内田先生がblogでオススメされていたので、図書館で借りてきた。

なるほど、内田センセや橋本治さんと同じ息遣いの、大変面白い本であった。

「同じ息遣い」というのは、「これが正解です」というようなことを言わないということであり、むしろ「正解というものはない」「それぞれが自分の頭で考えるしかない」というスタンスであり、また、根本のところで「人間」というものを信じている、「人間に対する愛情」のようなものが感じられることである。

橋本さんの本や内田センセの本を読んでいると、別に「感動の超大作」というのではない「評論」であるのに、なんだかぐっと胸が詰まって、うるうるしてしまう。

この本も、最後が「秋葉原通り魔事件」に触れた文章だったこともあって、人間とか社会に対する平川さんの「真摯さ」に、「うっ」となってしまった。

平川さんの真摯さは、序章のタイトル『私たちもまた加担者であった』からも窺える。

社会を批評する時に、「客観的」に社会を見つめることは必要であろうけれども、「自分もまたその社会の一員であり、社会で起きている問題には自分にも何らかの関係・責任がある」という前提は、きっと一番大切なことだろう。

「安全な外部」から他人事として「社会」を批判するのは簡単なことだ。でもそうやってみんなが「外部」に逃げてしまったら、「内部」はどうなるのだろう。

私たちは、本当には「外部」には逃げられない。「社会」という「内部」は私たち自身が形作っているものなのだから。

もちろん、アメリカの大統領と日本の一般市民とでは、「社会」や「世界」に及ぼす影響はずいぶん違う。私一人が何をどうがんばったところで、世の中が変わるわけないじゃないかと、私だって思う。

けれども、アメリカ大統領一人ががんばれば、それで「社会」や「世界」が変わるような、そんな単純なものでもないはずである。

『自分もまた加担者だった』。自分もまた、「社会」に対して責任がある、と考えられることが、「大人」の条件ではないだろうか。

この本は、「経済成長至上主義」というものを軸にした、エッセイのような、評論のような文章を1冊にまとめたものであり、「何か具体的な解決策を示すために企図されたものでもない」と「まえがき」に書かれている。

「あとがき」のところにも、「なんだ、具体的な結論も、処方箋もないじゃないかと言われれば、すみませんと頭を下げるしかない」という文言がある。

「わかりやすい正解なんかない」

「自分の頭で考えるしかない」

橋本さんや内田センセに共通する態度。

「知性」というのは、手っ取り早い答えに飛びつかずに、いかに「答えがない」ということに耐えられるかという、ある意味「耐性」のようなものなのかもしれない。

橋本さんの本に『わからないという方法』というものがあったけれども、「知性」には、「わからない」ことを「考え続けられる体力」が必要なのだ。

「私の体は頭がいい」ならぬ、「私の頭は体力がある」。

「答え」の欲しい人は、この本を読んでもつまらないだろう。


内田センセのblogでも引用されて、そこに共感したからこそ読もうと思った部分、「金融ビジネスは博打と同じ」

問題はこの玄人の世界に素人がなだれ込んで行ったということであり、同時に玄人だと思っていた連中が、素人同然の覚悟しか持っていなかったということである。

いや、まったくホントにね。

株や土地を「転がして」儲ける、なんていうのは素人のやることじゃないもの。そもそも本来それで「儲かる」ってのはおかしいよね。「金を売って金を得る」ってゆーのは。

商品とかサービスとかなしに、「帳簿の付け替え」的なところで金儲けが成立するっていうのは。

むしろ、賭場に出入りする素人の側が、時代に阿諛追従することのない素人の価値観を取り戻すべきだということである。素人の価値観とは、端的に金よりも大切なことはいくらでもあり、同時に人は金で躓くものだという常識の上に作られているものである。

数千億円を右から左へ動かす仕事が与える社会的な意義や、興奮というものがどれほどの吸引力と強度を持っていようが、それとくらべて、明日の食卓や、隣近所との関係や、自身の生活上の困難について思い巡らすことの大切さはまったく見劣りするものではないと思えることである。

“まっとうな素人”であるということは、大切なことなのだ。

右肩上がりの経済成長、「消費こそが自分のアイデンティティを作る」という風潮によって、まっとうな素人の常識というものはだんだんに壊れていった。

楽して金儲けする連中がいる一方で、自分だけがそれをしないで“損をする”のは馬鹿馬鹿しいし、「消費する」ことによってしかアイデンティティを確かめられないのなら、その消費の原資として手っ取り早くお金がいる。

経済を成長させるために「効率」とか「合理的」とかいう言葉がもてはやされて、だんだんと、素人も「効率よく金を儲ける」ことに価値を置くようになっていく。

「資本主義とは借金主義である」という記事を前に書いたけれども、橋本治さんはもうかなり以前に、『ぼくらの資本論』のシリーズ等で、「こーゆーふうに資本主義でイケイケドンドンで右肩上がりしてきたけど、こんなのいつまでも保たないよね?」っておっしゃっている。

昭和が終わったところで、橋本さんはもう「これで終わる!」って思った方ではあるし。

昭和が終わって、でもバブルは続いて、「その儲けはあぶく銭だった」ということがはっきりするまでにはもうちょっと時間がかかったのだけど、それは「目に見える効果が出るまでのタイムラグ」に過ぎなくて、やっぱり「昭和」とともに、「イケイケドンドン」は終わってしまっていたんだろう。

経済がずっと成長し続ける、ずっと右肩上がりであり続けるなんて、ありえないもの。

膨張し続ける宇宙だって、最後には一気に収縮して「無」になるのではないか、と言われている。

あるレベルの商品が普及したら、あとは買い換え需要を喚起するために、いるんだかいらなないんだかわからない「新機能」を付加して、無理矢理「買わせる」しかない。

世界にはまだ、その商品が普及していない地域がたくさんあるとしても、「イケイケドンドン」で買わせていったら、いずれは普及してしまう。全世界に行き渡ってしまったら、その商品にはもう「買い換え需要」しかない。「爆発的なヒット商品」というものは、普及してしまった時点でもう「売れ筋」にはなりえない。

それこそこの間のオーブンレンジ騒動じゃないけど、「ないならないで済む」ような機能を付けていくことでしか、もう「新商品」を提供できないところまで、物は溢れてしまっている。

今より性能のよい車が欲しいから車を買い替えるのではなく、新車があるから今の車がみすぼらしく見えるのである。高度資本主義時代のマーケティング技術は、ニーズを満たすものをつくることではなく、ニーズそのものを作り出すことへと傾斜していった。

ずっとこのままで行けるわけないよね。

そんなふうにしてずっと新たな欲望を発見し、かきたてていかなければやっていけないシステムなんて。

平川さんは最後の「本末転倒の未来図」という章で、「人口減少も悪くはない」ということをおっしゃっている。

経済のマイナス成長も、少子高齢化による人口減少も、「経済成長による発展」のもたらした「結果」であり、「身の丈にあった適正規模」へと回帰していくプロセスに入っただけなのだ。

人が成長し、やがては老いて死んでいく、その様と同じに、ある一つの社会システムも、ずっと「成長し続ける」というわけにはいかない。

若返ることばかりを願うのではなくて、「老い」を受け容れ、「老いたなりの充実」というものを図ることこそが、今やらなければならないことではないだろうか。

最後の章に置かれた、「時間」というものに対する平川さんの言は、本当に「ぐっ」と来る。「年を取るのも悪くない」と最近は思えるようになったけれど、こういう言葉を噛みしめられるようになったことは、本当に「年の功」だなぁ、と思う。

あえてその部分の引用はしない。

ぜひ、ご自分で手に取って、それぞれに考えてみてください。