先日、ひゅうがによって『街場のゲゲゲ論』であることが喝破された(笑)内田センセの最新作。

新書で置き場も取らず、777円という大変ラッキーでリーズナブルな価格設定、買って読も♪と思っていたのに一向に近所の書店に並ばない。諦めてAmazonで買うか、と思ったら図書館に入っていたので借りて読みました。

図書館のが入荷早いってどゆこと?

発売日に並べてくれれば書店で買うのに、並んでないんだもんな。それで「本が売れない。書店が潰れる」って言われても。

と、相変わらず前置き長いですが、この本は「メディア論」で、出版や読書についてもかなり大きくページを割かれていますから、「最寄りの書店で発売日に新刊を買えない状況」というのは、あながち「よけいな話」でもないのです。

『街場』シリーズも4冊目(『アメリカ論』『中国論』『教育論』『現代思想』はシリーズのうちには入らないらしい)。今回もその熱い語り口にうるうるしてしまいました。ほんとにこう、喉の奥に熱い塊がこみ上げてくるのよねぇ。

【第1講:キャリアは他人のためのもの】

なんで「メディア論」に「キャリア」の話がいきなり出てくるかというと、この本のもとになった神戸女学院の「メディアと知」という授業が「キャリア教育プログラム」の一環として開講されていたからだそうです。

私が学生だったン年前には「キャリア教育」なんてものは少なくともうちの学校ではやっていなかったのではないかと。最近は小・中学校から「将来の仕事」について考えさせる教育をしなければ、って話も出てますよね。

就職難だし、やっと就職してもすぐに離職する若者も多いということで(…すいません、3年で離職しました…)。

小さいうちは「プロ野球選手になる」とか「アイドル歌手になる」とかいうのんびりした野望を持って、漠然と「明るい未来」を想像して楽しくすごすのがいいと思うんですけどね。

まぁ今は、そーゆー野望を持つ子も少なくて、「一体俺たちが大きくなる頃には世の中どうなっちゃってんだろう…」と漠然と「暗い未来」を想像して「とりあえず今のうちに遊んでおこう」と考える子の方が多いのかもしれない。

こんだけニュースで「景気悪い」「仕事がない」「日本ヤバい」って連呼されたら、明るい未来を想像しろって方がねぇ。

で、このキャリア教育のところに出てくるのが、前の記事でも引用した「結婚は入れ歯と同じ」という話。

与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させること。それがキャリア教育のめざす目標だと僕は考えています。 (P21)

結婚でも就職でも、どんな場合でも同じ。“与えられた条件のもとでできる限りのことをする”。「ありあわせのもので工夫して間に合わせる=ブリコルール」という話は、一番最後の第8講にも出てきます。

「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。 (P30)

もうこの第1講だけで泣きそうです、内田センセ。

ってゆーか、誰か私を呼んでください(笑)。いや、でも、あれですね。「呼ばれたい」と思ってる方面からは呼ばれない、というだけの話で(それが一番哀しいけど)、「妻」だったり「母」だったり「娘」だったりするのも「他者」あっての「役割」、その呼び声に応じて多少は料理もできるようになったし、内田センセじゃないけど「まさか自分にこんな母性愛があるなんて思わなかった」という親バカちゃんになっておりますし。

PTA役員とかはなー、呼んでくれなくていいんだけどなー。

「ここは私のいるべき場所じゃない」「世が世なら…」なんてことを言ってても始まらない、ってことは、残念ながらわかってしまった。私も大人になったぜ、ふっ。(←無視してください)

【第2講:マスメディアの嘘と演技】

ここから、やっと「メディア論」です。

テレビや新聞の劣化。テレビの劣化を報道・批判しない新聞。

テレビのやらせ問題が発覚した時に、新聞が「そんなことするなんて信じられない」と書いたことを、内田センセは厳しく批判します。

テレビが「そういうことをしている」のを新聞記者なら知っていて当然だからです。 (P55)

ここ読んでて私の脳裡に思い浮かんだのはそう、相撲界の野球賭博問題。新聞もテレビも「相撲界はどうなってるんだ!」とバッシングの嵐でしたが(そしてそれはまだ「改革は進んでいるのか?体質を変えられるのか」という視点で続いてます)、お相撲さんと「その筋の人」の間に親交があることくらい、素人でも知ってるじゃないですか。

「お相撲さん」には「タニマチ」というご贔屓筋がいて、その中には「その筋の方、その筋に近い方」もいる。国技館での場所はともかく地方場所や巡業は「興行」で、お相撲さんは「男芸者」などとも呼ばれている……。

だからクスリやっていいとか、博奕していい、って話にはもちろんならないけど、「そーゆー古い体質」をメディアの記者さん達は当然知ってたろうに、「まだそんなことやってるなんて!」と「今更」叩くのはどーなのよ、と。

「知っておくべきことを知らないでいた。たいへん恥ずかしい」と言うなら、わかる。でもそうではなかった。いずれ「こんなこと」が起きるだろうと実は前から思っていたのだけれど、報道しなかった。 (P58)

メディアが好んで採用するこの「演技的無垢」は社会に広く浸透し、「クレイマー」というものを生み出した。というところで【第3講:メディアとクレイマー】

とりあえず被害者の立場を先取りしようとする人々。それがクレイマー。

その増加にマスメディアは深く関わっているし、今日の医療崩壊・教育崩壊にも重大な責任を負っていると。

大人というのは、最低限の条件として、「世の中の仕組みがわかっている」ことを要求されます。ここで言う「世の中の仕組み」というのは、市民社会の基礎的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されているという、ごくごく当たり前のことです。 (P71)

それに対して「ありがとう」と言い、自分もその一端を担わなくちゃならない、そうでなかったら「社会」というのは成り立たない。

たとえばレストランで食事をして、お会計を済ませて店を出る時に「ご馳走さまでした」って言うのって、わりと自然なことじゃないですか?

その「ご馳走」の分の代金はちゃんと払っていて、こちらは「客」で、相手は「商売」として料理を提供しているわけだけど、でもその料理が美味しくて満足できるものだったら、「美味しかった、ご馳走様」って、自然に口をついて出る。

料理の出来だけでなく、お店の雰囲気や店員さんの態度が良かったら、「ありがとう、ご馳走様」って思いますよね。

逆にひどかったら「わー、失敗した。損した」と思うわけだけど(笑)。

チェーン店のファミレスや回転寿司なんかでも、私は普通に「ご馳走様」って言ってお会計することが多い。「食べ物」に対しての感謝の気持ちもあるし、単純に「気分いい」でしょう。

相手は「商品」として「サービス」をしていて、こちらはそれに対して「お金」で「代価」を支払っているけど、「お金払ってるんだからこっちは神様だ」っていうのは違う気がする。

公共施設のトイレとか、きれいに使うよう心掛けるのはあたりまえのこと。

掃除する人は「報酬」を得て、「仕事」としてそれをやっているけれども、「こっちは汚しておまえの仕事を作ってやってるんだ」っていうのは、違いますよね。

前の人がきれいに使ってくれていたら、後で使う自分も気分がいい。そして自分もきれいに使えば、その後で使う人も気分がいいだろうし、「仕事」として掃除してくれている人だって、きっと気分がいい。

「前の人がきれいに使ってくれていた」ことを「報酬」として、「自分もきれいに使うこと」をその「代価」というふうに見なせないこともないけど、そういうのは普通に「お互い様」ってことで、社会生活を営む上でのあたりまえの「マナー」でしょう。

あまりにも世の中が「市場原理主義」に染まって、自分自身を「社会人」であるよりも「消費者」であると規定する人が増えた結果、自分はマナーを守らない上にすぐ「損した!」と文句を言うクレイマーが増えてしまった。

【第4講:「正義」の暴走】でも、「社会関係はすべからく商取引モデルに基づいて構想されるべき」という考え方が問題だ、という話が出てきます。

医療や教育といった「公共財」「社会資本」に対しても、「市場経済」の考え方、「サービス」と「消費者」という枠組みでしか考えられなくなっている。

『街場の教育論』でも「教育を破壊しているのは“消費スキーム”だ」ということが言われていました。

教育を受ける子ども達が、自分を「教育サービスを買う消費者」と位置づけてしまえば、「少しの努力で多くの対価を得ようとする」のは当たり前で、結果「勉強しなくなる」。勉強せずに「いい学歴」を手に入れる方が、刻苦勉励して手にするそれよりも自慢になる。「いい物を安く手に入れる」というのが、「消費者」としては賢いあり方だから。

そしてまた、市場原理というのは「競争させれば安くていいものが生き残る」という考え方であり、教育や医療に対しても、「もっといいサービスを安く提供しろ!」と言って競争させることを是とする。

少なくとも自分自身を振り返ってみれば、「他人に仮借なく批判されればされるほど、知性の働きがよくなり、人格が円満になる」というようなことはありえないことくらい彼らにもわかるはずです。でも、自分には適用できないルールを他人には平気で適用する。 (P88)

ははは。ほんまにね。

病院内で患者を「患者さま」と呼ぶようにしたら医師や看護婦に対する暴言が増えて、院内規則を守らない患者が増えたそうです。「患者さま」と呼ばれることによって、「こっちは客だぞ!」意識になってしまうという人間心理もすごいけど、「患者さまと呼べ」というお達しが厚労省から来てる、っていうのがなんとも……。

第4講の最後には、メディアが発する「定型」の言葉、「個人名を持たない、生身の体から発せられていない言葉」の危険性について言及されていて、ネット上の「匿名」での発言にも話が及んでいます。

「匿名」での、「その発言に最終的に責任を取る個人がいない言葉」。

僕はそれはたいへん危険なことだと思います。攻撃的な言葉が標的にされた人を傷つけるからだけでなく、そのような言葉は、発信している人自身を損なうからです。だって、その人は「私が存在しなくなっても誰も困らない」ということを堂々と公言しているからです。「私は個体識別できない人間であり、いくらでも代替者がいる人間である」というのは、「だから、私は存在する必要のない人間である」という結論をコロラリーとして導いてしまう。 (P96)

「自分探し」をしながら、その一方で「誰でもない名無し」として発言し、自分の存在根拠をどんどん薄くしていく。

「生身の言葉を発する」覚悟が自分にあるのか…どきり。

【第5講:メディアと「変えないほうがよいもの」】

ここでも引き続き「社会的共通資本は市場原理に委ねない方がいい、なるべく変化の少ない“惰性の強い”システムに委ねた方がいい」という話がなされます。

そして、メディアはそーゆーのを嫌うという話に。

変化が起こらないと、メディアは困る。「ニュース」という言葉は「new=新しいこと」から来ているわけで、「今日も昨日と同じ、代わり映えのしない一日でした」なんていうのは「ニュース」にならない。

メディアが医療や教育をバッシングしたのも無理からぬことで、それらは「変わりにくいもの」、むしろ「あまり変わらない方がいいもの」だったからだと。

メディアの提言は要約すればただ一つです。それは医療も教育も、社会状況の変化にすぐ即応できるような制度に変えろということです。 (P116)

……ここを読んで私の脳裡にまたしても思い浮かんだのは。

もちろん相撲界へのバッシング!(笑)

古い体質を保ったまま、「変化しない」相撲界が、だからメディアは気に入らないのか。

「時代の変化」に応じて変わらなきゃいけない部分は当然相撲界にもあるけれど、でも変わってしまったら「相撲」じゃなくなる、という部分も大きい。

「変わらなきゃいけない部分」と、「変えないほうがいい部分」。

メディアは「変えないほうがいいもの」については言及しない。それらには「報道価値」がなく、「存在しないもの」「存在させてはならないもの」として扱う。

なるほどなぁ。

……6講以下、次回に続きます。