『矛盾源氏物語』を見て感じたことの補遺。


劇中で「物語は嘘」「だから紫式部は地獄に落ちる」と言われて、謎の一ファンが「物語を歴史にしてしまえ!」と暴走します。

物語ることは罪なのか?

謎のファンは、「あなたの書く物語に救われたのに、このままではあなたは不幸になる」と言う。「罪」だと言われる「物語」は、一方で、人の心を救いもする。
「物語は嘘でも、その物語を通じてあなたの心に生まれたものは嘘ではないでしょう?」
劇中の紫式部は、たとえ地獄に落ちるとしても、「物語を語ることはもうやめられない」と言う。

人はなぜ物語を紡ぎ、なぜその「嘘」に心を寄せるのか。

劇中の中宮彰子は、「定められた一つきりの人生」ではない、違う人生を、物語を通じて生きることができる、と言い、「好きなのは六条御息所だ」と言う。

物語を読むものは、物語に救われる。
そして物語の中の登場人物達は、読者を楽しませるために様々な艱難辛苦に遭う。置かれた状況も、容貌も、ひどい描かれ方をした末摘花。生き霊にされてしまう六条御息所。主人公の正妻でありながら生き霊に祟り殺される葵の上。

そして、主人公であり、美しく、すべてに優れた人物として描かれながら、藤壺一人に囚われ、孤独を強いられる光源氏。

「なぜ紫式部は私たちをこんなふうに描いたのか――不幸にしたのか」

突然『ドンブラザーズ』の話をしますけど、ジロウの幼なじみたちがみんな「幻」で、ジロウのこれまでの人生は全部「嘘」だった、ということが終盤に明かされたでしょう?
あれ、本当にめちゃめちゃひどくて、ジロウ本人が立ち直っても、見ているこっちの方が立ち直れねぇわ!って思うぐらいなんだけど、なんであんな展開になったかっていうと、「その方が面白いから」らしくて。

どうするか最後まで迷ったけど、面白い方を取った、みたいな。

鬼畜だよね。
物語を紡ぐ人間って、鬼畜だ。まさに“罪”だと思っちゃう。

自分が作ったキャラクターたちがもしも実体化したら……みたいなこと、時々考えるけど、もしも彼らが現実世界に出てきたら、「よくもひどい目に遭わせてくれたな!」「○○を生き返らせろ!」などと私をボコボコにするのでは。

うん、ごめんね。たいがい可哀想なことしちゃってるよね、私が楽しむために、君たちに悲惨な人生を与えてしまっている。

いや、まずその前に「ちゃんと完結させろよ、このどアホ作者が!」というお叱りを受けるのかな。どうなんだろう、この先「○○が死ぬ」とわかっていても、続き書きます?(自分の作品のキャラクターを脅してどうする)

そもそも「ほぼ設定だけ」で、生まれ落ちたはいいが「その後の人生」を生きさせてもらえてない子たち、彼らに一番叱られそうだな。ごめん…ほんとごめん……。

なんか、何が言いたかったのかわからなくなってきましたけど、『矛盾源氏物語』の中で、紫式部本人が源氏物語を書いたことを悔いて、「罪」だと認めて、そして刀剣男子(確か一文字則宗)が「作者であるおまえさんが“罪”などと言わないでくれ」と慰める――これ、「お話を一度でも作ったことのある人間」にはめちゃめちゃ刺さる話だなぁ、と。

『ドンブラザーズ』の中で、「鶴の獣人は物語を紡ぐ」。「みほちゃん」という物語を紡いで、つよし君を幸せにした後、奈落に落とした鶴の獣人。
「みほちゃん」は「嘘」だったんだろうか?
みほちゃんや、ジロウの幼なじみルミちゃんは、本当に「いなかった」んだろうか?

「物語に心を寄せ、悼むものがいれば……ここにある“死”は嘘ではない」

彼女たちに心を寄せた人間がいれば、つよし君やジロウが彼女たちを心から愛おしみ、忘れないなら、「物語」は「現実」になるんじゃないのかな。
少なくとも、「最初からいなかった」にはならないでしょう?

人が――誰かが誰かとして存在するって、結局そういうことなんじゃないのかな。

人は物語を紡ぐ。
物語が、人を紡ぐ。