1987年11月に行われた「橋本治スーパー6時間講演会」の内容に補筆したものです。
1987年というと橋本さんはまだ39歳! 『桃尻娘』刊行から10年ほど後で、『アストロモモンガ』を書いた直後っぽいです。

講演の書き起こしということもあるし、まだ若い(今の私よりずっと年下!)ということもあるし、なんというか全体に「熱くて」、今読むと少しくすぐったいような、なんとも不思議な感じがいたします。

語られてる内容も語り口も「橋本さん」全開ではあるんだけど、目の前にいるのはずっと憧れてきた年上の人ではなく、とても若い――文字通りまだ「青さ」の残る「青年」で。

本ってすごいね。
こんなふうに、タイムスリップできる。

なんと講演の音声を収録したカセットテープも発売されたそうで。いや、これ、すごくない? まだ持ってる人すごい貴重。どこからどこまでの90分が収録されてるんだろう…。


橋本さん、最後、泣いちゃってるんですよね。
おそらく2時間ずつ、3部構成で行われたスーパー講演会、各部で服も着替えての登壇、最後の「原っぱの論理」という部分で感極まって何度も泣いてらっしゃる。

そこで語られているのは橋本さんの子供の頃(小学生から高校ぐらいまで)のお話で、『勉強ができなくても恥ずかしくない』(姉妹サイトの記事に飛びます)で「物語」として詳しく書かれたし、橋本さんファンにとっては「またその話」ではあるのだけど、なんせ講演だし、まだ39歳で、『桃尻語訳枕草子』がブレイクしたとはいえ、いわゆる文壇的なところからは“色物”と見られていたっぽい時期で、「俺はそれでもこうして生きていくんだ!」「こうじゃないとやだ!を貫くんだ!」「子供の自分のために!」っていう想いがとっても生々しい。

原っぱで遊んでた幸福な夏休みの終わり、次の年には橋本さんは中学生になり、「原っぱ」は受け継がれず、「ああ誰もいない……」。それを思いだして語りながら、橋本さん、泣いちゃう。

あれで良かったのに、そこには全部あったのに、でもそれを捨てることが世の中的には「大人になる」ことのように言われていて、なんでだよって。

そういうことって、一番大事なことだから誰からも邪魔されたくないし、生きてくってことがそういうことでしかないから、(泣きながら)それこそ邪魔されていくのはいやだ。ずーっと思ってた。 (P202)

そういう子供の時の気持ちをずーっと持ってられるのすごいな、ってほんと思う。「そんなのやだ」って気持ちを持ちつづけて、一人でつらくても「やだ」って思い続けて、どこからも救いの手が来なかったからしょうがない、自分で自分を救うために「自分の思想」を打ち立てる。

なんでやるって言ったらね、「自分の思想があれば自分の思想によっかかれるから楽だもん!」。 (P204)

そうして「思想家橋本治」になって、物書きになって、思想を作っていく段階はとても孤独でつらいけれど、でもやめられない。

何に対してやめられないのかっていうと、十七の自分に対してやめられないのね。「やだ、僕はやだ。こっちじゃなくちゃ、やだ」って言うから、「分かってるよ、そんなこと分かってるよ。うるさいな、こっちだろ」ってことやってるから。 (P215)

ああ、17歳の私、ごめん……。


『近代史』っていうタイトルどおり、第一部や第二部では全共闘の話やら天皇の話(昭和天皇の話)が出てきて、なるほどって思うこといっぱいあったんだけど、第三部まで来たらそれまでの話はただの「マクラ」でしかなくて、この本を読む値打ちは泣きながら語る第三部にあるんだ、って思った。

感性で必要なものって、「オバサン」と「少年」だけのような気がする。「オバサンと少年だけでいい!」って言っちゃうのはね、それの反対を考えると分かるの。オジサンと少女だけになったねェ、なんにもないんだよね。 (P19)

天皇っていうのは、達成された唯一の近代自我だと思うのね。自分であることは全部自分の中にとどめておいて、公的な自分を、ずーっと他人の為に演じ続けるっていうのが近代自我だからさ(後略) (P97)

などなど、ほんとに第一部第二部も面白いんだけど。いっぱいメモってしまったんだけど。

でも第三部で橋本さん自身が

講演なんていいんだ。そんなもんぶっ壊れて。きちんとした話なんてしたくもない。全部ぶっ壊れて、何かが通っていけば、それでいいじゃないって、そういう風に思うから(後略) (P211)

って言っちゃう。

そうして『アストロモモンガ』に触れて、「この口から出まかせだけの五百四十枚の原稿が一番好きだ」(P218)って言っちゃう。

口から出まかせで540枚書けるってホンットにすごいよね。
もう『アストロモモンガ』読み返すしかないじゃん。


真面目になるのはなんの為? 冗談が分かる為じゃないの? 全部蹴っとばす為にあるんですよ。 (P218)

なんか、生前最後に刊行されたのが『おいぼれハムレット』だったの、まさにそれ、って感じがします。シェイクスピアと落語、両方存分に知った上でないとできない、非常に高度で知的な“冗談”。

うっかり真面目に批評したら、「何言ってんの?冗談もわかんないの?」って言われそう(^^;)


そんなわけで第三部が白眉だと思うんだけど、第二部の112ページから115ページにかけての掃除のお話については是非書きとめておきたい。

橋本さんが一軒家に一人で住んでた時、一人だから仕方ない、自分で家を掃除するわけだけど、「掃除ってやり始めると、いくらでも出来るんだよね」と。全部をきれいにするために一週間かかるとすると、一週間後、最初に掃除したところはすでにまた汚れているわけだから、無限の循環になる、と。

そう、それ!

一週間どころか、掃除機かけたハシからまた埃が出てくるから……。
達成感ってものがないんだよ、掃除。達成感得るほど掃除してないのは承知の上だけど、「どうせまたすぐ」って思うし、死なない程度に片付いてりゃいいじゃん、ね? ね?

で、橋本さんは

一番重要なことは何なのかっていうと、家がきれいになっても、俺はきれいにする側だから、それを享受出来なくなっちゃうんだよね。 (P113)

とおっしゃる。

なるほど、そういう考え方はしたことなかったけど、言われてみれば「なんでこの私が掃除を!」と常々思ってはいた。「そんなの誰かがやってくれればいいじゃん、私にペン以外のものを持たせないで!(笑)」って思うのはそういうことだな。

まぁ世の中のきれい好きな人は「自分のため」に掃除してるんだろうけど、橋本さんでさえ「俺は何のために家をきれいにしてるんだ?」「家の主人は俺なのに、俺はその“きれい”を享受できない、なら客を呼んで客の為にしてしまうか?」と自問自答されるのだから、「なんで俺が掃除を」はそんなに奇妙な発想ではないはず……。

そうして橋本さんは「あー、家って面倒くさい」と一軒家からマンションへ引っ越された。

夫に仕えてるんでもない、家族に仕えてるんでもない、家族というカテゴリーに仕えてるんでもない、「家」という建物に仕えてるのね。 (P115)

マンションでも掃除は必要だけど、一軒家に比べたら外回りを考えなくていいだけマシだし、街の中の「置かれ方」が一軒家とマンションでは違うと。

ふうむ、なるほど。
賃貸アパートに住んでる時も掃除は嫌だったけど……そして今も二世帯同居なので外回りに関してはノータッチなんだけど……ハハハ。