めちゃめちゃ間が空いてしまったが、『大人のいない国』の感想の続きのようなもの。

『呪いと言論』という、内田センセの書かれた章について。

ここに書かれている「言論の自由」についての話は、ぜひ多くの人に読んでもらいたいなぁと思うのだけど。

「言論の自由」とは、「なんでも好き放題言っていい」ということではもちろんなくて、自分が発言したことを「正しいか、間違っているか」を決めるのは、「他者」である。そのような、「正否真偽を審問する場」の威信を認め、それを信任し、その「場」を自らも担おう、作り出そうと努力することこそが「言論の自由」である。

というような話。

勝手にまとめてしまったので、多少内田センセの論と齟齬があるかもしれない。正しく知りたい人はちゃんと本を読んでくださいね。

インターネットに氾濫する「匿名での誹謗中傷」は「呪い」であるという話も面白いし、その反対の「祝福」が必要だ、という話も面白い。

そんな、どこを切ってもうんちくのある言葉だらけのこの短い章の中で。

「およそ人間の脳裏に生じたすべての言葉は、それが人間の脳裏に生じたという一事を以て、何らかの人間的真理を表示している」(P80)

「私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされぬのではないのか。(中略)聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない」(P83)

という箇所に、特に引っかかってしまった。

ちょうど、『書き言葉は内省言語』を書いた直後でもあり、「“考える”ための道具としての言葉といえども、それを文章にして“書く”時に、読者を意識しないことがあるだろうか?」というようなことを考えていたもので。

こうしてblogに文章を書く時に、読者を意識していないわけがない。

たとえそれが不特定多数の、いるんだかいないんだかよくわからない相手で、ほとんどが「ひとりごと」のようなものでも、それでもこうして「誰かが読もうと思えば読める場所」に言葉を書く時に、それが「ただ考えるためだけの言葉」で、「伝える」ということを無視したものであることはありえないだろう。

「書き言葉」と「話し言葉」の違いは、私にとってはその「コミュニケーションにおける立ち位置」がずいぶん違って、自分ではかなりはっきりした使い分けがあるように思うのだけど、そうであってもやはり、それが「言葉」である以上、「他者に伝えるための道具」であることは否めないなぁ、と。

もしもそれを否んだら、その「言葉」には本当に、何の意味もなくなるだろう。

誰にも読ませないはずの紙の「日記帳」だって、そこに「言葉として書きつける」以上、それは「受け容れられ、聴き入れられ、同意されることを望んでいる」。

もちろん、自分自身との対話という部分もあるだろうけれど。

たとえば嫌なことがあった時には、「大変だったね」と誰かがねぎらってくれることを仮想して言葉を発しているのだろうし、逆に楽しいことがあった日には、「良かったね」と言ってもらいたい。その喜びをただ自分の中に閉じ込めておくのがつまらなくて、「書くこと」で「誰ともわからない読者」と分かち合っているんだろう。


自分の考えをまとめるための「書き言葉」でも、目の前の特定の誰かとコミュニケーションするための「話し言葉」でも、「受信者に対する敬意」をゆめゆめ忘れてはいけないな、と思う。

blogを実名で書く勇気はないけれど、書いたことには責任を持ちたい。

そして、「呪い」ではなく「祝福」の言葉を紡ぐ人間でありたいと思う。

努力すべし。