読み終わってしまった。
まだ次のドストエフスキーを買っていないのに。
ああ、さびしい。

先日、「半分までの感想」で「困ったおじさん」ステパン氏のことをお話しましたが、あのおじさんは最後の最後まで迷惑な人でした。
ほんまにもう、あんなおじさんに見込まれて世話するはめになったソフィヤは災難としか言いようがない。世間知らずの大先生なんて、ろくなもんじゃないわね。
もちろん悪人ではなくて、むしろ「善人」なんだろうけど、「悪気のない迷惑な人」ほど始末に負えないものはないわけで。

寅さんみたいな感じ? 『男はつらいよ』の。
私、寅さん見てるとイライラするのよ。
彼が善人で、悪気どころか良かれと思って行動していることが、ものすごく腹立たしい。
見てるとついほろっとさせられてしまうのは確かなんだけど、でもイライラする。
それで生きていけるなんてずるいやん、って。

迷惑なステパン氏は、でもまぁ可愛いもんです。その息子に比べれば。
息子ピョートルは本物の悪党。街をさんざん引っかき回して、平気で人を殺して、さっさとずらかる。
こいつだけ不幸にならないのが――少なくとも物語の中では捕まりもせず死にもせず、のうのうと生き延びるのがまた、実に腹立たしい。

「生き延びる」ということもまた、「本物の悪党」の証なんだろうな。
彼は社会の転覆のためと称して秘密結社を作って、秩序を乱し、殺人を行うのだけど、自ら「自分は社会主義者ではなくペテン師だ」と言っている。ちゃんと自覚した、確信犯であるところが、まったく「本物」ではあるし。

ピョートルの描写は、ステパン氏以上にうっとうしい。なんで街の人はみんなこんなペテン師にすっかり騙されてしまったのだ、と関係ないのに腹が立ってしまう。
あの親にしてこの息子か……と言っても、ステパン氏とピョートルは生涯で三度ほどしか顔を合わせたことのない、非常に疎遠な親子だけど。

ピョートルにあっさり騙されて空騒ぎを演じる街の人たちの愚かさ――それを許してしまう時代の気分。
ただ「えせ革命分子」を嗤うだけでなく、ドストエフスキーは「彼らに騙されたがっている」ような周囲の人々を嗤っているように見える。

で。
ニコライ・スタヴローギンですよ。
彼は「稀代の悪魔的人物」などと評されることが多いみたいなんだけど。

スタヴローギン、悪くないよね?
悪くなかったよ、全然。
全部ピョートルが勝手にやったことじゃん。

ピョートルはスタヴローギンのある種「カリスマ性」をあてにしていて、なんとしても彼を自分のペテンに引き込み、革命の旗印にしたがっている。
それで、スタヴローギンにとって邪魔になる人間を勝手に始末したりする。命じられもしないのに。

スタヴローギンはピョートルがそれをするだろうことを予感してはいて、でも彼を止めようとはしない。
だから最後で、「そのことについて僕には良心のうえで罪がある」と言う。

いい人じゃん。

『悪霊』には、雑誌連載当時掲載されなかった「スタヴローギンの告白」という章があって、それは単行本になる時も削除されたまま収録されなかった。
そこで告白されるスタヴローギンの「罪」は確かにとても重いもので、決して赦されることではないけれど、彼は自分が「罪を犯した」ことを自覚しているし、悩まされてもいる。
「殺人なんて屁でもない」と思っているピョートルに比べたら、スタヴローギンはよほど「まっとうな人間」である。

彼の最後の手紙はとても真摯で、浮世離れしたステパン氏のたわごとなんかより、よほどよくわかる。
共感できる。
超然として、知能にも度胸にも不足はない。その気になれば、彼はピョートルの願った通り、「カリスマ」指導者になれただろう。
でも彼は「その気」になれなかった。
「私の感情は常に底が浅く、欲望は力弱く、みちびく力がない」
「彼ら(ピョートル達)と行動をともにできたら、その方がどれだけ楽だったか」

きっと彼にはこの世のすべてがばかばかしかった。
だから彼は、何にも熱中することができなかった。
彼は「ピョートルには情熱がある」と言う。
たとえそれが「悪事への情熱」でも、その執着の強さ、欲の強さに、彼は羨望を覚える。それは決して彼の持ち得ないものだから。

スタヴローギンに対して、シャートフという青年がこんな言葉を浴びせる。
「あなたが無神論者なのは、あなたが坊ちゃんだからです、最低の坊ちゃんだからです。(中略)いいですか、労働によって神を手に入れるのです。本質のすべてはここにあります、さもないとあなたは醜い黴のように消えてしまいますよ」

その通りだと思うなぁ。
結局スタヴローギンの人生が悲劇で終わるのは、「坊やだからさ」なんだよ。
彼にとって生きていることがばかばかしいのは、すべてが無意味にしか思えないのは、やっぱり「生きることに汲々とした」ことがなくて、観念ばっかりで「働く」をおろそかにしたからじゃないだろうか。

シャートフもまた、スタヴローギンの持つ「何か」に心酔し、大きな期待をかけていた。でもそれは結実しない。
作中では詳しく語られない「ペテルブルクでの彼らの繋がり」の時点でのスタヴローギンと、故郷の街に戻ってきたスタヴローギンとは、どこかが変わっていたのかもしれない。「スタヴローギンの告白」で語られる罪によって、彼は大地から切り離され、もはやどんな力を発揮することもできない、誰の期待も背負うことのできない、「醜い黴」のようになってしまったのかも……。

告白される「スタヴローギンの罪」は、幼い少女を辱め、死に追いやった、というものだ。その内容から、雑誌掲載を断られた。「うちは家庭的な雑誌だから」という理由らしい。……あの告白の章がなくても、果たして『悪霊』が「家庭的な雑誌」に載るべき「家庭的な小説」かどうかは非常に怪しい気がするけれど……。そりゃ、家庭的と言ったって「主婦の友」みたいな雑誌ではないんだろうけどね。文学的な、あまりに文学的な作品でしょう? 暇つぶしや手遊びに頁を繰る息抜き小説なんかじゃなくて。

長くなったので、続く(まだ書くんかい!)。


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