何か月か前に「買い置きの本」がなくなって、本屋さんで「どーしよーかなー。なんかないかなー」と思って買った本。

でもその後、しばらくほったらかしてました。

数学が好き♪といっても文学部卒の文系人間としては、やはり読み始めるのに気合いが要ります。

がしかし。

いざ読み始めたら面白くってすいすい読める。

どんどん頁を繰れるのです。

「0(ゼロ)」と、その対である「無限」をめぐる、人類の歴史。

哲学、宗教、天文学、最後には物理学。後半には数式も出て、話題が近現代に近づくにつれてだんだん難しくなっていくものの、それでも著者の表現は楽しくわかりやすく、素人にもとっつきやすい、大変出来のいい「読み物」に仕上がっています。

古代には哲学も数学も天文学も今みたいに細分化されていなくて、同じ一人の人が哲学者でもあり数学者でもあり、全部繋がっていたんだなぁ、と思います。

最初は物の数え方、それを記録する記号=つまりは数字の話。古代の西洋には「0」がなかったのですね。

「ないもの」を数える必要はない。

それに古代ギリシャでは数学が「幾何学」と結びついていた(というか、“そのもの”だった)から、「ゼロがどんな形でありえようか(P48)」。

また、「比」を尊ぶがために「無理数」を拒絶した。

「無理数」というのは「二つの整数の比で表せない数」のことで、「幾何学」大好きな古代ギリシャ人が崇拝していた正方形にも「対角線の長さ」という形で潜んでいたんですが、でもそんなものは存在しないかのように「秘密」とされていたのだとか。

そしてその「秘密」を暴露した人はひどい目に遭わされた……って、なんとまぁお気の毒。

小学校や中学校で習うように「0に何を掛けても0」。

そして「0で割ってはならない」。

まぁ「ないもの」で割る、っていうのは生活実感的に変だし、学校で習った時は「そんなもん」だと思ってやり過ごしたんですけども。

ゼロを掛けると、数直線が崩壊する。だが、ゼロで割ると、数学の枠組み全体が崩壊してしまう。 (P35)

ここの説明は「ああ、そういうことだったのか!」で、しかも「例」として出て来る「ウィンストン・チャーチルがニンジンだったことの証明」っていうのがまた。

「ゼロで割る」ことを認めると、数学的にあらゆることが証明できてしまう。

息子ちゃんも今この本を読んでるんですが、この「チャーチルはニンジンである」という証明がいたくツボだったようで、「であるからして僕もニンジンでありチャーチルである」とどんどんテキトーな証明をでっち上げて喜んでます。

「ゼロで割る」ってこんなに大変なことだったんだなぁ。

有名な「アキレスと亀」のゼノンのパラドクス、コペルニクスにケプラー、デカルトやパスカル、トリチェッリなどなど、「ゼロをめぐる旅」はそのまま「科学の旅」になって、バラバラにただ公式として覚えていたような事柄が一つの軸で繋がり、「全体の中でどういう意味を持っていたのか」がわかる。

「面白いなぁ、わくわく♪」とどんどん読み進んでいたんだけど、微積分が出てきたあたりから……(笑)。

いや、まだ微積分はいいんだ、その後「アキレスと亀」を解決するために出てきた「極限」!

REBORN!の晴れの守護者しか思い浮かばない!!!(爆)。

うーん、「極限」って「lim」だよね? なんとなく覚えてるけど、でも「極限」の考えでアキレスが亀を追い抜けるっていうのはなんかうまく騙されてるような……。

(↑ここの話、間違ってますね。「微分」と「極限」の考えは同じもの…というか、家にあった参考書の「微分法」のしょっぱなが「極限」でした。私は何を考えて「微積分はまだいいんだ、でも極限がわからん」と書いたんでしょう。極限にわかっとらん!(笑))

虚数も出て来るし、相対性理論に最後はひも理論。

『宇宙を織りなすもの』でお勉強したことの復習です。

“さわり”だけとはいえ、やっぱり難しい。

でも面白い。

まだまだ解き明かされないこの世界の秘密。その背後にある「ゼロ」。

いつか人は「ゼロ」の謎を解き明かし、世界の秘密を白日のもとにさらすのでしょうか。「知りたい」という知的好奇心と、「わからないからこそいい」という想いと―――。

とりあえず「極限」とか「虚数」とか、ちょっとおさらいしてみようかなぁ。「そういうことだったのか!」というのが今ならわかる……かも!?