昨日、「輪廻転生の方が、ずっと先の最後の審判よりはまだしも信じられる」と書いたけれど、「まだしも」なのであって、実のところあんまり信じていない。

死んじゃったら終わりだ。
肉体は微生物に分解されて何か他のものの栄養になるんだったらなるかもしれないが、私の「意識」というものは完全な無になってそれっきり、と思っている。

別にそんなことを四六時中考えているわけではないけど、時々夜中に「ああ、みんな死んじゃうんだ。私も死んじゃったらそれっきりだ」と思ってどーんと暗くなることがある。(この話はたぶん前にもした)

何か信じられたら楽なのになぁ、と思う。
信じられたら怖くなくなるんだろうなぁ、と。

でも人生のあんまり早い時期に死ぬのが怖くなくなったら、それはそれで問題のような気がする。
『悪霊』のキリーロフ君のように、「生きてても死んでても同じになるのが真の自由だ」というわかったようなわからないことを言って自殺しちゃうかもしれないし、「死んでもまだ次がある」と思えたら、今目の前にあることはどーでもよくなってしまうかもしれない。

「死にたくない」と思えなかったら、「他人を殺してはいけない」も根本のところでわからないんじゃないか。

人生が1回きりで、その前もその後も茫漠と「無」が広がるだけだったら、生後すぐに死んでしまう赤ん坊とか、満腹になった記憶もないまま幼いうちに死んでいく大勢の子ども達の人生は一体なんなんだろう、とやりきれなくなるけれど、「それにはこれこれこーゆー意味があって」と変にすっぱり説明されても、やっぱり私には納得できないだろう。

わからないことや、割り切れないことがあるのは落ち着かない。でも、こと「生きる意味」とかいう哲学的な問題に関しては、ずっとそれを抱えていくしかない――対峙し続けるしかない。むしろ積極的に、「ずっと考えていたい」と思っている。

もちろん、不老不死の薬があったらいいのになぁ、とも思っている(笑)。
そうなったらそうなったで、「“永遠に生き続ける”ということの意味」を考えなくてはならないのだろうけれどね。