昨夜のNHK『追跡!A to Z』のテーマは「問われる日本人の“言語力”」。なかなか興味深い内容だった。

でも、45分と短いこともあってか、複数の問題がごっちゃにされて、今ひとつ説得力が足りないというか、舌足らずというか、内容がねじれてるようにも感じた。

いきなりサッカーの話から始まって、オシムさんとか出てきたんだけど、「フィールドで自分の意志を表現しない」という問題が一つ。

そしてもう一つは、「営業報告書がまともに書けない若手社員」とかの問題。

番組のサイトでは「話し言葉をそのまま作文に書く中学生」なんてのも例に取り上げられていて、

原因として考えられているのは、携帯メールの普及などで社会全体の会話量が減り、論理的に話す訓練が足りないことや、センター入試の影響で「書く」「話す」ことが教育現場で軽視されたことなどが指摘されている。

なんてふうに書かれているんだけど。

この文章も微妙に“言語力”足りなくね?(笑)

「携帯メールの普及」がもたらしたものは「顔をつきあわせての会話量が減った」こと以上に、「仲間内だけの言葉のやりとり」で済むようになってしまったことだと思う。

基本的にケータイメールというのは「仲間内の間で交わされるもの」でしょ? お互いの背景や「その場の状況」とかを共有している間柄で、色々わかっていることを前提に交わされるから、いちいち長い文章で説明する必要がない。「だよね?」「だよだよ」というような会話が延々と続いたりする。

ケータイメールは「文字」を使ってはいるけど、特に女子中学生とかにとっては、あれはまったく「書き言葉」じゃないもんね。「話し言葉」の一種。「文章」ではない。

ケータイの登場で、電話も「個人対個人」になって、「○○さんのお宅ですか?××ですけど、△△さんはいらっしゃいますか?」という言葉遣いをする必要がなくなった。

電話の向こうにいるのはよく知った「仲間内」だとわかっているし、向こうのケータイにも自分の名前が出ていることは予想されているから、「あ、オレだけど」で済む。

電話というものが「一家に一台」だった時代には、電話を取るのが自分の話しかけたい相手である保証はない。むしろ「知らないおじさんやおばさん」である可能性が大で、だからこそ「○○さんのお宅ですか?」という「社会的な言葉遣い」が必要だった。

ママ友さんに聞いた話だけど、そこの中学生の女の子はまだケータイを持たせてもらっていなくて、友達からの電話が「家電」にかかってくる。相手が誰かを確認せずいきなり「あ、A子?」と話しかけてくる子が多いそうだ。

ケータイのアドレス帳からかけていれば、その電話が「ケータイ」なのか「家電」なのかは意識しないし、ほとんどの友達が「ケータイ」なのなら、「○○さんのお宅ですか?」という言葉はそりゃ出なくなってしまうだろう。

敬語云々の前に、そもそも「仲間内以外の人間と会話する機会」というのが、たぶん今の子ども達にはほとんどない。先生にだってため口だし、かえって先生の方が生徒に丁寧な言葉遣いをしていたりするぐらいだ。

会社入って電話応対を覚えるの、大変じゃないかなぁ。

前に「書き言葉で個的になれない」とか「書き言葉は内省言語」という記事を書いたけど、「個的な話し言葉」ばかりで生活が事足りてしまうために、「社会的な言語能力」が低下してしまったのではないかな。

で、その記事にも書いてるけど、教育の中で「ディベート」とか「オラルコミュニケーション」とかをもてはやすのは、逆だと思うんだ。

日本語は「読み書き」がしっかりできないと、「言葉の達人」になれないと思う。

昨日のテレビを見ていて、「それって“言語力”がどーこーじゃなくて、そもそも“思考力”が足りないってことじゃ」と思う事例があったんだけど、「思考力」を鍛えるためには「読み書き」が――「書き言葉」が必要なんだよ。

「考える」ためには「言葉」が必要で、もやもやとはっきりしない「感情」「思い」を整理し、まとめるためには、「書く」という訓練がいる。

慣れれば、「考えている」ことをそのまま「書き言葉」ですらすら「しゃべる」ってこともできるようになるのかもしれないけど、いきなり「考え」を「わかりやすいまとまった文章で口から発する」というのは非常に難しい。
 

「書き言葉」によって「考える」訓練が足りないということと、必要な場面で「その考えをしっかり口に出して伝えられない」というのは、少しレベルの違う問題じゃないかと思うんだよね。

「意思表示ができない」という問題の中には、「そもそも考えてないから答えられない=言葉で表現できない」という部分と、「考えはあるけれども、口に出すことに慣れてない」という部分と、二つの側面がある。

日本では「空気を読む」「察する」ということが重視されて、自分の意見を声高に主張する人間は疎まれる傾向にある。

「考え」があって、その気になれば言葉で表現することのできる人でも、実際にそれを「口に出せる場」は、そうはなかったりする。

「思考力」そのものの劣化と、「コミュニケーションが下手」というのとは、話が別。

ある意味日本人の「仲間内でのコミュニケーション」はめちゃくちゃ高度でしょ。言葉にしなくても「わかる」。「空気が読める」。

「空気を共有していない相手」とのコミュニケーションが下手なだけやもん(笑)。

日本人には昔からその傾向が強いんだろうけど、たぶん今はさらにその「仲間内だけ度」が進んで、「仲間内の範囲」が狭くなってる。昔だったら「同じ会社で働いてる」は「仲間内」だったろう。でも今はそれが「共通の基盤」にはならないから、新入社員と先輩社員の会話はかみ合わないし、報告書も何をどう報告したらいいのかわからなくなる。


日本語はそもそも論理的じゃないとか、「英語」での「聞く話す」を鍛えることで日本人の「ディベート下手」も治るんじゃないかという意見も聞くけど、私はそれは違うと思う。

確かに日本語の「話し言葉」と「書き言葉」の乖離には問題の一端がある気はするけど、でも英語を母語とする人だって、全員が全員「論理的に主張できる」わけじゃないと思う。

みんながみんなオバマ大統領のようなスピーチができるわけじゃないでしょ?

日本人に比べればみんな自己主張が激しいだろうけど、単に「自己主張が激しい」のと、「自分の意志・考えをわかりやすくしっかりと相手に伝えることができる」のとは違う。

「言語の特性」というものはそれはもちろんあるだろうけど、「日本語だと論理的に考えられない・しゃべれない」というのは日本語に対してものすごーく失礼な言いぐさだ。

「英語だと意見がはっきり言える」っていうのは、「日本語話者同士=日本人だけの狭い世界=空気読まないとダメ」ってゆー、「言語」よりも「社会」の問題だと思うなぁ。

そこで自分達の言語を貶めるってどーなのよ。
 

「読み書き」を鍛えることで「思考力」そのものを鍛えること。仲間内ではない、「外部とのコミュニケーション能力」を高めること。

二つの側面からのアプローチが必要なんだろうと思う。