『失われた時を求めて』に続き、タイトルだけは知っていたけど、読んだことなかったシリーズ第2弾…って、基本的に古典は「読んだことないけどタイトルは知ってる」ものですけど。

パスカルの『パンセ』。

かの有名な、「人間は考える葦である」とか「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら云々」というフレーズが含まれている作品。

……私、その2つのフレーズを言った「パスカル」と、「ヘクトパスカル」の名前のもとになった科学者の「パスカル」、そして少年の時に1~100までの和をあっちゅう間に計算した「パスカル」が同一人物だって、ピンと来てなかったんですよねぇ。

少なくとも『パンセ』のパスカルと、後者2つ、科学者であり数学者であるようなパスカルとが結びついてなかった。

現代においては、哲学者と科学者の間には大きくて深い溝があるように思えるじゃないですか。

文系と理系、大学進学においてはばっさりと分けられてしまいますし。

でもかつては算数と哲学は結びついていたし、天文学も音楽も、すべては「世界の理を明らかにするための学問」だった。

だから夭折の天才科学者パスカル君が思想家であってもなんらおかしくはない。

私にとってパスカル君は、「ジャポニカ学習帳」のパスカル君なんですよね。

「ジャポニカ学習帳」に載っていた、「1~100までの数をあっちゅう間に計算してみせた天才少年」。世の中にはこんな頭のいいヤツがいるのか、と、算数には自信のあった小学生時代の私は「ちっ、負けたぜ」とか思ったのでした(←嘘嘘。素直に感心したよ)。

「ジャポニカ」では学校の先生の質問に対して即座に回答した、みたいに脚色されていたけど、実際のパスカル君は学校には行っていないらしい。お父さんから英才教育を施されたのだそうな。

まぁ天才は学校教育には向かないでしょう。17世紀のヨーロッパの「学校」がどんなものだったか知りませんけど。

んで。

『パンセ』です。

“『パンセ』は、パスカルが晩年に、ある書物を構想しつつ書きつづった断片的なノートを、彼の死後に編纂して刊行した遺著。”(Wikipediaより)です。

わずか1行のものから数頁にわたるものまで、パスカル君が書き残していた断章を後世の人間が分類・編集して1冊にまとめたもの。

なので読みやすいです。

この間の『失われた時を求めて』が1段落長くてキリがつかなくて、隙間時間の主婦読書には厳しい作品だったのに比べ、大変キリをつけやすい。

少しずつ拾い読みしたり、別の本を読みながら併行して読んだりもできる。

全体としては細かい活字(久しぶりに小さい活字を見た気がする。今ドキの文庫や新書は字がでかくてスカスカだもんね)でたっぷり600頁もあるけど、一つ一つ独立した断章の集合体だから。

読んでると芥川龍之介の『侏儒の言葉』を思い出します。(芥川について取り上げた記事はこちら

パスカル君、けっこう物言いが皮肉なの。『パンセ』の後半はキリスト教擁護の内容らしいのだけど(まだそこまで読んでない)、「死」や「存在の意味(あるいは無意味)」に対する畏れ、おそらくはそこから生じるのであろう世の中に対する皮肉な視線、“救い”への飢(かつ)え、というのが芥川と似てる。

芥川は35歳で自殺、パスカル君は39歳で病没。

頭良すぎると早死にするんだな……。

40過ぎて『侏儒の言葉』読むと「ふっ、青いな」と思ったりするんだけど、パスカル君の皮肉っぽい調子にも「若さ」の影響はあるのかもしれない。『パンセ』は“晩年に”ってWikiに書かれてあるけど、39歳で亡くなった人の“晩年”だもんね。もう全然年下やん(笑)。

『侏儒の言葉』には「人生を幸福にするためには些事に一喜一憂しなくちゃいけない」という文章があるけど、パスカル君には「自分が何者か、どこから来てどこへ行くのか、ということを考えないようにするために、人間には気を紛らせる物事が必要なのだ」という文章がある。

まったく同じことを言っているわけではないけど、通じるものがあるような気がする。

まだ三分の一ほどしか読んでいないけれど、たとえば。

44: 君は人からよく思われたいと望んでいるのか。それなら、そのことを自分で言ってはいけない。

183: われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである。

パスカル君の皮肉屋ぶりがうかがえます。

また、

205: 私の一生の短い期間が、その前と後との永遠のなかに〈一日で過ぎていく客の思い出〉のように呑み込まれ、私の占めているところばかりか、私の見るかぎりのところでも小さなこの空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくてここにいることに恐れと驚きとを感じる。なぜなら、あそこでなくてここ、あの時でなくて現在の時に、なぜいなくてはならないのかという理由は全くないからである。だれが私をこの点に置いたのだろう。だれの命令とだれの処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。

210: 最後の幕は血で汚される。劇の他の場面がどんなに美しくても同じだ。ついには人々が頭の上に土を投げかけ、それで永久におしまいである。

何百年も前の人が、自分と同じようなことを考えていたことを知るのは楽しいことです。

この時、この所に置かれた意味などわからなくても、別の時、別の所に置かれた人が同じような思いを抱いていたと知れるなら、人として生まれ落ちてよかったと思える気がする。

たとえ最後の幕が血で汚され永久におしまいになろうとも。

……なんてね。