昨日、昼から掃除機をかけながらつらつら考えた。

掃除や片付けの極意はやはり、「毎日コツコツ」やることであろう。
しかし嫌いなことを「毎日コツコツ」やるほど嫌なことはない。それだったら毎日コツコツ逆上がりの練習をする方がよほどましである。逆上がりなら最後に「できた!」という栄光のゴールもあるが、掃除なんていくらきれいにしたってまた汚れるんだから。


そう、ここが問題だ。
私は「きれいに片付いていること」にたいして価値が見いだせない。きれい好きな友達のモデルルームのような家を「すごいな」とは思うが「羨ましい」とは思わない。
掃除や収納がうまくなりたいなんて全然思わない。

寝るスペースと食べるスペースと読書やパソコンができるスペースが確保できていれば、後は死なない程度に埃が除去されていればいい。

子どもに「片付けろ!」と怒るのは、彼が片付けないと結局自分の仕事が増えるからで、死ななくてもあまりに見苦しいと「私」がちゃんとできてないように思われて嫌だ、ってだけである。

きれいにすることに内的必然性はまったくないが、社会的要請はあるから仕方なく妥協する、というところ。

実家にいる時は「きれい好きな母」という社会的要請がきつかったので、今より掃除していた。
結婚してからも、母が来るとなると真面目に掃除していた。
お姑さんより母親が来る方が掃除に関するプレッシャーはきつかった。

もう今は「相変わらずゴミ溜め」と言われても気にしないけど。

自分が価値を見いだせないことをいくら外からやいやい言われても、そうそうやる気になんかならない。
そう考えると、子どもが「毎日コツコツ」勉強をしないのも、外で遊ばないのも、まぁ仕方のないことか、とうっかりよけいな納得をしてしまった。