続きです。(その1はこちら

【第6講:読者はどこにいるのか】

主に新聞・テレビの話をしていた第5講から、今度は出版・書籍のお話です。

ここでも「読者は消費者である」という考えが間違ってるんだよ、ということが述べられています。

「本が売れない」「街の本屋さんがどんどんなくなっていく」。インターネットで本が買えるようになって、さらに「電子書籍」なんてものが出てきて、ケータイやなんやかや、「本」にかけるお金と時間をごっそりさらっていく「他の媒体」がいくらでもある時代。

……これって考えたら、ホントに「新聞」が売れなくなる理由とか、「テレビ」が茶の間の主役じゃなくなった理由、と同じですね。同じことが言われてる。

ネットで情報が手に入るようになって、新聞を購読する必要や、テレビのニュースを見る必要がなくなる。DVDレンタルで新作映画もすぐ見られるようになって、YouTubeなんかもあって、「テレビ番組」と競合するコンテンツ・媒体がたくさんある。

新しい技術や製品が出てきたおかげで、古いものはその地位を追われる。

もちろんそういう側面はあるのでしょうが。

活字中毒であると同時に「超テレビっ子」だった私としては、今のテレビは「なんも見るもんねぇなー」です。

お昼なんか時代劇の再放送でいいのにワイドショーとかやってるし(笑)。

夕方は「デビルマン」や「バビル2世」の再放送でいいのにニュースショーだし(爆)。

今、ちょうど改編期だから夜は3時間スペシャルとかばっかりでしょ。騒がしいだけのどーでもよさそーな番組が多いよね。しかも最近改編期長くて、「まだ今週もスペシャルなの?」って。

あれは何のためにあるんだろう。1週ぐらいはいいけど、なんで1か月もやるんだろう。前のクールのドラマが終わって、すぐ次のドラマが始まったらなんでダメなのか。

『仮面ライダー』なんてすぐ翌週から次のやつ始まるのにね(もちろん見てるわ、『オーズ』www)。

BSだってショッピング番組とか多くて、「放送するものがないんだなぁ」って思う。コンテンツがないなら無理にチャンネル増やさなくていいのに。

「本」もいたずらに「新書」が創刊されたりして、出版点数は増え、でも売り上げは減るという。

「本」の場合、一体本当に「昔の人」はそんなに本を読んでいたの?という気もするのですけどね。「昔」が「いつの時点を指すのか」ということもあるし。

「本好き」な人って、私が物心ついた時にはもう、「変わった人」と思われていたような気がするんだけどなー。

で。

内田センセは第6講の中で、「書棚の効果」について語られます。本好きにはたまらない、「わかる!わかるよっ、先生っっっ!!!」と涙を流さずにはいられない箇所です。

自分の本棚は僕たちにとってある種の「理想我」だからです。「こういう本を選択的に読んでいる人間」であると他人に思われたいという欲望が僕たちの選書を深く決定的に支配しているからです。 (P150)

だって、書棚に並んだ本の背表紙をいちばん頻繁に見るのって、誰だと思いますか。自分自身でしょう。自分から見て自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。 (P151)

私の本棚の本は全部カバーがかかっているので、背表紙は見えなかったりはしますが、でも、この感覚はすごくよくわかる。

置き場所とお金さえ許せば、私はできるだけ本を「買って読みたい派」です。そして、手元にずっと置いておきたい派。一度読んだ本を繰り返し読むということはそんなにもないけれど、でも置いておきたい。並べておきたい。

「読んだ本」は私にとっては「自分史」のようなもので、その本を読んだ時期の自分の状況、それを読んでどう思ったかという「今はもういない過去の私」の感想が詰まっている。

昔、Amazonどころかインターネットなんてものがなかった時代に買った本は、何軒もはしごしてやっと手に入れたものとか、本屋で衝撃的な出逢いをして買ったものとか、「どこの書店でどういうふうに並んでいたのを買ったか」っていうのを覚えてるものも多い。

新書版のアダルト犬神明シリーズなんて、中学生がレジに持って行くの恥ずかしかったですもん(笑)。

内田センセは「過去我」についてはおっしゃってないですけど、「そういう過去を本棚に留めておく自分に酔う自分」が私の「理想我」なんで(爆)。

新潮文庫版と古典新訳文庫版の『カラマーゾフの兄弟』を両方持っている自分とかね。『赤と黒』も岩波文庫と古典新訳と両方ある。

古い方捨ててもいいようなもんなんだけど、「両方持ってるんだ!」の方が嬉しいやん(笑)。

僕が言いたかったのは、電子書籍について論じるときに、誰ひとり「書棚の意味」について言及しないことです。(中略)だって、本といったら「書棚に置くもの」でしょう。でも、電子書籍は書棚に配架することができない。 (P155)

むしろ「書棚に置かなくていい」「スペースをとらない」ということが「売り」にされてますよね、電子書籍。

確かに置き場には困ってる。「これ以上本を増やすな」と家人には言われている。

でもっ。

本好きにとって、本に埋もれて死ぬのは本望(「ほんもう」って「本の望み」って書くのよねぇ。うぷぷ)。読んだ本だろうとまだ読んでない本だろうと、書棚にだーっと本が並んでる光景というのは本好きをうっとりさせるものなのです。

それがただの電子のリストになったんじゃあねぇ。

これって、音楽でも同じじゃないのかな。

うちの夫は「エアチェック少年」だったので、過去のカセットテープ資産がずらーっとキャビネットに並んでるんだけど、あれもやっぱり夫の「自分史」だし、「こんな音楽を聴いてきた」っていう「理想我」なんじゃないかと。

時にクラシックなんかも入っていたりしてね。

リアルな実体には「時間」がある。

電子書籍でも、配信の音楽でも、読みたい時、聞きたい時にダウンロードすればよくて、買い置きする必要はない。「読みたくなったら、そのときにタイムラグなしに買って読める」 (P156)

「市場経済は無時間モデルをよしとする」っていうのが、内田センセのblogや著作の中にはたびたび出てきますけど、「データの本」と「リアルな実体を持った紙の本」で一番違うのは「時間」の流れ方じゃないでしょうか。

「流れ方」というのはちょっと違うかな。「時間を内包するかどうか」。

音楽が「レコード」に記録されていた頃、針は文字通り時を追って音を拾い、連続した流れとして1曲目から最後までを奏でていた。

紙の本も「ページを繰る」という「流れ」があって、「まだ読んでいない部分」が薄くなるにつれて「物語の終わり」を意識して寂しくなったりする。

聴き方や読み方に「時間が流れている」だけじゃなくて、それをストックして棚に並べておくことによって「自分史」という「過去」を含み、内田センセが例に挙げているように、「いつか読もうと思って置いてある本」は「未来」をも形作る。

カバーが日に焼けて色褪せたり、うっすらと埃がたまったり、「中身」だけじゃなく「その“物”自体」も時間を重ねていくでしょう。

そーゆーのって大切というか、そうだからこそ「愛おしい」のじゃないのかなぁ。

デジタルなデータに置き換えられた代物っていうのは、タイムラグなしにいつでも好きな時にダウンロードできて、ピンポイントで読みたい頁、聞きたい曲だけを表示する、ということができて、原則として「劣化しない」「変化しない」。「流れ」を持たない、「点」としてしか存在しないもの。

内田センセはまた、「書棚の教化的な力」として高橋源一郎さんのエピソードを挙げてらっしゃいます。中学2年の時に、すごい友達のすごい本棚を見て教化されちゃう高橋さんの話です。

昔の中学生ってどんだけ!?と思うエピソードで、「そんなの全然一般的じゃないだろ!?」とツッコミたくなりますけども。今はともかくかつてはこれに類した経験は珍しくなかったんでしょうか。

電子書籍だと「蔵書を残す」ということができない、という話も出ます。

学者の中には自分の論文や著書よりも、蔵書のほうを「真の業績」だと思っている人が少なからずおります。そういう方の中にはついに著述を世に問うことがないまま亡くなった後に、その浩瀚な蔵書を見た人々が驚嘆するようすを想像してたぶん楽しんでいた人もいたのではないかと思うことがあります。 (P160)

これまた一般的じゃない気がしますが(^^;)

でもすごくよくわかる。

私など、一介の主婦だからこそ、死後に『純粋理性批判』だの『原典訳マハーヴァーラタ』だのが書棚にあるのを見つけてもらって、「一体こいつは何だってこんなもん読んでたんだ」と思ってもらいたいという欲望がありますもの(笑)。

きっと家族は「こんな大量の本、どうすんだよ。処分してから死ねよ!」と思うに違いないんですけどね……。

私の父方の祖父が亡くなった時に、遺品として『日本古典文学大系』と『日本思想大系』という岩波の全集2シリーズが我が家に来て、それこそ「爺ちゃん、なんでこんなもん持ってるんだ!」でした。

私が物心ついた時には祖父はもう心臓を悪くして、床についていることが多く、盆と正月にしか会わない私は祖父の人となりをほとんど知りません。若い時何してたのかさえ知りません。

父が家計を支えるため15歳から働いていたぐらいなので、決してお金持ちではなく、晩年も2DKのアパート住まい。なのになんでそんな難しげな全集(古典の方はなんと100巻本、思想の方は67巻本)を2シリーズも持っているのか。

まさか全巻読破したとはとても思えないんだけど、でも「蔵書」だったことは確かなので。

私にとって祖父は「そんなとんでもない蔵書を遺した人」として記憶されています。

娘のために『少年少女世界文学全集(全50巻)』を買いそろえる人でしたしね。この『少年少女』の方は孫である私に譲り渡され、幼少時の私に贅沢な読書環境を与えてくれました。(そのことについて詳しくはこちら

一番最初の「私の本棚」は、本来仏壇が入る場所に鎮座した50巻の『少年少女世界文学全集』だったのです。(今思うとあのガラス戸のついた書棚はあの全集専用に売り出されたものだったのかもしれない。ぴったり50冊が収まっていた)

「蔵書」とか「だーっと本が並んだ書棚」というものについて私が内田センセと同じ情熱を持てるのは、ひとえに祖父のおかげだったりします。(ちなみに父の本棚には『吉川英治全集』とか『のらくろ』とか『国民百科事典』などが並んでました。昔は個人で全集とか買ってたんだなぁ…)

で。

さらに内田センセはこうまでおっしゃいます。

例えば、紙の本を処分して、蔵書を全部電子化した人の家に遊びに行った場面を想像してみてください。その家には「本棚」というものがないんですよ。たぶん僕たちはそんな家には長くはいられないと思います。息が詰まって。 (P161)

いや、さすがにそこまでは……。

本棚って、どの家にもあるものかどうか、まずその辺が怪しい気がするんですが、どうなんでしょう。私、あんまりよその家に行ったことないんでわかんないんですけど、たとえばうちの弟がひとり暮らししていた時、そこに本棚はなかったと……。雑誌とコミックスが積んであるスペースしかなかったんじゃないか……。

「本棚」というのは「理想我」で、その人が「自分をどう思ってもらいたがっているか」ということを表現する、人間関係を結ぶ上で大変有益な情報を提供してくれるものだ。だから本棚=蔵書のない部屋に遊びに行ったら取りつく島がなくて息が詰まる、と内田センセはおっしゃる。

まぁ専用の本棚がなくても、まったく一冊も本や雑誌がない家というのは確かにないのかもしれないけれど。

本好きじゃない人は、たとえばインテリアとかで「理想我」を形作るんじゃないかなぁ。本じゃなくてコレクションのミニカーだったりぬいぐるみだったり、あるいはきれいに手入れされたお庭だったり。

食器棚に並べられた食器とかね。

私の場合「本棚」がすべてなので、あとのインテリアは「興味なし」、散らかってても全然平気、「お庭?何それ、おいしいの?」だったりします(笑)。

ともあれ、「本好き」にとって「本を買う」という行為が、ただ「中身を読む」だけのものでないことは確かで、「読者」を「今読みたいものを買う」だけの「消費者」と規定して出版戦略を考えるのは間違っている、という理路は、「本好きでない」方にも賛同できるのではないかと思います。

出版文化がまず照準すべき相手は「消費者」ではなく、「読書人」です。(中略)この読書人層をどうやって継続的に形成すべきか、それを最優先的に配慮するべきだろうと思います。 (P165)

『少年少女世界文学全集』が家にあっても、父や姉がやたらに本を読んでいても、うちの弟は「読書人」には育ちませんでした。「読書人」って、どうやったら形成されるんでしょうね。

【第7講:贈与経済と読書】

著作権をみだりに絶対視するのでなく、まずは「無償で読む人を育てよ」という話(これが内田センセの考える“読書人形成のキー”です)をするために、「贈与経済」の話がされます。

本がどうこう、メディアがどうこうということを超えて、読んでいて胸が熱くなる箇所です。

僕が言いたかったことは、人間たちの世界を成立させているのは、「ありがとう」という言葉を発する人間が存在するという原事実です。価値の生成はそれより前に遡ることができません。 (P183)

世界を意味で満たし、世界に新たな人間的な価値を創出するのは、人間にのみ備わった、このどのようなものをも自分宛ての贈り物だと勘違いできる能力ではないのか。 (P182)

泣けますよねぇ。

まさにここ読んでて私は「ああ、これは私のために書かれた箇所だ!」と勘違いして感動するんです(笑)。読むまで考えたこともなかったかもしれないのに、「これが私の言いたかったことだ!センセが言葉にしてくれた!」などと勘違いして(爆)。

内田センセの著作を面白いな、と思った後で橋本治さんとの繋がりを知り、「やっぱり私の嗅覚は間違ってなかった!」と自分の手柄にしたり。

そういう勘違いって、人生を楽しくしてくれます。

【第8講:わけのわからない未来へ】

メディアの危機に際会して、僕がいちばん痛切に感じるのは、「これは私宛ての贈り物ではないか?」という自問がどれほどたいせつなものかを僕たちが忘れ始めていることです。 (P200)

「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。 (P204)

同じことは人間同士の関係でも起きる、と内田センセは続けます。

その人のさしあたり「わけのわからない」ふるまいを、自分宛ての贈り物だと思いなして、「ありがとう」と告げること。人間的コミュニケーションはその言葉からしか立ち上がらない。 (P204)

新聞やテレビ、出版といったメディアの没落も、煎じ詰めればこの「コミュニケーションの本質」を忘れて、「消費モデル」でばかり考えたせい。

そしてこの先の混迷の時代を生き延びられる人と生き延びられない人を分ける鍵も、この「本質」を理解しているかどうかだと。

……「メディア論」がこういう終わり方をするとは思いもよらなかったけど、でもメディアというのは情報を発信するもので、「コミュニケーション」なんですよねぇ。そして今メディアが瀕している危機というのは、メディアだけじゃなく、今の社会が抱えている問題・危機とやっぱり無関係ではない。

本を読んで私宛だと勘違いする能力はあるけど、人間関係を「生き延びる能力」が果たして私にあるかしらん……。
 

内田センセ、今回もたくさん考えさせてもらいました。ありがとうございます。『街場の家族論』『街場の文体論』も楽しみにしております。