『秘密の花園』があんまり面白かったので大人向けとか完訳とか気にせず借りてきました、岩波少年文庫版。2011年に出た新訳版です。(特に謳われてないけど完訳なのかもしれない。もともとあまり長い作品ではなさそう)

『秘密の花園』に比べると主人公セドリックがあまりにいい子すぎてムズムズしないこともないですが、それでもやっぱりよくできてて面白かったです。

アメリカで育った7歳の少年セドリックが、突然「君はイギリスのドリンコート伯爵の世継ぎだ!」と言われてイギリスへ渡り、わがままで偏屈で嫌われ者の祖父の心を開いていく物語。

訳者の脇明子さんが若い読者のために当時の時代背景を「物語のまえに」という形で説明しておられ、大人の私にも勉強になります。

この作品が出版されたのは1886年。アメリカ独立宣言が出されたのは1776年の7月4日で、ざっと100年前です。まだ、やっと100年。

最初、アメリカにいるセドリックの周囲には、7月4日を盛大に祝うアメリカの人たちがいて、伯爵だのなんだのというイギリスの貴族制度を罵る食料品屋の店主、ホッブスさんがいます。

セドリックとホッブスさんはとてもなかよしで、新聞を読んで政治や社会のことを二人で語り合ったりしていたのですが(なんという7歳でしょうか)、「うちに伯爵なんか来たらただじゃおかねぇぞ!」とホッブスさんが言ったその日に、セドリックは「自分が伯爵家の跡取り」だと知らされるのです。

「ああ、ママ!」とセドリックは言った。「伯爵になんか、なりたくないよ。ほかに伯爵になる子なんて、一人もいないもん。ならないとだめなの?」 (P34)

「ほかに伯爵になる子なんて一人もいないよ」って言い方、なんか面白いですね。アメリカで生まれ育ったセドリックは独立記念日を祝い、大統領のことを誇らしく思う「アメリカの少年」で、祖父に「大統領になりたい」と言ったりします。

「なら上院議員にしてやろう」と祖父は答えるのですが、イギリス貴族のドリンコート伯爵はもちろんアメリカのこともその大統領のことも「たいしたもの」だとは思っていません。自分をアメリカ人だと言うセドリックに向かって、

「おまえはイギリス人だ。」伯爵はぴしゃりと言った。「父親がイギリス人なんだからな。」 (P135)

と言います。セドリックは

「ぼくはアメリカで生まれました。アメリカで生まれたら、アメリカ人にならなくちゃいけないんです」 (P136)

と言い返します。

子どもの頃(おそらく小学校低学年)、家にあった講談社版『世界少年少女文学全集』で読んだ時に、アメリカとイギリスの関係や文化の違いをどれくらい理解していたのかわかりませんが、大人になって読むとそこがすごく面白いですね。

単に「初めて会う祖父と孫」ってだけじゃなく、たった7年とはいえまったく違う文化圏で育った子どもが由緒正しい伯爵家に行ってカルチャーショックを巻き起こす。

祖父であるドリンコート伯爵はそれまで領地に住む人びとのことなんか考えたこともなく、自分のためにしか生きてこなかった。3人の息子たちを可愛がったこともなく、孫を呼び寄せたのも跡継ぎが必要だったから、というだけで、愛するためなどではさらさらなかった。

それが、すっかり「ジジ馬鹿」になってしまうんだけど、そうなっていく過程が面白いんですよね。

自分勝手な醜い動機によってしたことのひとつひとつが、単純素朴な子どもの目によって、すべて善良で気前のいいふるまいに変えられてしまうというのは、前代未聞の経験だった。 (P186)

伯爵とセドリックのコミュニケーションには「ズレ」があって、でもその「ズレ」がいい方へいい方へ回っていく。

優しくて賢い母親に育てられ、まっすぐないい子に育っているから、というだけでなく、セドリックが「階級社会」についてよくわかっていないこともすごくプラスに働いている。

伯爵にとっては「アメリカの貧乏人」にすぎないホッブスさんや靴磨きのディックが終盤きちんと活躍するのも楽しく、あっという間に読了してしまいました。

三男であるセドリックの父親だけが好青年で兄2人はろくでなし、しかも相次いで急死とか都合良すぎるし、もしもセドリックやその母親が性格はいいけど見た目がイマイチだったらどうだったんだろう、と意地悪なことを考えなくもないですが(^^;)

「私の小さい坊やが生まれてきたおかげで、この大きな世界が少しはよくなったと言えるようになるかもしれないわ。何よりも大切なのは、そのことなのよ、セディー。その人がいるおかげで、世界が少しはよくなるということ、それが何よりも大切なことなの」 (P203)

お母さん、ほんまなー、いい人すぎるんよなー。ぐうたら母としては少し眩しすぎる……。

 
で。

子どもの頃、私はこの作品が大好きだったのですが、「『小公子』面白かった」と言うと父も「そやろ、あれおもろいやろ」と言って、感想を言い合ったことがありました。

前前前世ぐらい遠い日のことなので、具体的にどんなことを話したのか、子どもの自分がどこに惹かれたのかも、さっぱり思い出せません。

父が何歳の時に『小公子』読んだのかもわからないし。1890年(明治23年)には早くも日本語訳がされていたということなので、父も子どもの頃に読んだのでしょうか。お世辞にも裕福とは言えない、おそらくはかなり貧乏で、15歳で働き始め、足の悪い父親(私にとっては祖父)をおぶって仕事場まで連れて行っていたという苦労人の父が、「突然伯爵家の跡継ぎだと言われてお城へ連れて行かれ、何不自由なく暮らす少年の物語」をどんな気持ちで読んだのか、聞けるものなら聞いてみたいなぁと思います。

もっとも、当時の私にとっても、貴族だの伯爵だのというのは「おとぎ話」。セドリックの境遇を羨むよりは、「心を開いていく伯爵」の様子を面白がっていたのじゃないかな。

ある意味、突然伯爵家に連れてこられたセドリックは「目が覚めたら異世界の王子だった」みたいなものですものね。巧まずしてラスボス(?)ドリンコート伯爵を籠絡撃破、最後のピンチにはかつての仲間が海を渡って駆けつけてきてくれる、若い勇者の冒険譚。

今の子にも面白い……かな? 父が生きている間に息子ちゃんにも読ませて(たぶん現在に至るまで読んでない)、親子三代で『小公子』談義、すれば良かったなぁ。

ね?お父ちゃん。