京都でスケートした記事の中でちょろっと言及していた「昔の梅田のリンク」。

私にとって「スケート」と言えばこの、梅田のリンクだった。
箕面は学生時代に一度、竜王も結婚してすぐに一度行っただけのはずだけど、梅田のリンクは小学生の頃毎年のように行っていた。

茶屋町の、今は阪急電鉄の本社ビルが立っている場所に、昔は「梅田阪急スケートリンク」があったのである。
ずっと、ホテル阪急インターナショナルのところ、と思っていたけど、改めて調べるとそちらではなく、本社ビルの方らしい。まぁ、すぐお隣ではあるけど。

私は子どもの頃、「阪急ブレーブス子ども会」に入っていた。阪急ファンの父親に半強制的に入会させられていたのだけど(その時もらったコンパスとかバッグの写真はこちらの記事に)、同じ阪急なので、スケートリンクの割引特典があって、年に1~2度、球団マスコットのブレービーがリンクに来たりしていた。

実家にはその時の写真がまだ残っているかもしれない。
ロッカールームにブレービーがいて、握手したり記念写真撮ったりした映像がなんとなく脳裏に残っている。

(ブレービーの写真がないので手元にあった阪急ブレーブス50周年記念テレカをご覧下さい)


両親と弟と4人で、年に1~2度、滑りに行った。
「昔とった杵柄」で今でもリンクをこけずにぐるぐるできるのはそのおかげ。
割引があるとは言っても家族4人でスケートしたらそれなりの出費だったろうし、連れていってくれた両親に感謝である。

うん、それに今こうして思い出すと、うちの父、そこそこスケート上手だったよね。もちろんスピンだのジャンプだのできるわけじゃないけど、子どもの手を引いてスーッと滑れるぐらいには上手だった。

「子どもはほっといても滑れるようになる」という話もあるけど、それは「こけるのを怖がらずにチャレンジする」からで、運動音痴で「まず頭で考えがち」な私は、父に教えてもらいつつ1~2時間かけてどうにか「リンクをぐるぐる」状態まで行っていた気がする。

そしてやっと氷に慣れた頃には「帰るで~」となって、続きはまた来年。

ググってもなかなか情報が出て来なくて、どれくらいの広さだったのかわからないけど、私の記憶の中では滋賀県立アイスアリーナ(60m×30m)よりも広かったような。自分が子どもで小さかったから、相対的に大きく感じるのかな。
今ある屋内リンクは大体60m×30mっぽいから、梅田もそうだったのかも。

リンクの外側にはベンチのある観客席、少なくとも1箇所には暖を取るためのストーブがあって、たこ焼きやカレーといった軽食を売る屋台スペースもあった。
なので県立に行った時にお店がなんにもなくてつまらなかったんだけど、まぁ競技用リンクに軽食屋台はないわな。

リンクや客席の見た目、ストーブがあるところの梁というか構造材の様子など、「こういう感じだった」っていうのをけっこうありありと思い出せる。当時は土曜日も学校があったし、行くなら日曜か冬休みで、いつもとても賑わっていた。

一度、こけてリンクに手をついたらその上にお客さんが乗ってきたことがあり。
たぶん、向こうも子どもだったと思うけど、しばらく私の指の上に立ってたんだよね……。「ええっ!?」と思いつつもとっさに声が出ず、なかなか気づいてもらえなかった。

手袋してたし、一応医務室行ったけど特に出血などはしておらず、ただブレードの跡が「へこみ」として刻印されていたような……。たいしたことなくて何よりだったよなぁ。

軽食コーナーで何か買ってもらったこともあったけど、お昼ご飯(晩ご飯?)は向かいの阪急高架下にあったお店で食べることも多かった。
かっぱ横丁ではなくて、今はなんかお洒落な店が入ってるとこらへんに、いわゆる「一膳飯屋」さんがあったんだよな。冷や奴とか焼き魚とか肉じゃがとか、もう器に入ってて、必要ならレンジでチンしてくれるお店。

梅田に遊びに来る人向けというより「そこで働いている人向け」のお店で、家族連れで入るのが珍しかったのか、なんか「いつも(というほど行ってない)ありがとうございます」と年末だか年始だかのご挨拶食器セットをもらったことも。

お店の名前覚えてないし、昔すぎて(何しろ昭和50年代)ググっても出てこない。その節はお世話になりました。ご飯美味しかったです。
当時の私は今以上に好き嫌いが激しかったので、塩鯖とかほんとにありがたかったんだよなぁ。

梅田芸術劇場行く時は未だに母と、「ここのお店で…」という話をする。
子どもの頃慣れ親しんだ場所はどこもなくなったりリニューアルして、今はまだ母と懐かしく思い出話をできるけれど、いずれ「私しか覚えていない」場所、できごとになるだろう。

なのでせめてこうして文章に残すのであった。