というエッセイが、確か中学の国語の教科書に載っていた。
円地文子さんの作品だったと思う。
「哀しみ」は「悲しみ」だったかもしれないが、要するに「眼鏡をかけることになった女の子の“やだなぁ”という気持ち」を書いた小文であった。
当時私は既に眼鏡をかけていたはずで、「確かにねぇ」と共感する部分と、「それほどでもないけど」という部分とがあったような。

なんでそんなことを思い出したかというと、息子が学校の視力検査に引っかかり、「受診のオススメ」をもらってきたからである。
「オススメ」ったって、「ちゃんと受診しました」というお医者さんのハンコをもらって出さなきゃいけない紙がついているんだから、ほとんど「命令」みたいなもんである。まぁ罰則がないだけのこと。きっと催促はされるだろう。

先週、視力検査の当日に本人が「左右でえらい差があるで。受診のオススメ出しとくな、って言われた」と言っていたので、どっちかがよほど悪いのかと思ったら、片方がA(1.0以上)、片方がB(0.9〜0.7)だった。

な〜んや。

0.7ぐらいでも医者行かなあかんねやろか。
子どもやし、これ以上悪くならないためにも必要なことなのか。
両眼で0.7あったら免許も取れるのにな。

本人は、「眼鏡をかけなきゃいけないかもしれない」というのでけっこうびびっている。
「これからはヨーグルトもジャムもブルーベリーにするわ」とか(私はブルーベリーエキスのサプリメントを飲んでいるのだが、サプリは嫌らしい)。

男の子版「眼鏡の哀しみ」。
親的にも、小学生から眼鏡というのはちょっと哀しいけれど、幼稚園に入る前からの読書家、目を酷使しているのはわかっているので「そのうちには…」という覚悟はあった。

私自身、小学校の高学年にはかなり黒板が見えづらくなっていて、中学に入ったところで眼鏡を作っている。
金縁の、フィンガー5のアキラ君のような(喩え古っ!)眼鏡であった。
眼鏡をかけた自分の顔がどうとかいう前に、「ひょ〜、世の中はこんなにくっきりしているもんだったのか!」ということに驚いた。

「目が悪い」と言っても徐々に悪くなっていくので、本人的には「みんなそんなもんだろう」という感じで、「それが普通」なのである。
それが、眼鏡をかけるとくっきりはっきり見える。
「他の人はこーゆー世界を見ていたのか」と思うわけだ。

その時の視力はいくつだったんだろう。
0.5くらいだろうか。

その後、0.1まで下がって大学の時に眼鏡を作り直した。
写真にも写っている黒縁のアラレちゃん眼鏡。
成人式前にコンタクトを作って、現在はほとんどコンタクトで過ごしている。

円地文子の時代に比べたらデザインは色々あるし、美的にはむしろ「眼鏡をかけるお洒落」だってあるのだが、やはり眼鏡は曇る。重い。夏場は汗でずれる。視界が眼鏡の縁で途切れる。ヨガで寝っ転がったりする時には邪魔。
露天風呂も、コンタクトならしたまま入れるので、景色が愛でられる。

もちろん、眼鏡もコンタクトもしないですむんならそれが一番だけど。

さて、息子は眼鏡をかけるはめになるのだろうか……?