お気楽なおばさんにも五分(ごぶ)の思春期。

ってなわけで。
色々と、子ども時代を振り返る今日この頃。
私が学校に通っている頃は、ケータイもなく、家で遊べるゲーム機というのもなく(やっと大学ぐらいの時に弟が遊び始めていたなぁ)、iPodはおろかCDすら高校の終わりでやっと出てきた、って感じで……、なんか、こうして書いてると侘びしくなってくるぐらいなんだけど。

小学校は、楽しかった。
もう低学年とかは覚えてないから、ちゃんと記憶があるのは4年生以上で、特に5・6年生の時が、すっごく楽しかった。クラスのほとんどの子と仲が良くて、その時の担任の先生とは、今でも年賀状のやりとりをしている。小・中・高の先生では、やりとりがあるのはその先生だけだ。

中学校はその反動でか、思春期真っ盛りのせいか、あまり面白いと思えなくて、高校で持ち直したものの、やっぱりずっと、「5・6年生が一番楽しかった」と思っていた。

そうしたら大学の時に同窓会があって。
「みんなと仲がいい」と思ってたのに、全然輪の中に入れず、「あの『一番楽しかった』という記憶は何だったんだ!?」とちょっとショックだった。

小学校の時仲が良かったと言っても、その後ろくに交流がなかったものだから、何を話していいかさっぱりわからない。
まぁ、まだ「昔話に花が咲く」って年齢でもないので、“今共有できる話題”がなければ会話が続かないのは当たり前。「ああ、こんなもんなんだ」って寂しかった。

なのに、特に仲の良かったわけでもない男の子二人と一緒に帰る道すがら(もちろん単に方角が同じだっただけ)、「今のこと」とか「将来のこと」とかをけっこうちゃんと話していたりした。

とても不思議な感じがして、嬉しかった。

一人は、小学校時代は慢性鼻炎のせいでいつもからかわれていた、「いじめられっ子」タイプの子で、もう一人は逆に、それをはやしたてるタイプの、ちょっとやんちゃというかいちびりだった男の子。
ちょこまか悪さをしていたようなその子がやけに落ちついた感じになってて、私ともう一人の子に話を向けてくれたりして、「へぇ〜」といたく感心した。

みんな、色々変わっていくし、「小学校が楽しかった」は嘘ではないけど、そこばっかり大事にしててもしょうがない。やっぱり今の自分は今の自分で、“今”を生きるしかないんだな、みたいなことを、その時考えたような気がする。

“今”となっては、“その時の自分”ももう随分遠くて、“今の自分”の中のどの辺にいるのか、よくわからないけど。

本当に、不思議なんだよなぁ。
7歳とか15歳とかいう自分が、かつて確かに存在していて、でも今は、今の自分しかいない、っていうことが。