塩野さんの、『ローマ人の物語ⅩⅡ~迷走する帝国~』の最後に、「ローマ帝国とキリスト教」という章がある。

次の次のⅩⅣ巻のタイトルはずばり「キリストの勝利」で、ローマの神々と「神様より人間が主役」というローマ人の考え方に大いに共感してきた身には、タイトルを見ただけで「ああ、読みたくないなぁ」と思ってしまう。

どうしてあのまま、「神様より人間」のままで行ってくれなかったんだろう。

どうしてキリスト教が勝っちゃったのかなぁ、と『ローマ人の物語』を読みながら思っていた。

その、「どうしてキリスト教がローマ帝国内で勢力を持つに至ったか」という分析を、この「ローマ帝国とキリスト教」という章で塩野さんがしてくれている。

ローマ帝国内でキリスト教が力を持つようになるのは、「3世紀の危機」の時代。

「パクス・ロマーナ」を謳歌していた時代には、キリスト教はそんなにも広まっていなかったのである。

要するに、「混乱と不安の時代」になったがために、人々はキリストの神を求めるようになったのだな。

世情が不安になると人々が神秘主義に走り、怪しい新興宗教がはやる、ということなんですね。って言ったらきっとクリスチャンの方々に怒られると思うけど。

でも古代ローマではキリスト教は新興宗教だったんだもん。

それ以前の、古いローマの神々を信奉している人々にとって、キリスト教は「怪しい代物」だったんだから。


「キリストの神は人間に、生きる道を指し示す神である。一方、ローマの神々は、生きる道を自分で見つける人間を、かたわらにあって助ける神々である。絶対神と守護神のちがいとしてもよい。しかし、このちがいが、自分の生き方への確たる自信を失いつつある時代に生れてしまった人々にとっては、大きな意味をもってくることになったのだった」(文庫版34巻P211)

結局、人間が信じられなくなったから、神様に行っちゃったんだな。

それも、唯一絶対の、強くて頼りがいがありそうに見える神様に。

この間、『迷走する帝国』本編の感想にも書いたけど、人間性の真実として、「上に立つ人間は自分達とはかけ離れた存在であってほしい」ってこともあるんだろう。

同じ人間が決めた「法」なら平気で破れるけど、神様の「法」は破れないとか。

「汝、盗むなかれ」とか、別に神様に言ってもらわなくてもわかることじゃん。

人間同士が、「それはしてはいけない」と決めて、それを守ればいいだけなのに。

「人間の愛」を信じられれば、それだけで生きていければ、「神様の愛」を持ち出してくる必要なんかない。

「キリスト教がその後も長きにわたって勢力をもちつづけているのは、いつまでたっても人間世界から悲惨と絶望を追放することができないからでもある」(文庫版34巻P213)

はぁ。

せつないなぁ。


私が無神論者(少なくとも唯一絶対の神様は信じない)なのは、やっぱり「平和で豊かな」日本に生まれて、恵まれた人生を送っているからなんだろうけれど。

でも共和制全盛時代から「パクス・ロマーナ」の時代の「人間の矜持」を見ていると、その後の「一神教時代」が「進歩の結果」とはとても思えなくて、「多神教は野蛮な古代人の信仰」みたいな考えは間違っていると思う。

むしろ、後退の結果「一神教」になったんちゃうん、と……(また怒られる)。

ギリシア哲学の方が、キリスト教より先にあるんだしなぁ。

「いかに生くべきか」、自分で考えるのと、神様に教えてもらうのと、どっちがより高尚かって言ったら、「自分で考える」方ちゃうん……。

あんまり神様が必要でない世界になっていくといいな。

でもこの金融危機で、まさに今、世界中が「先行き不安な時代」になってきたけど……。