『経済成長という病』を読んでいる最中に、「クローズアップ現代」で「褒めビジネス」の話を見て、その翌朝のニュースでは、「占いがはやっている」というのを見た。

「占い」というより、完全にただの人生相談というか、「心が軽くなる魔法の言葉」的なものだったんだけど、まぁ「占い」ってもともとそーゆーものなのかな。

何か迷いがあるから人は「占い」に頼るのだろうし、ビジネスとして「占い」をやってる人は、たとえ悪い目が出てたとしても「もうあなたの人生は終わりです」とか言わないだろうしなぁ。

人気のある占い師さんっていうのは、ちゃんと「お客さんが言ってもらいたい言葉」を言っているんだろう。

占ってもらったことないから、実情はよく知らないけど。

「褒めビジネス」の方では、「子どもをうまく褒めるためのワークショップ」とか、「職場で部下を褒める訓練をする」とか、「覆面調査で従業員を褒める商売」とか出てきて、「なんだかなぁ」って思った。

もちろん誰だって褒められれば嬉しいけど、でもわざわざ「褒める訓練をする」とか、「従業員にやりがいを持たせるためにわざわざ“褒めビジネス”を利用する」とか、ちょっと気味が悪いってゆーか。

クローズアップ現代では小朝さんがゲストに来てて、「すぐに被害者になりたがる」とか、「周りを知るよりも先にとにかく自分を知ってもらいたがる」とかって今の風潮を分析してて、「なるほどその通りだな」って思った。

自我の肥大。

自分探しとか「自己実現」とかいう「自分の物語」ばかり氾濫して、もっと大きな、過去や未来、あるいは他者とつながっていく「物語」が欠如している。

毎日新聞に載っていた釈徹宗さんのお話の中に、そういう意味合いのことが書いてあった。

これも、すごくなるほど。

褒められたい人、「誰も褒めてくれないと歎く人」が増えてるのって、一つには、「支払いと代価」の考えがあまりにも浸透してしまったことに原因があるんじゃないだろうか。

努力したのに、結果が得られないと「損した」気分になる。

「努力」という「支払い」に対して、外部から何の「代価」も返ってこないと、「努力」をする気が失せる。

もちろん、そういうことって昔からずっと人間は感じてきたろうし、「報われない努力」というのはホントに哀しいもんだけど、ただ、「努力」の「結果」って「すぐ」には現れないことも多くて、また、その「努力」が必ずしも社会的な成功と結びついたり、他人の評価を得られるものでなかったりすること、「目に見える結果」を生み出さないことは多々ある、ってことも、ある程度わきまえていたと思う。

でも、「それじゃ損だ」って考え方。

落ちてる消しゴムを拾うことさえ、それが自分のものでなければ「そんなことするの損じゃん」って思う子どもがいる。

自分の行為・努力に対して、すぐに目に見える対価が与えられること。

等価交換とか、「無時間モデル」とかいう消費資本主義の考えが、あらゆる行動に適用されるようになったというか。

ずいぶん前、どこかイスラム圏の国で、寺院を建てるのにえんえんと煉瓦を積む職人の話を見た。

何十年どころか何百年かかって作ってるっていう話。

今煉瓦を積んでいる職人は、生きている間に寺院の完成を見ることがない。もしかしたら、彼の死後、その仕事はもう続けられることなく、彼のなしたことは無駄に終わるかもしれない。

「完成」というゴールを自分の目で見ることができなくても、それでも彼は自分の仕事に誇りを持って、地道に煉瓦を積み続ける。彼がそれをしなければ、「遠い未来の完成」もありえないから。

そいういう「時間の感覚」って、持てなくなってきているよね。

過去から未来へと連綿と続く中で、「自分」だけでは決して終わらない「物語」。

すぐに「結果」が出なくても、生きているうちに「結果」を目にすることができなくても、自分が今なしていることに誇りを持てるということ。


そういう矜持って、どうやったら育まれるんだろう。

ただの「自己満足」に終わらない、「なすべきことをなした」という充実感。

そりゃあ私だって褒められたいし、blogへのアクセスが多いと嬉しいし、自分の書いたものを評価してもらいたくてうずうずしてはいるんだけど……。

誰にも読んでもらえなくても書き続けるのは、これは「矜持」と言っていいのかな。やっぱ自己満足?

好きなことなら、「評価されなくても」やり続けられる。

やらなくちゃ仕方ないことに関しては、「支払い」意識は強くなってしまうな、確かに。掃除とか掃除とか掃除とか……。