『そばかすの少年』の姉妹編です。
「そばかす」がリンバロストの番人として頑張っている姿を「まだ小さい頃」に見ていた少女、エルノラが主人公。
物語の終盤でそばかすとエンジェル夫妻も出てきて、8歳を頭に4人の子どもをもうけ、幸せに暮らしていることが描かれます。
一方、今回のヒロインのエルノラは苦難の少女時代を過ごしてきました。母一人子一人の家庭で育ちながら、その頼みの母はエルノラに冷たく、無慈悲で理不尽な仕打ちを受け続けてきたのです。
それでも心優しく、忍耐と努力を身につけ、勉学の才にも恵まれたエルノラは町の高校へ通おうとします。町の女学生が一体どんな格好をしているのか、「学校へ通う」ということはどれほどお金がかかるかも知らずに……。
上巻の最初の方は、なかなか読んでてつらいものがありました。
田舎くさい格好をした、いかにも貧しく場違いな娘を、他の学生たちがどんな目で見たか。
「教科書はいただけるものと思っていました」とエルノラが答えた時の教授の顔。
加えて、「村からの生徒は年に二十ドルの授業料を払わなければいけない」と言われ、絶望的な気分に襲われるエルノラ。
エルノラには、そんなお金はないのです。
母に話しても、払ってもらえるわけがない。
実のところ、エルノラ一家は決して貧乏ではないはずなのでした。土地は十分にあり、木を売ったり開墾したりすれば相応の収益を上げるはず。また、油田だって眠っている可能性が高い。
けれど、母ケートは最愛の夫の忘れ形見であるその土地に手を入れることを許さず、値上がりするばかりの税金をどうして払っていったらいいのかと日々文句を言っています。
なのでエルノラが学校から戻り、「学費を出してくれないか」と頼んだ時も、
「ちゃんと言ってあるじゃないか! 一銭だってどうもできないと。はっきり言っておいたのを忘れたのかい?」 (上巻P38)
とにべもない。
しかも彼女は、授業料のことを知っていたのです。
「あんたがどんな目にあうか、ちゃんとわかっていたのだよ! けれど、あんたが手のつけようもないほど頑固で、自分の思いを通そうとかかっているので、少しは世間というものを見せてやろうと思っただけさ!」 (上巻P39)
「もちろん、あんたが泣き言を言って帰って来ることもわかっていたよ! けれど、あんたには一文だってやらないよ!」 (上巻P39-P40)
そんなよけいなお金など持っちゃいない、というのはまぁ、ケート的には真実なのだけれど、「わかっていて娘に恥をかかせ」、それをこんなふうに喧嘩腰でまくしたてちゃうところがすごい。
とにかく上巻は母と娘のバトルが主眼で、エルノラに次々と降りかかる災難に胸を痛ませながら読み進みました。
うん、面白いんだけど、読むのけっこうつらい……。
エルノラはリンバロストの珍しい虫や植物、とりわけ「蛾」を売ることで、自分で学費をまかなっていきます。
買い手は主に「鳥のおばさん」。そう、古典新訳文庫版「そばかすの少年」では「バードレディ」という名で呼ばれていた女性です。
エルノラは、かつてそばかすが「宝箱」としていた箱と、その周囲の「部屋(森の中の美しい空間)」を譲り受けてもいます。そばかすやエンジェルの遺産、バードレディが支払ってくれる蛾の代金、そして隣人のシントン夫妻の愛情に見守られて、エルノラは高校の3年間を終えます。
実の娘2人を幼いうちに亡くしたシントン夫妻は、これまでもエルノラを本当の娘のように可愛がってきたのですが、この夫婦に対するケートの言い草がまた!
「あんた方夫婦が来る日も来る日もエルノラがわたしを嫌うように仕向けるのを、胸をえぐられる思いをしながらも、おおっぴらにおこる気力もなく眺めて来たのを知らないんですか?(中略)わたしがせっかくあの子を一人前に仕込もうとしてこごとでも言えば、泣き顔をしてそのたんびにあんた方のところへ飛んで行くように言いふくめてあるじゃありませんか?」 (上巻P80)
うおぉぉぉ。
いかにもありがちというか、昔(1909年の発表)もこんなDV母いたんだなというか、ケートの造型が色々とすごすぎ。
夫が沼に沈んでいった時、ちょうど産気づいてしまって救えなかったことが彼女のトラウマになっているんですよね。夫の命と引き換えに生まれてきたような娘。土地以上に夫の忘れ形見であるはずなのに、「おまえのせいで私はただ夫が沈むのを見ているしかなかった」と思っている。
でもやっぱりよその夫婦に一人娘を取られるのはつらいし、町の学校なんかに行かせてしまったら、エルノラは二度と自分のもとへ帰ってこないのではないか、という怖れも抱いているようなのです。
だから、娘の帰りが遅いとそわそわして様子を見に行ったりもする。
心配なのに、心配していることを悟られるのも、帰ってきた娘を喜んで出迎えるのも嫌だと思っている。
すごく困った母親なんだけど、でも「わかる……」と思ってしまう部分もあって、ある意味エルノラ以上にケートがヒロインのような気も。
「町の学校」がどんなところか、そこで恥をかくというのがどんなことか、ケートは本当の意味ではわかっていなかった。夫を亡くして以来殻に閉じこもって生きていた彼女は「世間知らず」で、その目が開かれるやいなや、今度は「ちょ、お母ちゃん!」って感じに逆方向に暴走する。
いや、ほんと、強烈な女性です、ケート。
母娘の葛藤がメインの上巻に比べると、エルノラの恋物語に軸を移す下巻はおまけのようなもの(笑)。
エルノラと恋に落ちるフィリップの婚約者、エディスとの対決はなかなか見物(みもの)だったりはしますけども。
「あれほど自己満足をしている人がこの世にいるなんて、自分で実際にたしかめなければあたしには信じられなかったでしょうよ。男の人におよぼす自分の力のことを平気で話して、あたしが網を持ち『蝶々をつかまえて来るわ』と言うのとおなじくらい落ち着き払って『男の人にひざまずかせる』ことを自慢するのよ。」 (下巻P225-226)
という女性なんですよね、エディス。
でもエルノラも負けてないわけで。
「フィリップの前にいる時いつなんどきでも、あなたがご自慢の魅力とやらを発揮してあの方をとらえなさい。そうできたら、正当なことだとみとめて上げますわ。(中略)もし元の魔力がかえって来たのなら、あたしが一ばんにお二人のご幸福を祈りますわ」 (下巻P221)
と、ぴしゃりと言い捨てる。
さすがケートの娘……。
上巻には、訳者村岡花子が昭和39年に書いた短いエッセイ「夏のおもいで」が収録されているのですが、その中で花子は
「私は日本のティーン・エイジャーの読むものについて非常な不満を持っていた。それは若い人たちがわるいのではなくて、適当なものがないのだ」 (上巻P347)
と述べています。
そして
「恋愛といえば直ちに性愛にいってしまう。だから若い人が正しい恋愛観を持ちえないのである」 (上巻P348)
上巻には、訳者村岡花子が昭和39年に書いた短いエッセイ「夏のおもいで」が収録されているのですが、その中で花子は
「私は日本のティーン・エイジャーの読むものについて非常な不満を持っていた。それは若い人たちがわるいのではなくて、適当なものがないのだ」 (上巻P347)
と述べています。
そして
「恋愛といえば直ちに性愛にいってしまう。だから若い人が正しい恋愛観を持ちえないのである」 (上巻P348)
と。
フィリップに婚約者がいると知って自分を律するエルノラ、エルノラを崇拝するフィリップのふるまい、失意のエディスを献身的に支えるヘンダソン、そしてエルノラとエディスの正面からの斬り結び。
……海外の若い男女ってこんななのか、と平成の世でも思ったりしますけども。
いわゆる「社交界」というものが日本の庶民にはピンと来ないし、こういう男女関係の物語って、ついぞ日本には存在しないのでは……いや、日本の小説ほとんど読まないのでわからいないけど。
ちなみにこの「夏のおもいで」というエッセイには
広岡浅子という老人がいて六十歳をすぎてクリスチャンになったという女性である。 (上巻P346)
というくだりもあります。
そう、NHKの朝ドラ『あさがきた』のヒロインのモデルとなった女性。『あさがきた』に『花子とアン』のヒロイン吉高由里子が出るかも、と話題になったこともあり、広岡浅子と村岡花子の関係は知っていましたが、「老人がいて」という書きぶりにちょっとびっくり。
『花子とアン』はチラっとしか見ていませんでしたが、田舎から都会の女学校に通った花子には、上巻でのエルノラの苦難が我がことのように思えたのでは。(Wikiを見ると、実際の村岡花子は5歳で上京しているらしいけど、実家が貧乏だったのは同じ。「働きながら勉学をしている人々にこそ特にこの書をささげたい」と訳者あとがきに書いています)
一方、現実に「鳥のおばさん」として鳥や自然の写真を撮り、小説だけでなく自然に関する作品もものしていた原著者ポーターさん。
リンバロストの豊かな自然と生きものたちについて教えられる先生がいないから、ぜひ教鞭を執ってくれ、とエルノラが請われるシーンなど、ポーターさんの「願い」を感じます。そういった博物学を、ぜひ小さい子ども達にも、という思い。
「ああいう毛虫がまったくきれいで、なんにも人間に抵抗するわけではなし、無害で、生きているビロードとおなじだと、あなたは教えて上げたことがないんですか?」 (下巻P48)
というエルノラのセリフとかね。
毒虫だと思ってケートが踏み潰してしまったものが実は珍しい貴重な蛾で、その事件が母と娘にとって決定的な出来事になるのも面白いしうまい。
家の中にいたらねぇ、駆除するよねぇ……。
『そばかすの少年』よりこちらの方が面白かったです。村岡花子の訳も、そんなに古めかしく感じません。子どもの頃から翻訳ものを読んできた人間としては、少し古めかしいぐらいの方が懐かしくてかえって楽しいですし、原著の時代背景をも感じられる気がする。
村岡花子が「夏のおもいで」で挙げている『ケレー家の人々』という作品もまた読んでみたいです。
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