SF
『警士の剣』(新しい太陽の書3)/ジーン・ウルフ
『新しい太陽の書』第3巻です。
(1巻の記事は「『拷問者の影』〜史上最高のファンタジイ降臨!〜」。2巻の記事は「『調停者の鉤爪』/ジーン・ウルフ」。)
いやぁ、面白かった!
『白痴』は読了まで1か月以上かかったのに、『警士の剣』は5日で読んじゃった。ページ数が全然少ないとはいえ、ページを繰るのがおっくうだった『白痴』に比べ、こちらは隙あらば続きを読もう!でしたからねぇ。
なんというか、「ええっ!?」の連続でした。
1、2巻でちりばめられていた仕掛けが3巻でどんどん種明かしされていく。
でもそれが「仕掛け」だったってことにまったく気づいてなかったというか、いや、もちろん「この人は何者だろう?」と不審に思っていた登場人物も多いし、言われてみれば「なるほど、そういうほのめかしがあったな」なんだけど、やっぱりすごく意外で。
「えっ、そうだったの」と思ってしまう。
展開が予想できないんですよねぇ。
1、2巻で主人公セヴェリアンと一緒に行動していた人たちがみんな別れてしまって、3巻ではほとんどの時間をセヴェリアン一人で過ごしているし。
一人山岳地帯に分け入ったセヴェリアンの奇妙な冒険譚が3巻の中軸を成していて、一つ一つのエピソードにどういう意味があるのか、なぜここでそーゆー事件が起こるのか――絶対に全部繋がってるはずなんですよ、これまでの経緯から見て。でもわからない。
何だろう?何だろう?と思いながら読み進んでしまう。
『白痴』とはまったく別の意味で、すごく注意力を必要とされる。
解説の中に「読み終わったら、もう一度初めから読み返さなくちゃならない」って書いてあるんだけど、ほんとにそうだろうと思う。
この場面はそういう意味だったのか、このセリフはそういうことか、っていうのを確かめたくなると思うんだ。もう一度、最初に戻って。
今回一人で冒険をするセヴェリアンには、途中「子どものセヴェリアン」という道連れができる。
なぜか同じ名前の子ども。
これ、絶対すごい深い意味があると思うんだけど……わからない。
最初は「これは過去に迷い込んで、子ども時代の自分と出会ってるんじゃないか」と思ったんだけどね。
拷問者組合に拾われる以前の、幼少の記憶をセヴェリアンは持っていないから。母も父も知らないから。
でもどうもそうではなさそうな感じで「子どものセヴェリアン」エピソードは終わってしまった。
うーん、なんか、まだ4巻で「実は」という種明かしがあるんだろうか。
どきどき。
もともと非常に哲学的で思索的なセヴェリアン。今回一人ぼっちということもあって、特に思索の部分が多いような気がする。
それがまた私の好みと合致して楽しいのだけど。
たとえば、家族を失った「少年セヴェリアン」に向かってセヴェリアンが言うセリフ。
「人は父さんを失ったら、新しい父さんを持たなければならないんだ。坊やのように小さい子の場合はね。ぼくがその新しい父さんだ」
その後に続くセヴェリアンの述懐がまた味わい深いんだけど、それは読んでのお楽しみ。
それからまた、少年セヴェリアンを失って再び一人で山中をさまよい、ようやく村を見つけた時、セヴェリアンはこんなことを思う。
「そもそも自分が孤独の時は、ある意味で個性を失うものだと信じている。つぐみや兎にとって、わたしはセヴェリアンではなく、人間であった。(中略) しかし、わたしはまたある特定の人物に戻りたいと思った。そして、自分が他人とは違う存在だということを映し出してくれる、他人という鏡を見たいと思った」
セヴェリアンってほんと、哲学者だ。
次の4巻ではまた、「ええっ!?」という展開と種明かしが待っているに違いない。
楽しみ楽しみ。
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