今日は、『ベルばら』の話。
私が『ベルばら』を読んだのは小学2年の時。友達に1、2巻を貸してもらって、すぐ続きを買いに走った(なぜそんなお金があったのだろう)。
その年のうちに、宝塚も見ている。
で、『ベルばら』では、アンドレとオスカルがめでたく相思相愛になるシーンで、「生まれてきて良かった!」というセリフ(っちゅうか、オスカルの心の声?)があるのだな。
このシーンは、全体的にとっても大袈裟で、オスカルはアンドレに「おまえが好きだ」などとは全然言わないで、「私だけを一生涯愛し抜くと誓うか!?」と超高飛車な振る舞い。
自分はフェルゼンのこと好きだったくせに、よく言うよなぁ。もし革命で死ななかったらあの後アンドレはきっとすごい苦労しただろうと同情してしまう(笑)。
まぁ、そんなことを考えたのはもうちょっと大きくなってからで、最初はとっても素直に感動していた。
「そうかぁ、“ただ一人の人”に出逢えたら、“生まれてきてよかった”って思えるんだ」というふうに。
ずっと、“死”とか“生きる意味”とかについてやたらに考えてきて、でももちろん納得できる答えなんか見つからなくて、マンガを読み返したり宝塚で繰り返し見たりするたび、「あーゆー思いって、いつか自分もできるものなんだろうかなぁ」と思っていたのだ。
で、結婚したわけだが。
別に革命の真っ最中でも、身分違いの恋でもなんでもなかったので、「これでもう思い残すことはない」とか「この人と会うために生まれてきたんだわ」みたいなマンガみたいなことは、まぁ残念ながらない。
たぶん、普通はそこまでのことは思わないよねぇ……。
オスカル様と違ってその後も人生は続いていくし、もちろん夫であれ友人であれ「人との出会い」というものは「生きる意味」の主要なファクターではあろうけれども、でもだからって、「生まれてきた甲斐があった。もう死ぬのは怖くない」ってふうにはならない。
なんというか、根源的な死への恐怖とか、生きることの理不尽みたいなことは、どんなに好きな人がいて、どんなに幸せな人生を送っても、やっぱり解消されないような気がする。
時々、夜中に目が醒めた時に突如そーゆー、「死への恐怖」みたいなものが湧き上がってきて、泣きだしたくなる。
隣に寝ている夫に、「死にたくない!」って訴えようかな、とごくたまに思うけど、実際に泣きついたことはない。
そんなことされても向こうも困るだろう。
別に、今現在死の床についてるわけでもないのに。
(でも、いつか必ず死ぬという意味では、みんな生まれてからずっと死の床についてるんだ)
いつか、死ぬことを納得できる日が来るんだろうか。
哲学
4 Comments
検索できましたベルばらもアニメも漫画も大好きです。死について、したの記事にもかいてあったのですが、私もものすごく臆病モンで、小さい頃は両親がそうなっちゃうよな夢しょっちゅうみてました。あれはなんだったんだろう?地球滅亡の日も数えてたりして。。。
返信削除はじめまして!コメントありがとうございます。「ベルばら」でヒットしたんですか?検索ってすごいですね(笑)。私は子どもの頃、隣で寝ている母が白骨死体になっているホラーな夢を見たことがあります……。体調が悪い時には決まって同じ白黒の奇妙な夢を見るとか。元気な時は「ベルばら」やアニメの夢を見てました(笑)。よろしければまた遊びに来て下さいね。
返信削除��1歳の主婦です。小2と小6の息子がいます。
返信削除色々あってここらへんでかなり自分改革をしたくなり、最近ブログを立ち上げようとして色々本などを読んでいる最中です。
簡単に立ち上げられるとの事ですが、パソコンはしょっちゅう調子が悪くなるし、ブラインドタッチができるだけというパソコンや機械にどんくさいので、中々事はすすみません[E:coldsweats02]
でイオ光に入っているのでこのeoBLOGを見ていましたところ、たまたまこの記事にぶちあたりました。最近宇宙の法則などの本が色々でいるし、生きがいとは?死とは?ということやら、哲学なんかもあらためて勉強したいなんて思う日々なのです。
この記事のべるバラのくだりはほんとに笑ってしまいました。私も何度も読み返し、ぼろぼろになったのできれいなのを買いなおしました。宝塚も歴代のを観ています。
それとは関係なしに、根源的な死への恐怖ですが、私は小学校6年生の時に、急に死というものの恐怖を身近に感じ、強迫神経症みたいになってしまいました。
電車を見ても一歩脚をふみだせば死ぬ、車もそうだ、とにかく時間がたては必ず人間は死ぬんだということにとりつかれ、授業中にも涙がとまらなくなり、塾に行く途中に電車のホームでも恐怖で頭がおかしくなりそうになり、一日中死というものについて考え恐れていた期間があります。
子供なので、どうしようもなくなり、子供110番みたいな電話をしようとしていたところを母に話しかけられ、涙ながらに気持ちを話したのを覚えています。母はキリスト教の信仰がある人でしたので、必ず神様のところにいけるから何も心配することはないと言い、私はそれでなんだか救われたような気持ちになって、急にとりつかれたような気持ちからは解放されたのでした。
ですが、それ以来時々やはりその死の恐怖への感覚はおそってくることがあります。特に夜。考えようとするとすぐにその恐怖の世界に入ることができます。無になるということへの恐怖です。
私も旦那を起こして助けてくれと言いたくなるのですが、最近は考えないのが一番だと思うようになりました。考えそうになったら、頭をふってその感覚を葬ります。旦那との会話もまったくなくなった今、残りの人生をいかに充実させ、精神の自立を計るかに焦点をあて、死ぬまで走り続けようかと考えている次第です。
子供になら命をあげられると考えるようになってからも少し死の恐怖から遠ざかったように思います。
長男がこの2月に全身麻酔の手術を受けたこともあり、子供が死ぬことの方がもっと怖いと考えると自分の死はかなり恐怖の薄いものにも思えるのです。
なんとなく自分のブログのタイトルが決まりそうです。
まったくテーマが決まらず私は何もこだわりもない平凡すぎるんだとうつうつとしていましたが、死生観についてなどはいいかもしれません。
又ブログ読ませていただきますね。
��プル様
返信削除こんにちは、はじめまして。
コメントありがとうございます[E:happy01]
他の記事に書いてあったかもしれませんが、
私は幼稚園ぐらいの時に「みんな死んじゃうんだ、
自分も無になるんだ!」ということを突然悟って、
それ以来ずーっと、足元に開いた「虚無の深淵」
を時々覗き込んでは怖がってます。
「神様」では納得できないんですよねぇ……。
信じられたら楽だな、と常々思うんですけれど。
これからblogを開設なさるとのこと、
がんばってくださいね。
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