録画していた『ニッポンの教養』を見ました。
お懐かしや、田中克彦先生……。
って、そんなにはっきり覚えているわけじゃないんですけど、でも顔は覚えてたな。喋り方というか、話術も巧みだったことも。
いくら講義のテーマが興味深くても、しゃべくりが眠いとやはり聴いていられないですから。そういう意味でも面白くて、先生の名前が印象に残っていたのだと思います。

番組は30分という短いもので、「言語学」と言ってもほんの触り、しかも太田光がしゃべりすぎ、という感じで(笑)。
もっと落ち着いて先生の話を聴きなさいって。
演出というか、構成の仕方もなんか、途中にはさまる映像やフレーズがこっぱずかしい感じでした。
初めてあーゆーテーマに触れる方にはわかりやすかったのでしょうか?
私としてはやはり物足りませんでしたが、しかし昔勉強していたことをちょろっと思い出したりもして、それなりに楽しみました。

先生の自宅(というか仕事場?)、本だらけですごかったし。
憧れるな……玄関から本が山積みの家(笑)。

「コトバから逃げれられないワタクシ」というテーマでした。
言葉ばっかりの私としては――常に頭の中で文章を組み立て続けている私としては、本当にそれは実感することです。
実感というか……思考というのは言葉があってこそできることなので。

たとえば人類最後の一人、みたいになっちゃって、誰にも言語を教わることなく、まったく言葉を習得しないで成長するとしたら、その時その人間はどのように考えるのだろう?
世界をどのように認識するのか?
つまりは猿や猫や犬がどのように世界を見ているか、ということにもなるけど。
太田光も言ってたね。
犬猫にも感情はある。
だが思考はない。

言葉があるから、抽象的になれる。
「今ここ」に縛られずに、過去の出来事を想起し、未来の出来事を予測する。
見たこともないものを描き出す。

ある物に名前をつけると、それは個々の「ある物」ではなく、抽象的な「分類」になる。
あれもこれも「木」。
あれもこれも「三角」。
なぜ初めて見た三角形を「三角形」と認識することができるのか。それは三角形の「イデア」が存在するからだ、という説がありましたね。プラトンだっけ?(違う?)

私の名前は私個人を表しているように見えて、やっぱり一つの「記号」にすぎない。
それは私が目の前にいない時にも「私」を表して、私についてあれやこれや話すことを可能にするけれども、「名前」が「私」という具体物であるわけではない。

これも番組の中で出てきたけれど、名前の付け方(つまりは分類の仕方)は言語によって差がある。
日本語では「温かい水」は一語で「湯」と言うけれど、英語では温かかろうと冷たかろうと「water」だ。
エスキモーの言語(だったかな?)には、「氷」を表す言葉がたくさんあるらしい。どういう状態の氷か、ということを「一語」で認識するのだ。もちろん、それは生活の必要上なのだろうけれど。

既に存在してしまっている言葉を習得し、その言葉によって思考する時、私たちはその言語の発想や分類法に縛られずにはおかない。

橋本治の『雨のお蜜柑姫』の中で、醒井涼子さんが「英語だとのびのびしゃべれる」というような描写があった。
涼子さんは日本語だと非常にまわりくどくて複雑で困った性格なのに、英語だとてきぱきして無謀で可愛くなってしまうのよね。

私は語学が苦手でまったく外国語が習得できないんだけど、あまりにも日本語の発想にどっぷりつかっているからなのかも……(いやいや、単なる努力不足だ)。