昨日、10月27日は「文字・活字文化の日」で、今週と来週は「読書週間」である。

それで昨日、毎日新聞に「子どもの読書」に関する特集があった。

「学校読書調査」の結果と、「子どもの読書環境整備推進フォーラム」の話。

フォーラムは9月にあったそうで、テーマは「教育・授業改革にとって、学校図書館はなぜ必要か」というものだったらしい。

学校図書館の悲惨さをこの目で見ている私としては、「そーゆーフォーラムで議論したことがうちの小学校に反映されるのは一体いつになることだろう。反映される日なんか来るんだろうか」とちょっと意地悪い目で記事を読んでしまう。

毎年この「読書週間」の時は新聞に特集が出て、「学校図書館表彰」を受けた「先進校」の取り組みの紹介なんかがあって、「そーゆー“いい”ところの紹介より、“ひどい”ところを紹介してほしいなぁ。絶対そっちのが多いんだから」と思う。

まぁうちの子の小学校は特にひどいのかもしれないけれど、専任の司書教諭がいない学校は多いはずだし。

「少子化なんだから教育予算を増やす必要はない!」という財務省の声に文科省が負ける現状で、教員数さえ増えない中、学校図書館が充実するわけないよなぁ。


が。

実のところ、私は「お勉強のために本を読ませる」という考えはあまり好きではない。

コンピュータではなく本で調べ学習をするために学校図書館にはいっぱい本があった方がいいし、子どもが一日の大半を過ごす学校という「生活の場」に「読みたくなるような本」がいっぱいあるのはとてもいいことだと思うけれど、「学力向上のためにはまず読書」とかいう、「ためになる読書」という考えは好きじゃない。

だって、私は別に「なんかの役に立つから」とか「頭が良くなるから」と思って本読んでるわけじゃないもん。

面白いから読んでるだけだもん。

なんで自分が本好きになったのか、その経緯はよくわからない。でも小学校に入る頃にはもう読書が趣味だった。

でも学校の「国語」は別に好きじゃなかったし(「算数」の方がよほど好きだった)、読書感想文の課題図書なんて説教臭くて大嫌いだった。



「子どもの読書環境整備推進フォーラム」の大阪会場ではフィンランドでの取り組みが紹介されたらしい。

フィンランドでは2001年に「読書力認定制度」という振興策が実施され、課題図書について読書会を開催することで「本との対話」から「人との対話」につなげ、生きる力の習熟をしているのだそうだ。

「読書会ではお互いの感性の比較をしたり、主人公が行った問題解決の方法について評価しあい、一番良い解決法を探したりする」んだって。

うへぇ。

それって、「以下の文章を読んで次の問いに答えよ」じゃん。

そんな本の読み方したくな~い。

別にそーゆーことは「新聞記事」なんかを読んでやればいいことで、少なくとも「物語」の本を読んで、あとで議論するっていうのはヤだなぁ。

「ねぇねぇ、あの本読んだ?」って自主的に友達と話し合うのはいいけど、「後で話し合うことを前提に本を読む」のはイヤだ。

……最近はすっかり、「後でblogに書くことを前提に本を読んでる」私ではあるけれど……。



フォーラムでは、「子どもが本を読まなくなっている原因はズバリ、日本の大人が本を読まないからだ」という意見も出されている。

昔の大人はそんなに本を読んでたのかな。

テレビがなかった時代の大人かな。

私の父親は吉川英治の全集を揃えたりする「本好き」だったけど、あの世代の他の人々がどれくらい本好きだったのか、私にはわからない。

今の子ども達は高学年になっても長い話が読めないなぁ、と図書室で見てて思うけど(『ナルニア物語』とか『精霊の守り人』とか読める子どもはごく小数)、私は自分が「異常に本好き」な子どもだったので、「そんなに本好きではない30年前の子ども」がどれくらい本が読めたのか、よくわからない。

長い物語を読むにはまず「文字を追うことがおっくうでない」ことが必要で、「文章で書いてあることを頭の中でイメージでき」て、しかもその物語世界に入っていける「集中力」が必要だと思う。

なんとなく、今の子ども達に一番足りないのは「集中力」じゃないの?という気がするけれど、どうだろう。

ゲームなんか、自分がボタンを押したことに対してすぐ反応が返ってくる。

あーゆースピーディさというか、「打てば響く」みたいないわゆる「反射神経」的な事柄に囲まれていると、「じっくり本を読む」なんてすごくうっとうしいことに思えるんじゃないかしらん。



子どものみならず大人も本を読まなくなって、「このままでは日本社会の市民的教養は崩壊してしまう」と言われると「そうだろうな」と思うけど、でも「教育的」に「本を読まされる」のもイヤだと思うから、「読書活動の推進」っていうのは難しいな、と思う。