さっき、これを書いている途中でいきなりぶちっと電源が落ちた。
ひょえ〜〜〜!!!!!
停電。
雷なんか鳴ってないのに……なぜ。
まぁ今日は風がやたらに強くて、いきなりドババーっと雨が降ったかと思うと陽が照ってきたりして、「荒れた天気」ではあるんだけど。

くわばらくわばら。
もう停電せんといてね。

さて。
内田先生と名越先生の本『14歳の子を持つ親たちへ』からさらに少し。

「ディベートは最悪の教育法」という箇所があって、ここは本当に「え?そうなの?」だった。
私の子どもの頃はせいぜいグループごとに調べたことを代表者(あるいは全員)で発表する、ぐらいしか「話す」ことを学ぶ授業がなくて、昨今の「ディベート授業」というのはいいものなのかな、と思っていた。

「NOと言える日本人」を作るために子どもの頃から相手を言い負かす術を練習するのかな、というふうにも思っていたけれど。
国会中継なんか見てても、「相手の話は聞かずにひたすら野次ばかり」で、日本人は筋道立って自分の意見を述べたり議論したりするのがきっとそんなに得意じゃないんだろうから、そういう技術を身につけるのは悪くないのかなと。

「ディベート」って、今「新解さん」で調べてみたら
『ある話題について、肯定側と否定側の二組に分かれて討論すること』
と書いてあった。
ただ「自分の意見を筋道立って述べる」というのではなくて、「肯定か否定か」で議論するものなのね。
ふーん、そうなんだ。
「自分の意見」が「どっちとも言えない」だったら参加できないよね。

「ディベート」と「コミュニケーション」というのは全く別の代物で、今学校現場で「自分の意見をはっきり言いましょう」という教育をしているのは間違いだ、とこの本の中でお二人はおっしゃってます。

「小学校の低学年で自分の思いや意見をはっきりした言葉で言えるわけがない。言葉に詰まってしまうとか、あるいは複雑な感情だったら語彙が追いつかないから黙ってしまうというのが小中学生の“当たり前”である」

東大の教育学の佐藤先生という方がそうおっしゃられてるそうです。
「ほんとうに感受性が優れていて、言葉を大切に扱う子は、口ごもって“シャイ”になるはずだ」と。

ああ、なるほど〜。
言われてみればそうだよねぇ。
言葉や自分の思いを大切に扱おうとすればするほど、それを表現するのは難しくなるだし、「ディベート」って基本的には相手を言い負かした方が勝ちで、「自分の想いがどれくらい丁寧に伝えられたか」よりも、力業というか手練手管みたいなところが重要になってくる。

「自我をはっきり持って、それで自分の意見をはっきりと発信できることがコミュニケーションではない」
「むしろ逆に、何を言っているのかはっきりわからないことを受信する能力がコミュニケーション能力だ」
「発せられた言葉からどれだけの意味を感得できるか、どれだけのことを自分の中に取り込むことができるか。それこそが重要なんだ」

ここはちょっと早急に教育現場の方々に読んでいただかないと(笑)。

親も子どもにすぐ言っちゃうんだけどね、「どうしたいのよ!はっきりしなさいよ!!」って。
「え〜、どっちでもいい〜」とかって言われるとついつい、「どっちかに決めぇな!え?どっちがいいの?」みたいな。

なんだろ、あれは。
「親が勝手に決めた」にならないように、「子どもの意見」を聞いたことにしたいのかな。
あとで子どもが文句を言っても「あんたこっちがええって言うたやん!」という言質を取っておきたいとか。

親が何か訊いてきたことに対する「子どもの意見」って、すごく難しいよね。子どもは絶対に親の顔色を見てて、「親はこう答えてもらいたがっている」っていうのを察知してる。で、往々にしてそれは子どもにとっては嬉しくない答えだったりするから、子どもは「え〜、別にどっちでもいいけどぉ」というふうに逃げる。
せっかく逃げてるのに「どっちでもええことないでしょ!」と追い打ちをかけられたりして。

うちの子は口も達者で、「やりたい」「やりたくない」とかいう意志をはっきり表出することが多いんだけど、友達に一人わりと大人しい子がいて、そこのママさんは「もう、ほんま“自分”がないんやから!」という感じで怒っていたりする。
彼は“シャイ”なんだろうなぁ。

……となるとうちの子は“図太い”になってしまうな(笑)。
でもうちの子は、学校では発表とかするのすごく嫌がる。日記や作文もものすごくどーでもいい感じに書く。
なんか、「本当のことは言いたくない」みたいなところもかいま見える。

逆に“シャイ”な友達の方は、「学校ではよく発表したり、代表になったりしたがる」らしいんだけど。

一口に「自分を表現する」と言っても、「誰に対してか」でも変わってくる。「嘘をつく=本心を見せたくない」だって「自分の想いのうち」だもんなぁ。