落ちる瞬間が描かれている」らしく。

えー、それは蛇足だろ。

将来的にはディコンとメアリは結婚するかもしれないけど、このお話の段階ではメアリにとってディコンは自分を好いてくれるコマドリと同じで、「ムーアの天使」で、花園の秘密を共有する同志で……。

映画の最後にはメアリが「クレイヴン氏に愛情と承認を求める」ふうにもなっているらしいけど、それも違うと思うなぁ。メアリはそういう子じゃないと思う。「自分は誰の大切な子どもでもない」と感じても、「だから自分は不幸だ」と思う子でもなかったし、物語が進むにつれて「普通の子ども」っぽくなっていっても、なんかそこはあっけらかんとしてる気がするんだけど。

親はいなくても、マーサやディコンや「母ちゃん」が自分のことを気にかけてくれるのはわかってるし、クレイヴン氏も旅先からプレゼントを送ってくれたりして、それですでに感激しているんだから……。

(↓ ちなみにその映画はこれっぽい)


解説の人が書かれているように、小説の方は最後で急にメアリの影が薄くなってしまうので、映画としては最後にメアリにも見せ場を、ってことなのかもしれないけど。

うん、ちょっとね、確かに小説の終わり方には不満がある。「え?メアリは!?」ってなる。

でも、全体としてはすごく面白かった。読んで良かった。

根っから悪い人が出てこないのもいいよね。コリンの主治医のクレイヴン先生(親戚なので同じ名字)も

クレイヴン先生は心の弱い人間ではあったものの悪辣な人間ではなかったので、コリンがほんとうに危険な目に遭うことは望んでいなかった。 (P310)

って描写されてる。

悪辣な人間はいないのに、メアリもコリンも不幸な状態に置かれていて、ちょっとしたきっかけでいい方向に回っていくのに、逆に言えば、ちょっとしたことで悪い方悪い方へ回っていっていた。

メアリに対しては「あんた、おつむがからっぽなの?」と言えたマーサも、コリン坊ちゃんに対しては「めっそうもない」というおっかなびっくりな態度しか取れなかった。それがお屋敷の「常識」で「空気」で、逆らえばクビだと思われていたから。

ある意味メアリは「仕方なく引き取っただけのどうでもいい子」だったから、マーサもタメ口利けたんだよなぁ。

 
はぁ、ほんと面白かった。くまいもとこさんのディコンで再アニメ化、ないかな。


(※『小公子』も読みました。感想記事こちら