昨日、録画してあった先週の『地球へ…』(第9話?)を見たのだが。

「子ども時代の記憶に執着して『ピーター・パン』を口ずさみながら死んでいくシロエ」というのがかなり強烈で、「記憶」についてまた色々考えてしまった。

『地球へ…』の世界設定では、人類はコンピュータによって完全管理されていて、子どもは人工授精で生まれ、血縁関係のない養父母によって養育され、14歳で成人検査を受けて大人になる。
その成人検査の際に、子ども時代の記憶は消去されることになっているのだ。

そうはいってもなんとなくの記憶は残っているようで、「曖昧」には覚えているらしい。
全部の記憶を消してしまったらせっかく覚えた数式も言語も生活様式も失って「また一から」になってしまうわけだから、コンピュータによって消される記憶はおそらく「情緒的な」、いわゆる「思い出」というたぐいのものなのだろう。

そんで、前述のシロエというキャラクターは「大好きだった」養父母の記憶を消されたこと、そのように管理されていることに反発して、結果的に殺されてしまう。
『ピーターパン』の一節を口ずさみ、「ぼくは忘れたくなんかなかった! 大人になるのなんか嫌だ!」と叫び、「ピーターパン、迎えに来てくれたんだね!」と言って死んでいくシロエは、アニメとはいえかなり鬼気迫るものがあった。

シロエを殺すキースの方は、逆に子ども時代の記憶がまったくない。それは彼がコンピュータによってそのように育てられたからなんだけれども、「知識」は十二分に持っていながら、「思い出」は何一つ持たずに大人になっているのだ。

体制に従順な、「管理しやすい」人間にするためには、「子ども時代の思い出」というものはない方がいいのだろうか。
「大人になる」ということは、子どもの過激さをなくして、「丸くなる」ということでもあるけれど、「子どもだった時の感情」をずっと内に抱えていることは、そんなにも危険なことなんだろうか。

覚えていても、忘れていても、結局今の自分は、今の感情しか持てないとは思うけれど。

もしもその方が平和で、治安も良くて社会が安定するというなら、人は思い出をなくすことに同意するだろうか?

大人になんかなりたくないと思って、子ども時代の記憶に執着して、けれどたぶんずっと丸くなって“大人”になってしまった自分と、「子ども時代の真っ最中」を生きている息子のことを思う。