内田センセの「街場」シリーズを読むのはこれで4冊目でしょうか。

もちろん面白かったです。

「中国」について語っているんだけど、そこから逆に「日本」が見えてくる感じがしました。

よくも悪くも日本と中国は密接な、切っても切れない関係にあるんでしょうね。

これの前に読んだ「街場」シリーズは「街場のアメリカ論」だったけど、アメリカと日本の付き合いより、中国と日本の付き合いの方が断然長いわけだから、まぁ当たり前といえば当たり前なんだろうけど。

「アメリカ論」の時に確か「アメリカについては何言ったって大丈夫という気楽さがある」と内田センセが書いてらしたと思うんだけど、逆に中国に関しては「何を言っても油断できない」ような、気を遣う部分があるような。

こちらが何か言及したことに対して中国の人から批判が来るのはもちろん、日本国内からあーだこーだ言われる気がしますよね、なんか。

アメリカを褒めそやそうがけなそうが、それについて他の日本人から目くじら立てられるってことは、まぁ、全然ないこともないんでしょうけど、中国を褒めたりけなしたりすることに対しての反応よりはお気楽な感じがする。

この本の一番最初に「双子のナショナリスト」という言葉が出てきて、中国国内のナショナリストと日本国内のナショナリストは「合わせ鏡」のようで、「同じ種族のように思える」と内田センセは書いてらっしゃいます。

日中に限らず「ナショナリスト」というのはきっと同じような傾向を持った人達なんだろうけど、中国の人が日本を嫌悪する理由と、日本人が中国を嫌悪する理由は特に「合わせ鏡」なのではないかなぁ、と。

「どちらがアジアの盟主になるか」みたいなところとか、やっぱり何千年という長さの付き合いで育まれた、互いに対する思いとか。

中国にしてみれば、ずっと自分が「中華」で、日本なんか周縁の小さな国で、貢ぎ物持ってくる「配下の国」だったのに、近代に入っていきなりその小国に侵略されて。

欧米列強がアジアを食い物にした時、同じアジアの一員であるはずの国が「脱亜入欧」を掲げて同じように食い物にしようと入ってきたわけで、なまじ「同じような顔した近い人種」だけによけいムカツクわなぁ、って。

近代の中国に悪いことしたのは別に日本だけじゃないけど、日本の悪事だけが繰り返し思い出されてしまうのも、まぁわからないことはない。

「抗日統一戦線だけが唯一の成功体験」であるということや、中国の統治者にとって「日本」をダシにすることが有効なツールの一つであるということ。

日本がめちゃくちゃ謝って、戦争にまつわる日中の「あれこれ」が片付いてしまうと、実は中国のトップは困ってしまうのかもしれない……。

日中が仲良くなって一番困るのはアメリカだろう、って内田センセは書いておられるけど。

日本はずっと「中華思想」の周縁にいたから、中国かアメリカかどっちかを「中華」にして、そこに従属というか、「そこをお手本に追いつき追い越せする」みたいにしないといられない、みたいな話も出てきた。

親米の人は反中、反米の人は親中、という傾向が確かに強い気はするよね。

本当は、どっちとも冷静に、したたかに、うまく付き合っていかなきゃいけないと思うんだけど、「二者択一」になってしまっているようなところがある。

アメリカの東アジア戦略(戦争にならない程度に日中韓の距離を遠ざけておく)にまんまと乗せられているということもあるんだろうし。

そして、アメリカによる東アジア共同体の切り崩しの切り札は、情けないことに日本なんです。東アジア共同体「儒教圏」構想における日本にとって最悪の(そしてかなり蓋然性の高い)シナリオは、ここから日本だけが脱落するというパターンです。 (P66)

いやー、なんともねー。ありがちだなー。

「東アジア共同体に入れない」ことと、「アメリカから離れる」ことと、どっちがより日本の国益にかなっているのか、私にはわからないけれども。

うーん、それがまたやっぱり「アメリカにつくか中国(アジア)につくかの二者択一」になっちゃうところがなー。

全部いっぺんに仲良くするのって、やっぱり無理なのかしら。

なんでアメリカはアジアをほっといてくれないの……って、そりゃアメリカさんは「世界に冠たるアメリカ」としてアジアに発言権・介入権を持ち続けたいんでしょうけど……なんかねぇ。

最後の方に、「政治がわかりやすくなっても国益は増大しない」という言葉が出て来ます。

僕たちがもう少し配慮しなければいけないのは、「どっちつかず」がリスク・ヘッジのひとつのかたちだということです。「白黒をはっきりさせない」ことから「白黒をはっきりさせる」ことよりも多くの外交的ベネフィットが得られるなら、そのほうが外交政策として上等であるということです。 (P188)

いや、ほんま、そーやろーな。

外交に限らず、最近は白か黒か、○か×か、ホントに二者択一で、なんか「悪い」となるとどどどーっとバッシングの嵐になったり、「いや、それはわかるけど、でもこーゆー可能性とか、あーゆー話なんかもあるし、一概には……」という「どっちつかずの態度」を取ることが許されないところがあるでしょう。

メディアもすぐに断言するし。

世の中のことはそうそうすっぱりきっぱり割り切れるもんでもないはずなのに……。

あと、「国民国家というもの自体がかなりの部分まで幻想的なものなわけですから」という指摘。

この本では中国の「中華思想」についての考察もなされていて、「中華思想はナショナリズムとは違う」とか、「中華思想、“王化戦略”にとっては国境を画定しないことが重要」という話が出てきます。

近代の「国民国家」が「国家」のあり方のすべてではない。

たぶん日本人も「国境線」ということが……地続きなのに「そっから向こうは別の国」という考えが、今ひとつピンとこないのではないかと思うんだけど……少なくとも私は、あんまりピンと来なかったりするんだけど。

塩野七生さんの『ローマ人の物語』でたびたび出て来る「政治とはデリケートなフィクション」と同じに、「国家」というのもある種のファンタジー。「国家」が「政治」抜きに成立しない以上、「国家」もまたフィクション。

「天命を革める=革命思想」を持つ中国と日本の違い、というのは橋本治さんの『双調平家物語』にも出て来る。前の王朝が完全に倒される中国と、「ファンタジー」ではあっても「万世一系の天皇」がずっと続く日本。日本の「逆臣」「佞臣」なんて、中国のそれと比べたら全然可愛いもんだよ、みたいな。

本家の「平家物語」で列挙される中国の奸臣達と清盛を一緒にしちゃ可哀想だろ、っていう文脈。

本当に、「国」を成り立たせる「思想」が違うんだよなぁ。もちろんそれは日本と中国に限らず、他の国々や民族それぞれに色々な「思想」があるんだろうけれど。

内田センセは日本の幕藩体制の素晴らしさとか、日本の文化の高さ、個人的な信頼関係が日本を植民地化の危機から救った、ということについても言及されてる。

一方で、

これははっきり確認しておきましょう。僕たち日本人はそこに立ち戻ると、政治的立場を超えて、年齢性別を超えて、階級出自を超えて、国民的統合を実感できるような歴史的出来事を持っていない。 (P146)

……「日本」って、なんとなく「日本」なんだよね……。

やっぱり「島国」で、「海」が自然の国境線のようになってて、他国に攻め入られたことも近代以前には「元寇」ぐらいしかなくて。

「この国に“国”はあるのか」と橋本さんの『双調平家物語』で中大兄皇子は言うわけだけど、その後「律令国家」になっても「国の形」は微妙というか……。中央の威光は実際問題どれだけ届いていたんだろう、というね。地方の民衆にとって中央や天皇はどれほどの存在だったのか、一つのまとまった「国」という意識ってどれくらいあったのか。

だからこその「万世一系の天皇」というファンタジーか、とも思うけど。

歴史的事実と現在の国民感情の間に一対一の相関関係があるという前提は立たないと僕は思います。さまざまな歴史的事実がある中で、記憶すべきものとして選択されるものと、されないものがある。 (P41)

他の国の人もそうなんだろうし、自分達日本人もやっぱり「記憶すべきもの」と「忘れるもの」とを選別している。

人は、見たいものしか見ない生き物。

「国家」がファンタジーなら、「国家」と「国家」の関係はファンタジーとファンタジーの関係になるわけで……。

うーん。

今回も色々なことを考えさせてもらいました。

考えることがあまりに多くありすぎて、さっぱりまとまりのない感想になってしまいましたが(汗)。

あと、ちらっと「眠狂四郎」の名前が出てくるんですよ♪

鎖国をする前の、戦国時代の日本は風通しがよくて、南蛮人はどんどん入ってきていたし、その宗教や文化を受け入れる日本人もたくさんいて、だから「眠狂四郎」のような日本人とイエズス会士との間にできた子ども、というのもそんなに例外的な存在じゃなかっただろう、と。

日本とヨーロッパの混淆は、今の私達が考えるよりずっと早く、深く進行していた。

もしも「鎖国」しなかったら、その後日本はどんな国になっていたんでしょうね……。