めちゃくちゃ久しぶりに、橋本治さんのご本です。
昭和60年(1985年)に執筆され、翌1986年に徳間書店から刊行された作品で、2023年に河出文庫から再刊されました。1巻目は発売後割とすぐ紀伊國屋で買って、買ったことを忘れて1年ぐらい寝かして、そのあと隙間時間にちびちびと、1年ぐらいかけて読み、2巻目も半年ぐらいかけてやっと先日読み終わりました。
文庫本がバカ高くなっている昨今、2023年時点でもう1巻目が1,210円、2巻目は1,430円(どちらも税込み)もして、2冊で2,640円。世知辛い世の中ですが、読んだことない作品だったので、文庫で再刊してくださったのありがたい。
ちなみに最初の単行本の定価は2,000円だったようです。単行本よりも高くなってしまってるんですよねぇ。
さらにちなみに同じ河出文庫で2015年に復刊された『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』、復刊時の価格は前編が913円、後編が1,012円。手元にある1989年第五版は前編440円、後編500円。消費税込みの値段だけど、当時は税率3%。26年の間に文庫本の価格、ほぼ倍になったんですね(泣)。
などというさみしい話はこのくらいにして、いい加減本題に入りましょう。
執筆が1985年(41年前)ということは、橋本さんはまだ36歳! ノリノリのキレッキレな時代です。あの独特のオタクの早口的縦横無尽、あっちへこっちへと話が飛び、読んでる最中は「なるほど」と思えるけれど、あとから振り返ろうとするとまとめるのが非常に難しい文章。
しかも1巻目を読んだのはもう2年ぐらい前なので。
記憶がない(´・ω・`)
半分くらい『忠臣蔵』の話だったことしか覚えてない。江戸歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』から講談における『忠臣蔵』、そして映画の『忠臣蔵』。その変遷はすなわち、大衆における「娯楽」の変化、何を面白いと思うか、何をドラマとして見たいと思うか、という意識の移り変わり。
この本は、「チャンバラ映画」を通して近代日本の大衆史を描くものなのです。
そう、「チャンバラ映画」です。「チャンバラ時代劇」と聞いて私(や同世代の方々)が思い浮かべるテレビ時代劇の話ではありません。杉良太郎の『遠山の金さん』や東野英治郎の『水戸黄門』、『暴れん坊将軍』や『必殺仕事人』の話は残念ながらまったく出てきません。
ここで言う「チャンバラ時代劇」とは、
嵐寛寿郎は“鞍馬天狗”だった。大河内伝次郎は“丹下左膳”だった。市川歌右衛門は“早乙女主水之介”だった。大川橋蔵は“若さま侍捕物帖”だった。月形龍之介は“水戸黄門”だった。大友柳太朗は“魁傑黒頭巾”だった。市川雷蔵は“眠狂四郎”だった。勝新太郎は“座頭市”だった。長谷川一夫は“中村雪之丞”だった。三船敏郎だって“用心棒”だった。机龍之助をやった片岡千恵蔵だって“遠山の金さん”だった (2巻P517)
という頃の作品群です。役者さんは一応全員わかるけど、その代名詞となる作品群はさすがに一部しか見たことがありません。これら全部に夢中になったのは、私の親世代ですよねぇ。
そしてテレビ時代劇大好き人間にとってさらに残念なことに、橋本さんによると「チャンバラ映画は昭和三十八年の『ひばりチエミのおしどり千両傘』で終わる」で、その後のテレビ時代劇は、「現実逃避の毎週毎週どうしようもないチャンバラテレビ。そんなもんが面白かったら、あの“正義”はどうなるんだよ?」と斬って捨てられてしまっています。
えーん、“そんなもん”を楽しく面白く見て育ったんですけど……。
というわけで、取り上げられている作品のほとんどはわからないのだけど、それでも橋本さんの膨大な知識と情熱に裏打ちされた「近代日本大衆史」は十分面白く、「見たことがない」からこそ、逆に素直に「そんなすごい映画だったんだ」「そんなすごい監督さんだったんだ」と思えます。
内田叶夢監督の凄さ、そして中里介山の小説『大菩薩峠』の凄さ。
『大菩薩峠』、だいぶ昔に映画版をちょろっと見たことがあるんですが――確かGACKTさんライブで名古屋に行った時にホテルのテレビでちょろっと見た――、千恵蔵さん版だったのか雷蔵さん版だったかも定かでなく。「よくわかんなかった」記憶しかない。
小説『大菩薩峠』について、橋本さんはおっしゃいます。この作品には“人間が描かれている”と。そして“人間を描く”とは、“人間の理不尽さを描く”ことだと。
人間は理不尽な行為をする。そしてそれには理由がない――そこまで描かなければ人間を描いたことにはなりません。 (2巻P269)
日本の小説というのは全部説明をしますから、理不尽な行為が“理不尽”にはならない。説明することによって底が浅くなってしまうということに(後略) (2巻P271)
中里介山は作品の中で説明をしない。説明しないで、ただ登場人物を“そのように”描く。説明できたら、それは“理不尽”ではないんですもんね。
『大菩薩峠』、文庫にして全20巻、しかも未完。ちょっと読んでみようかな、と思うにはあまりに巨編すぎるんですが、死ぬまでに1巻目ぐらいは繙いてみたい……。(青空文庫で読めます→『大菩薩峠 01甲源一刀流の巻』
『大菩薩峠』は日本初の大衆小説で、日本の大衆文芸は「講談→講談本→新講談→大衆小説」というふうに進化(?)していったのだそう。そして新講談とそれ以前の講談との違いは「嘘」と「ほんと」。もともと講談というものはすべて実際の事件、実在の人物を扱っていた。その「ほんとの話」をどう面白く脚色するかがそれぞれの「芸」の見せ所――というわけで、いつしか講談は「ほんとだけど嘘」ということになった。
で、新講談は「実録=ほんと」をうたい文句にして、新聞連載だった『大菩薩峠』も予告に「記者は古老に聴ける事実を辿りて」という一文があったのだそう。いや、絶対あんなの事実なわけないんですが、体裁としては「実録物」として始まったのだと。
要は、「“嘘”というものを受け入れる土壌が日本にはなかった」のだと橋本さんはおっしゃいます。
「これは事実である」ということを前提にして物語を享受する――これは存外古いというよりも、人間にとっての物語とはそもそもそういうものであったというのは“神話”という人類最初の物語を頭に置けば分るでしょう。 (2巻P263)
うーむ、なるほどなぁ。
『大菩薩峠』や『花の吉原百人斬り』という映画において、「なぜ男は女を殺すのか」という論考もなされています。大雑把にまとめると、「男の論理と女の論理は違うから。そして互いにそれを理解できない(もしくは“違う”ことによって傷つくから)」という話なんですが。
人間というものは、自分を支える論理とは全く別種の論理が平気で存在しているのを見ると、それだけで逆上するのです。(中略)人は、自分の正義、自分の論理、自分の世界観が平気で覆されることに我慢が出来ないのです。 (2巻P315)
いや、もう、真理すぎて絶望しますね。40年前に書かれた、時代劇における男女の話なのに、なんて普遍的な真実なんだ……。
で、先ほど「講談と新講談」との違いで、「どう脚色するかが“芸”の見せ所」という話が出てきましたが、これは「それまでの芸能」と「テレビ」との、決定的な違いでもありました。歌舞伎にしろ、琵琶法師にしろ、落語や講談、はたまた「ラジオ」に至るまで、そこには「どう伝えるか」という技術=“芸”が必要だったわけです。ラジオのアナウンサーには言葉だけで情景を伝える“話芸”が必要だった。でもテレビは基本的に、「ただ映せばいい」。「何かを映す」というそれだけで娯楽になってしまう。
テレビカメラという機械が“映し出す”ということをして、それまで人間が態々やっていた“伝える”という部分の“芸”を肩代わりしてしまった。 (2巻P374)
とはいえ、“芸”の要らないテレビの登場でチャンバラ映画は衰退していく……という単純な話ではありません。
橋本さんは「チャンバラ映画は昭和三十八年の『ひばりチエミのおしどり千両傘』で終わる」とおっしゃいます。その前の『ひばりチエミの弥次喜多道中』との違いなどを引きながら語られることは、
つまりもう、普通の人間は、架空の世界を必要としなくなってしまった。(中略)悪人がいなければ正義もない。ただ自由な自分達の現実があればいい――そのことが一番重要ということになってしまっていた。それが昭和の三十八年(一九六三年)。もう“理想の現代である江戸時代”はいらないんです。いらないから時代劇は終った。 (2巻P492)
ええええー、「架空の世界」を必要としている人間がここにいるんですが。私が“普通の人間”じゃないからですか!?
チャンバラ映画が終わって次に登場するのはヤクザ映画で、その舞台は“明治の中頃”あるいは“昭和の初め”。描かれるのは「はみだし者の個人的感慨」「人間と人間との関係」。それまでのチャンバラ映画は基本的には「みんな一緒に日本晴れ」で終わるものだったけれど、
昭和も四十年代になって初めて、人間というものはなかなか“みんな一緒に”はうまくなれないという重要なことがスクリーンの上で描かれるようになって来る。 (2巻P493)
個々人が自由にバラバラな「理想」を求め、バラバラな蛸壺の中にしかゴールを見出せない。
“みんな一緒に”というのは“夢”だったんだということが明らかになって来る。 (2巻P494)
映画館で「みんな一緒に」同じ理想を見るのでなく、一家に一台、テレビが映し出すものから勝手にそれぞれの理想を膨らませていく――チャンバラ映画だけじゃなくして、「映画」という娯楽がテレビに取ってかわられていく。
そして今はさらに個々人がスマホで「自分だけの理想」を見る時代。理想の現実としての江戸時代は役目を終えたけれども、理想の現実としての異世界は花ざかり。人はやっぱり「架空の世界」を必要とするけれど、それが「江戸時代」である必然性はなくなった。今の「異世界」流行りは日本人が「完全な嘘」を楽しめるようになった、ということなんでしょうか。時代劇の「なんちゃって江戸時代」と、異世界モノの「なんちゃって西洋中世」は舞台設定的にはおんなじじゃないの?と思わないこともないですが。
あと、はずせないのが「京都(関西)の重要性」。チャンバラ映画の聖地が京都なのは当たり前、だって着物とかそういう伝統文化が京都には――と思っていたんだけど。
そういうことではないらしい。千年の古都だから、というよりは、端的に「地方」だから、ということっぽい。「東京」という「メインカルチャー(正)」に対しての、文字通りの「サブ(副)」。
日活・松竹・東宝の三大映画会社のスタートラインはすべて関西、西洋の音楽劇(レビュー)も関西が先なら、新国劇という剣劇も関西、そして日本の喜劇の初めもやっぱり関西。
上品にして西洋に近づける――それが“進歩”であって、それが東京を舞台とした演劇の“正史”です。近代演劇の歴史と言ったら、この東京の“正史”部分しか取り上げられませんが、この東京の頭で考える――言ってみれば理念先行型の正史に対して、体で受けとめる大衆文化の登場は全部関西です。 (2巻P162)
頭ではない体である、理屈ではない娯楽であるということがこれほど露骨な文化の東西対立というものはちょっとないようですね。 (2巻P163)
思わずフォントを大きくしてしまいましたが、まさに「それな!」なご指摘。映画もレビューも剣劇も喜劇も全部関西から生まれたのに、永遠に「メイン」になれないまま、ローカル文化のままとどまってしまう関西……。
橋本さんによると、関東大震災によって「うるさかった“頭”(東京)」がなくなって、
関西は関西を謳歌して結局のところ“半歩”が半歩のままで終って、その後は“独自な関西文化”という地方(ローカル)文化にとどまってしまうことになる――時代劇という、時間が止まったまんまのドラマジャンルが京都という一地方の特産物になってしまう (2巻P164)
orz……。もしも関東大震災が起こらなければ、関西の「理屈じゃねぇ」文化は「メイン」にのし上がっていたのでしょうか。ローカルではない、日本全体の文化の“両輪”として並び立っていたのか。「頭じゃねぇ、体だ!」がメインになるって、やっぱりあんまり想像できないけれども。
全盛期の東映のチャンバラ映画は“みんなおんなじ”、どんなものでも手を変え品を変えて結局みんなおんなじものにしてしまうという話も面白かったし、演歌からJazzから男女逆転から何もかもゴッタ煮なのが「日本」、そうでなくては日本の大衆は楽しくならなかった、という話も「ですよね!!!」。
「どれもおんなじワンパターン、ワンパターンというのにはどれだけのことが可能なのか、そしてワンパターンにする為にはどれほどの把握が必要なのか」――偉大なるワンパターン、スーパー戦隊50年の歴史もまさにこれですよね。東映チャンバラの正統な後継者。それもついに終わってしまったわけですが、いよいよ普通の人は架空の世界を、“正義”(ヒーロー)を、ドラマを必要としなくなってしまったのでしょうか。
何が終ったのか? “物語”という名の“夢”が終ったのです。 (2巻P361)
はぁ、寂しいですね。橋本さんも寂しかったらしく、あとがきで「流行らないってだけで、なんで正義がなくなるんだよ!」と吠えてらっしゃるし、
「正義は人を裁くからいやだ」っていうのは戦後の軟弱な考えだけど、“人を裁く正義”なんていうのは二流の正義だ。ホントの正義は人を自由にする。笑顔のない正義はウソだし、正義のない笑顔はいやだ。正義がなければ笑顔は立たない――もうこれだけ。 (2巻P534)
と。もうこれクウガですよね、五代雄介ですよね。
「36歳の橋本治」が溢れまくるあとがき、読んでいて胸が熱くなります。橋本さんが亡くなられてもう7年、でも本の中には若いままの橋本さんが生きている。いつでも36歳の橋本さんに逢える。これこそが読書の――“書物”の醍醐味です。
これだけははっきりしているというのは、実に今これを書いている日がなんと、昭和六十年、あの十二月十四日だということ! やったね! (2巻P542)
ええええー、「架空の世界」を必要としている人間がここにいるんですが。私が“普通の人間”じゃないからですか!?
チャンバラ映画が終わって次に登場するのはヤクザ映画で、その舞台は“明治の中頃”あるいは“昭和の初め”。描かれるのは「はみだし者の個人的感慨」「人間と人間との関係」。それまでのチャンバラ映画は基本的には「みんな一緒に日本晴れ」で終わるものだったけれど、
昭和も四十年代になって初めて、人間というものはなかなか“みんな一緒に”はうまくなれないという重要なことがスクリーンの上で描かれるようになって来る。 (2巻P493)
個々人が自由にバラバラな「理想」を求め、バラバラな蛸壺の中にしかゴールを見出せない。
“みんな一緒に”というのは“夢”だったんだということが明らかになって来る。 (2巻P494)
映画館で「みんな一緒に」同じ理想を見るのでなく、一家に一台、テレビが映し出すものから勝手にそれぞれの理想を膨らませていく――チャンバラ映画だけじゃなくして、「映画」という娯楽がテレビに取ってかわられていく。
そして今はさらに個々人がスマホで「自分だけの理想」を見る時代。理想の現実としての江戸時代は役目を終えたけれども、理想の現実としての異世界は花ざかり。人はやっぱり「架空の世界」を必要とするけれど、それが「江戸時代」である必然性はなくなった。今の「異世界」流行りは日本人が「完全な嘘」を楽しめるようになった、ということなんでしょうか。時代劇の「なんちゃって江戸時代」と、異世界モノの「なんちゃって西洋中世」は舞台設定的にはおんなじじゃないの?と思わないこともないですが。
あと、はずせないのが「京都(関西)の重要性」。チャンバラ映画の聖地が京都なのは当たり前、だって着物とかそういう伝統文化が京都には――と思っていたんだけど。
そういうことではないらしい。千年の古都だから、というよりは、端的に「地方」だから、ということっぽい。「東京」という「メインカルチャー(正)」に対しての、文字通りの「サブ(副)」。
日活・松竹・東宝の三大映画会社のスタートラインはすべて関西、西洋の音楽劇(レビュー)も関西が先なら、新国劇という剣劇も関西、そして日本の喜劇の初めもやっぱり関西。
上品にして西洋に近づける――それが“進歩”であって、それが東京を舞台とした演劇の“正史”です。近代演劇の歴史と言ったら、この東京の“正史”部分しか取り上げられませんが、この東京の頭で考える――言ってみれば理念先行型の正史に対して、体で受けとめる大衆文化の登場は全部関西です。 (2巻P162)
頭ではない体である、理屈ではない娯楽であるということがこれほど露骨な文化の東西対立というものはちょっとないようですね。 (2巻P163)
思わずフォントを大きくしてしまいましたが、まさに「それな!」なご指摘。映画もレビューも剣劇も喜劇も全部関西から生まれたのに、永遠に「メイン」になれないまま、ローカル文化のままとどまってしまう関西……。
橋本さんによると、関東大震災によって「うるさかった“頭”(東京)」がなくなって、
関西は関西を謳歌して結局のところ“半歩”が半歩のままで終って、その後は“独自な関西文化”という地方(ローカル)文化にとどまってしまうことになる――時代劇という、時間が止まったまんまのドラマジャンルが京都という一地方の特産物になってしまう (2巻P164)
orz……。もしも関東大震災が起こらなければ、関西の「理屈じゃねぇ」文化は「メイン」にのし上がっていたのでしょうか。ローカルではない、日本全体の文化の“両輪”として並び立っていたのか。「頭じゃねぇ、体だ!」がメインになるって、やっぱりあんまり想像できないけれども。
全盛期の東映のチャンバラ映画は“みんなおんなじ”、どんなものでも手を変え品を変えて結局みんなおんなじものにしてしまうという話も面白かったし、演歌からJazzから男女逆転から何もかもゴッタ煮なのが「日本」、そうでなくては日本の大衆は楽しくならなかった、という話も「ですよね!!!」。
「どれもおんなじワンパターン、ワンパターンというのにはどれだけのことが可能なのか、そしてワンパターンにする為にはどれほどの把握が必要なのか」――偉大なるワンパターン、スーパー戦隊50年の歴史もまさにこれですよね。東映チャンバラの正統な後継者。それもついに終わってしまったわけですが、いよいよ普通の人は架空の世界を、“正義”(ヒーロー)を、ドラマを必要としなくなってしまったのでしょうか。
何が終ったのか? “物語”という名の“夢”が終ったのです。 (2巻P361)
はぁ、寂しいですね。橋本さんも寂しかったらしく、あとがきで「流行らないってだけで、なんで正義がなくなるんだよ!」と吠えてらっしゃるし、
「正義は人を裁くからいやだ」っていうのは戦後の軟弱な考えだけど、“人を裁く正義”なんていうのは二流の正義だ。ホントの正義は人を自由にする。笑顔のない正義はウソだし、正義のない笑顔はいやだ。正義がなければ笑顔は立たない――もうこれだけ。 (2巻P534)
と。もうこれクウガですよね、五代雄介ですよね。
「36歳の橋本治」が溢れまくるあとがき、読んでいて胸が熱くなります。橋本さんが亡くなられてもう7年、でも本の中には若いままの橋本さんが生きている。いつでも36歳の橋本さんに逢える。これこそが読書の――“書物”の醍醐味です。
これだけははっきりしているというのは、実に今これを書いている日がなんと、昭和六十年、あの十二月十四日だということ! やったね! (2巻P542)
0 Comments
コメントを投稿