主語云々の話をしていた時にちらっと紹介しました。月本洋さんの『日本人の脳に主語はいらない』。図書館で借りて読みました。

まぁなんとも挑発的なタイトルっていうか、興味をそそられますよね。「脳」から来るか!?みたいな。
著者の月本さんは人工知能の研究をされている方で、言語学者ではありません。ロボットの研究をするうち、「人間なみの知能を実現するには“身体”が必要である」という考えにいたり、本書でも「身体運動意味論」とか「身体運動統語論」とかいう用語が出てきます。

その、「身体」と「知能」の関係を説明するのに本の前半分が割かれていて、実のところ「主語」の話になる後半よりも、前半の話の方が面白かったです。
「主語」の話も、「へぇ、なるほどねぇ」とは思うんだけど、でも「ええっ、ほんとに?」という気もやっぱりしちゃうんですよ。
専門書ではなく、一般人向けに書かれた本なので、きっとかなりはしょってあると思うので、論拠と結論の間に飛躍があるように感じてしまう。
「脳」が日本人とイギリス人じゃこう違うから、日本人は「主語」を言葉として発声する必要がない。というよりも、イギリス人は「神経伝達に時間差があるから、間をつなぐために主語を発声しなければならない」というような結論なのです。

えっ、単なる時間稼ぎなの?

「言葉」って、人間にとっては、他の生き物と自分達を区別する非常に重要なファクターで、「高尚なもの」というイメージがあるでしょう。しかも文法上さんざん「重要だ!」とすり込まれている「主語」が「時間稼ぎ」って言われたら……その程度のものだったの?みたいなね。
そんな「時間稼ぎ」に仕方なく生まれてしまったもののために受験で苦労したのか?って(笑)。

科学の進歩は人間を「特別な位置」からどんどん引きずり下ろしてきた、というようなことはこの本のどこかにも書いてありました。
自分を中心に考えて、地球の周りを太陽が回っていると思っていたのに実は違って、自分達人間は「神様に作られた」特別な生き物だと思っていたのに、実はサルから進化した、他の生き物と別段変わらない生き物だった、とか。

「言葉」とか「心」とか、なんか「特別なもの」だと思いたいでしょう。
「肉体」とは違う、別に存在する「崇高なもの」みたいに。
だから「そうじゃないかもよ」って言われると、「そんなの嘘だ」と思ってしまう。「そうか」と納得するのが難しい。

この本には「仮想的身体運動による心の理解」という章があって、非常に興味深かったです。
曰く、「思考は社会的なものである」
言葉は社会的なものであって、その社会的な言葉を用いなければ、思考はできない。
だから、「他人と有効に対話できなければ、思考もまともにできないのである」

おおおおっっっっっ。
いや、まったくね。
すごく、「現代に必要な警句」じゃないですか、これ?

それからこういう文。
「自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己になる。」

主語云々なんてもうどうでもよくなってくるでしょ?(笑)。
「うさぎがえさを食べている」の「主語」はどれ?ということを教えるより、「社会的でない自己はある意味で壊れた自己である」ってことを教える方が、よほど大切ではないかしらん。

「心」とか「意識」とかいうものは、二人以上の人間の相互作用で、一人だけを取り出して記述してもうまくいかない。
「心」というのは「重力」のようなものではないか。

なるほどぉ、と思います。

で。
肝心の「脳」と「主語」ですけど。
日本人には「風流なもの」として聞こえる「虫の音」が、外国人には「ただの雑音」に聞こえる、という話がありますよね。
日本人は、母音も子音も虫の音も小川のせせらぎも「左脳」で聞き、西欧人は子音しか「左脳」で聞かないそうです。
そして「左脳」というのは、大ざっぱに言うと「言語や思考を行う脳」なのですね。「言語野」は「左脳」にあると。

この「脳の違い」が、「主語の有無」を生む、というのが月本さんの主張です。
どういう音をどっちの脳で聞くか、というところに差違があるのは事実らしいので、そのことによって言語活動に違いが生じる、ということはもちろんありうる話でしょう。

そしてこの「どの音をどっちで聞くか」というのは遺伝的なものではなく、学習的なものらしいです。
遺伝的に日本人でも西欧語を母語として育てば、その母語を聞き取りやすいように脳神経回路が組織化される。ゆえに彼は子音以外の音を「右脳」で聞くようになる。

英才教育とかで乳幼児の頃からバイリンガルになるよう育てられた子どもの脳は、どうなるんでしょうね?
本書では「言葉が自己意識を変形する」という話もあって、そりゃそうだろうな、と思うので、なおさら「日本語もおぼつかない時期に英語をすり込んで、ほんとにいいんだろうか?」と思ったりします。
虫の音や小川のせせらぎを雑音とは聞いてほしくないなぁ、と……。