光文社古典新訳文庫版の『カラマーゾフの兄弟』は大ベストセラーらしく、第1巻は1年でもう17刷!
こーゆー長編は途中で挫折する人も多く、巻を追うごとに部数が少なくなっていくものだけど、最終第5巻も半年で12刷。いやぁ、この出版不況の時代にすごいですね。
みんなそんなに『カラマーゾフ』に興味あったんだ。
読めるものなら読んでみたいと思ってたんだ。

もちろん私のように、昔一度挑戦したことがあって、「今度は読みやすいっていうから」もう一度読んでみようと思って手に取ってる人も多いのでしょうけど。

ちなみに私が持っている新潮文庫版。
上巻(新潮文庫では上中下の3分冊)が平成元年で24刷。
初版が昭和53年なので、11年で24刷。
これでもけっこう多いなぁと思うよね。
単純計算で1年に2回ぐらい増刷してるわけでしょ。増刷なんか一度もされない本の方が絶対多いんだから(というか、たぶんほとんどがそうだろう)。

ちなみに『のだめ』の第1巻は4年半ぐらいで30刷。
1年で割ったら7刷強だから、『カラマーゾフの兄弟』が1年で17刷というのがいかにすごいか。

ねぇ。

確かに亀山さんの訳は読みやすい。
内容自体はやっぱり難しいはずで、1巻の最初の方はちょっとめんどくさい感じがしたけど、「世界」に慣れてくるとわかんなくても読み進んでいける。
細かいところ、一文一文の意味はしっかりわからなくても、なんかわかった気で読める。
巻末の亀山さんによる「読書ガイド」がまたホントに有用で。
これ、巻末じゃなくて巻頭に置いた方がいいかもしれない。だって、普通の「あとがき」や「解説」とは違って、本文読む前に読んでおくものとして書かれているもの。
2巻には1巻のおさらいが、3巻には2巻のおさらいがあって。

昔、新潮文庫で読んだ時は、第2部第5編の「プロとコントラ」、イワンの「反逆」と「大審問官」にいたく心打たれたものだった。何しろそこしか覚えていないもの。

『カラマーゾフの兄弟』は上から、猪突猛進乱暴型のドミートリー、冷静でインテリなイワン、誰からも愛される修道僧のアリョーシャという3人兄弟。
ドミートリーと、下2人は母親が違って、「兄弟」と言っても一緒に育ったわけではなく、顔を合わせたこともないぐらいだった。
イワンとアリョーシャにしても、母は幼い頃に死に、父親は彼らをほったらかし。父の家ではないよその家で育ち、途中からは兄弟別々に暮らしていたようで、久しぶりに会った感じ。

独自の無神論を展開する次兄イワンが弟アリョーシャに語る自作の物語詩が「大審問官」。それに先立つのが「反逆」の章。

イワンは「俺が受け入れないのは神じゃない。俺が受け入れられないのは神によって創られた世界だ」と言う。
彼は色々な幼児虐待の例を引き出してくる。
何の罪もないのに虐げられる、不幸な子ども達の話を。

「知的で教養もある紳士とその妻が7歳の自分の娘を木の枝で鞭打って快楽に酔う話」とか「うんちを知らせなかったというだけで5歳の女の子が一晩中トイレに閉じこめられ、しかもうんちを食べさせられたりする」なんて話を読むと、「幼児虐待」は何も現代日本の特殊病理ではないのだなと思わせられるけれど、そういう「実の親から虐待される子ども」や「残酷に殺される子ども」の話を挙げて、イワンは言うのだ。

「こんなばかげた話がなぜ必要なのか?」
「人はみな、永遠の調和を苦しみであがなうために苦しまなければならないとしたら、子どもはそれにどう関係する?」
「なぜ子ども達は苦しまなくちゃならなかったのか、なんのために子ども達が苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか」

最後の審判が訪れ、神の国が実現し、そこではすべての罪が許され、自分の子どもを無惨にも殺された母親が、その殺した相手と抱き合って「主よ、あなたは正しい!」と歓喜の叫びを上げるとしたら、一体子どもの受けた苦しみとは何だったのか。
子どもの流した涙は償われたのか?
受けた苦しみは償われたのか?

「もしも子ども達の苦しみがだ、真理をあがなうのに不可欠な苦しみの総額の補充に当てられるんだったら、おれは前もって言っておく。たとえどんな真理だろうが、そんな犠牲には値しないとな」

「調和なんておれはいらない、人類を愛しているから、いらないんだ。それよりか、復讐できない苦しみとともに残っていたい。たとえ自分がまちがっていても、おれはこの復讐できない苦しみや、癒せない怒りを抱いているほうがずうっとましなんだ」

このイワンの言葉に、20年前の私はとても感動したし、今改めてこうして書き写していても何か、胸に迫るものがある。
私はクリスチャンじゃないから、はなから「最後の審判」も「神の王国」も信じていない。それにイワンの主張を読んだら、ますます「神の国」なんて信じたくなくなる。

もしも神がいて、天国だとか神の国があったとしても、今この地上で苦しんでいる人々に、その苦しみに、神や天国は何をしてくれるのか。
なぜこの地上で、今この時に、この苦しみを取り除いてはくれないのか?

私は思う。

この世に生きているということは、それ自体が理不尽だ。
私たちは生まれる国も生まれる親も、性別も容姿も、何も選べずいきなりこの世に放り出される。
金持ちに生まれ、さしたる苦労もなしに人生を終えるとしても、その「人生を終えなければばらない」ということだけでも理不尽だ。
生まれてきたものは必ず死ななければならないというそのことだけでも、十分に。

ましてや生まれ落ちたその時から貧困と飢餓にあえがなければならない者、どんな喜びを感じる暇もなく、ごく幼いうちに死ななければならない子どもは、何のために生まれてくるのか?
それは前世のカルマなのか。
それとも来世の調和のための尊い犠牲なのか。

現世が理不尽だからこそ、人は前世や来世を考えるのだ。今この時自分が不幸なのは前世に過ちを犯したからだと。あるいは来世での幸福のために今の苦しみがあるのだと。

「生の理不尽」が納得できないからこそ、人は神を創りだしたのではないのか――。

変な納得などしたくないと思う。
その理不尽を理不尽として、怒り続けていたいと思う。
だってそうでなければ、なぜ人は心なんてものを持つ必要がある?
そうでなければ―――。

20年前、私にとって『カラマーゾフの兄弟』はこのイワンの「反逆」の章だけでいいぐらいだった。
イワンの言うことだけはよくわかって、それ以外はきっと、よくわからなかった。
20年経って、他の章にもたくさん、「感じる」ところがある。イワンの言葉だけではなく、色々なセリフが、色々なシーンが、複雑に絡み合いながら動いていく運命そのものが、胸に迫る。

昨日から3巻を読んでいるのだけど、アリョーシャとグルーシェニカが互いに「小さな一本の葱」を与え、亡きゾシマ長老がアリョーシャの夢の中でそのことに触れるくだりでは思わず泣きそうになってしまった。
どんな神様を信じていようと、あるいは信じていなかろうと、人には何か温かい、普遍の真実があって、この「生」がどんなに理不尽でも、やっぱり「希望」はあるのだ……。