はい、続きです。

2章:辺境人の「学び」は効率がいい

辺境人は「外」に本物がある、と思っているわけだから、「外」をお手本として「追いつけ追い越せ」とがんばります。

だから「学び」の効率が大変よろしい。

という話だったかもしれないけど、違うかもしれない(笑)。

あんなに楽しく読んだのに、細かいことをもう忘れています。

「学び」については内田センセのblogにも再三書かれていますし、blogで読んだのかこの本で読んだのか、それとも『街場の教育論』だったのか、もうなんだかわかりません。

しょうがないのでぱらぱらっと本書をめくって、決めぜりふっぽいところを抜き出してみましょう。

日本人が国際社会で侮られているというのがほんとうだとしたら(中略)、自分がどうしてこのようなものになり、これからどうしたいのかを「自分の言葉」で言うことができないからです。 (P122)

大変に耳の痛いお話ですね。ついつい政治家の方々のお顔を思い浮かべてしまいますが、わが身を振り返ってももちろんドキリといたします。

「外」に「お手本」があるわけですから、「自分の言葉」で語れないのは日本人の日本人たる所以のようなものです。

でもこの「起源からの遅れ」の意識は、「学び」に関しては非常に効率がいい。

まだ自分はそれをわかっていないと思うからこそ「学びたい」と思うわけで、その「学ぶ対象」について、自分はよく知らない。よく知らない領域のことなんだから、どの人について学べばいいのか、誰を「お手本」にすれば一番いいのか、学び始める前にそれを比較考量することは不可能である。

だから、

学び始めるためには、「なんだかわからないけど、この人についていこう」という清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だからです。そして、この予備的な考査抜きで、いきなり「清水の舞台から飛び降りる覚悟」を持つことについては、私たち日本人はどうやら例外的な才能に恵まれている。 (P128)

わ~い、褒められちゃいましたよ♪

blogや『街場の教育論』で何度も語られているように、「学び」というのは「これを学べばこんないいことがある。だから自分はこれを学ぶ」というものではないのです。

「学ぼう」と思ったこととは全然違う何かを学んでしまっていることもよくあるし、単純な「入力」と「出力」の関係ではない。

努力と報酬の間に相関があることが確実に予見させらるることは武士道に反する、そう言っているのです。 (P135)

誰が言っているかというと、新渡戸稲造です。

努力を始める前に、その報酬についての一覧的開示を要求しないこと。こういう努力をしたら、その引き換えに、どういう「いいこと」があるのですかと訊ねないこと。これは(中略)、「学び」の基本です。 (P136)

なんだかまた、耳が痛いですが。

ちょっとすっ飛ばして、3章:「機」の思想に行きます。

3章は武道や宗教の話が出てきて、大変興味深かった。

日本人は「主体性がない」とよく悪口を言われますが、しかしその「主体性のない」ことがいい方向に向いている部分。

武道的な働きにおいては、入力と出力との間に隙があってはいけない。隙がないというのは、ほんとうは「進入経路がない」とか「進入を許すだけの時間がない」ということではなくて、そこに自他の対立関係がない、敵がいないということです。 (P173)

私は武道のたしなみはないんだけども、もう丸7年通っている「整体ヨガ教室」で似たようなことを教わっています。

私の師事している先生は正統的なヨガ以外にも色々なメソッドを取り入れていらして、中に「気のマッサージ」というのがあります。

一人でもできるし、二人一組でやることも多い。

二人一組で、片方が片方からマッサージを受けるんですが、マッサージする方は「してやる」とか「がんばる」とか思わない方がいい、と言われるのです。

「がんばってマッサージする」と思うと、相手との距離がどんどん離れていく。自分も力入りすぎて疲れるし、マッサージを受けている方も気持ちよくない。

自他の境界をとっぱらって、触れているのは自分の肌だというぐらいの気持ちでやりなさい。その方がお互い気持ちよく、マッサージしている方の体もほぐれる、と。

先日も全員が一列に並び、互いの腰に手を当てて「エイトロール」という動きをしたのですが、「一匹の蛇になったように。ばらばらの生き物ではなく、一つの多細胞生物になったように」とおっしゃられていました。

「自分が自分が」という「主体」は、身体操作においては往々にして邪魔になるのです。

私は35歳過ぎてやっと逆上がりができるようになったのですが、あれはたぶんヨガのお蔭で、頭で体を動かそうとしていたのが、体に任せられるようになったからでは、と思ってます。

閑話休題。

「機」というのは時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する時間のとらえ方です。どちらが先手でどちらが後手か、どちらが能動者でどちらが受動者か、どちらが創造者でどちらが祖述者か、そういったすべての二項対立を「機」は消失してしまう。 (P188)

「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。 (P197)

「これを学んだらこんないいことがあるよ」と目の前に人参をぶら下げられなければ学ぶ気にならないとしたら、それは「学ぶ力」の劣化であり、おそらく現代日本の一番の危機は、大人も子どもも全部含めた「学ぶ力の劣化」であろう、と。

ああ、本当に、耳が痛いですねぇ。

すでにたくさん引用してしまったので、最後の章「辺境人は日本語とともに」の部分ははしょりますが、ここももちろん楽しかったです。(内容は先日の対談とかなりかぶっているのでよかったらこちらを)

ところで。

途中に出てきた「起源からの遅れ」。この考えは、この間の『私家版・ユダヤ文化論』にも登場していました。

本書の中でも「西洋の人はこんな時間感覚を持たない(ユダヤ人を除いて)」というふうに書かれています。

言語の章でも「ユダヤ人を除いて」と書かれているところがあって、「日猶同祖論」はあながち暴論ではなかったのか、という気がしてしまいます。

内田センセ自身、あとがきのところに

この本のタイトルは『私家版・日本文化論』でもよかったわけです。『私家版・ユダヤ文化論』を書いた後にこの本が書きたくなったということは、少なくとも私の中では何かが繋がっているんでしょう。 (P251)

と書かれています。

いやぁ、タイムリーだったな、私。

この本を読む前にばっちり『私家版・ユダヤ文化論』を読んでるって、すごい「先駆的に知る力」じゃないですか?(笑)

内田センセの巧妙な販促戦略(養老センセとの対談をセッティングすれば、単純な読者は『逆立ち日本論』を読み、そしてそこから『私家版』へと行き、めでたく『日本辺境論』を手にする)に引っかかっただけかもしれませんが。

でも内田センセが橋本治さんと繋がっていたり、名越センセと接点があったり、知らずに「繋がった人」を自分の嗅覚でちゃんと探り当ててるわけですから、私の「学ぶ力」もそう捨てたもんではないと思います(笑)。

そう思っていれば人生幸せだし♪

「先駆的に知っている」っていうのは裏を返せば「後から“これで良かった!”と思える」ということでもあるわけですからね。

選択した時には定かでなかった根拠を、「良かった!」と思う未来が後付けで保証してくれる。この思い込みも一つの能力でしょう。