本当ならあと1か月しないうちに春場所、なのですが。

皆さんご存知のとおり、今年春場所はありません! その後もいつ本場所が再開されるのか、まったく目途が立っていないと言ってもいい有り様。連日テレビでは「膿を出しきれ」だの何だの言いたい放題。

お相撲好きとしてはホントに哀しゅうて哀しゅうて。

昨年もドルジの初場所優勝を喜んだ後の急転直下。そして今年も……。ああ、なんだってこんなことに。

そんな中、Twitter相撲部で知った「考える人」429号の記事。(「バックナンバー」で429号を指定すると当該記事が読めます)

“相撲が国技だなんて、小さい、小さい。ユーラシアにまたがる数千キロの空間と、十数世紀におよぶ時間が背後に横たわっているのが見えないか”

紹介記事だけでも十分に泣けてしまうんですけど、ぜひ一読してみたいとAmazonでポチっとした『力士漂泊』。

1300円という値段からどんな大著が届くのかと思いきや……190頁の薄さ。ううっ、ちょっとお高すぎやしませんか、講談社さん。いえ、もちろん内容は良かったですけど、でも1300円て……ううう。

副題の「アルケオロジー」とは「考古学」の意味らしく、「相撲」の起源とその歴史が語られます。

相撲の発祥はモンゴルであろうと。

ドルジファンとしては「きゃー、モンゴル!」であります。

モンゴル人関取がたくさんいるのを嘆く人もいるようですが、そして「日本人横綱」を待望していらっしゃる方も多いと思いますが、そもそもの相撲の発祥の地はモンゴルなんですもの。彼の地のチカラビトがわざわざ日本へやってきて、日本の土俵で活躍してくれるなんてありがたいことじゃないですか。

「国技だなんて小さい小さい!」ですよ。

日本の「相撲」の歴史でも、「諸国のチカラビトを一堂に集めて相撲を取らせる」だったわけで、都の人間は「見るだけ」。今の基準では「外国」ではないけれども、昔の人々の感覚では「異境の力自慢達」の集まる、言ってみれば「グローバルな」代物だったわけです。

東北・北海道や九州から強い力士が出るのも、その歴史の延長上なのだろうと。

チカラビト達が天皇の前で相撲を取るのには、邪気を払い五穀豊穣を祈る「神事的な意味」や、諸国が都に服従するという「政治的な意味」もありました。

また後代(江戸時代)では無縁仏の集まる回向院で開催されたことなどから「鎮魂的な意味」、そしてもちろん「興行」「見世物的」な意味、大名達がそれぞれに力士を抱え、人気・強さを競う「大名同士の争い」の意味も付加されました。

今、八百長騒動で「相撲はスポーツなのか伝統芸能なのか」など色々言われていますが、歴史的に見ても到底「一つの意味」に収まるものではありません。

なぜ「一つの意味」「一つの枠組み」だけを選択しなければいけないのか。色々な日本人の土俗を呑み込み、紆余曲折を経て今の「大相撲」があるのです。

ガチンコ力士だけで「新日本相撲」を立ち上げればいい、なんて話もありますが、実際「別組織」が作られたこともあったそうです。明治の初め、初代高砂が“力士の待遇改善、相撲会所運営の明朗化などをスローガンに掲げ”、5年ほどがんばったのだとか。

白鵬がその連勝記録を破る破らないで注目された双葉山の時代にも、「春秋園事件」という力士造反事件があったそうな。

“会計の明朗化、入場料の引き下げ、茶屋や年寄制度の廃止、養老年金の確立など、かれらの要求には現在から見てさえ傾聴に値するものが多い”

逆に言えば、その頃から言われてるのに協会ったら変わってないのね(苦笑)という話なんですけども。

「財団法人大日本相撲協会」というのができたのは1925年(大正14年)、別組織だった大阪相撲がそこに合流したのが1927年(昭和2年)、そして現在の名称「財団法人日本相撲協会」になったのは1966年(昭和41年)だそうです。(Wikipediaによる)

さらにWikipediaによると「財団法人」になったのは「天皇賜杯(当時は摂政宮賜杯)」を一興行団体が使うわけにいかないから慌ててかなり無理矢理に財団法人の許可を受けた、のだとか。

お相撲好きな昭和天皇のおかげで「財団法人」になり、そして今その法人格の危機。今上天皇がどのように思われているにせよ、もはや天皇のお声一つで、とはいかない世の中。

『力士漂泊』の中で宮本氏は“天皇がしばしば国技館におもむくのはよく知られている事実だが、そこは、酒や折詰料理を口にしている庶民と座を共にし得るただ一つのトポス”と書いている。

そう言われれば確かにそうで、もしも相撲がなくなってしまったら、天皇にとってもそのような場がなくなってしまうのだなぁと。

“東アジアの伝統にしたがえば、裸になりマワシをしめたとたんに普通人とはちがう、チカラビトに変身する。国王、将軍、大名の面前といえども礼法を無視し、胡座で酒杯をかたむけることが許される。(中略)チカラビトのいるところでは、身分や地位を越えた人びとの混在が当然のこととして容認された。”

やはりある種のファンタジーなのですよね。日常とは違う「異界」。

国王の前でも胡座で酒杯を傾けていいのに、品格品格言われて辞めさせられたドルジ…。もちろん「裸になりマワシをしめたとたん」であって、土俵外の場外乱闘はいけないことですけど。

宮本さんは国技館の造りを「曼荼羅」で解き明かし、土俵を含むあの空間を東アジア的宗教観の具現する場とも捉えています。

“相撲の効験は、単に取り組んでいるチカラビトたちのみにとどまるものではない。数千の見物人もまた、ここで酒を飲み焼鳥をかじりつつ、わあわあがやがやと騒ぎ立てているあいだに、勝負の真剣さについひきこまれて浄化され、おのれを超えた霊的な存在――諸天、諸明王となってゆく。”

“こうまで人びとの意識の深層に根ざした文化的なシステムである以上、近代化を焦るあまり、本質的な部分にちょっとした変改を加えただけでも、あっという間に全体が崩壊してしまうだろう。”

あああ、まさに!

八百長なんか絶対にない、クリーンでクレバーでいちいちの勝敗だけが肝要な「近代スポーツ」なんかにしてしまったら、それはもう「お相撲」ではない、「ファンタジー」ではないんですよぉ。

……もう日本人はそのような「異界」を必要としなくなってしまったのかな……。

昔は芸能界のスターだってファンタジーだったわけですよ。普通の人間ではないオーラをまとった人々、天性でか演技でかはともかく、ファンタジーを具現できる人がスターだったと思う。

でもいつの頃からか「隣の美代ちゃん」みたいになって、スターの敷居が下がった。そりゃ、「隣にいそう」と言ってもそうそう隣にマツジュンがいたりはしないけれども、一昔前の「雲の上の人」達に比べるとだいぶ地上に降りてきてくれちゃったなぁと。

歌の歌詞も「リアルに共感できる」じゃないとダメみたいで。

♪片手にピストル~片手に花束~♪とか♪お嫁サンバ~♪とかいう意味不明じゃダメなんです。

「非日常=ハレ」というのはどこへ行ってしまったんでしょうか。(もしかして「非日常=ネット」?だから「祭り」が起こったりするの???)

お相撲が根ざしていたはずの「日本人の意識の深層」はどこかで決定的に変わってしまったのかな……。

ちなみに「国技なのに賭博なんて!八百長なんて!」という言い方を見かけますが、相撲が「国技」になったのは、「国技館」ができてそれを「国技館」と名づけたからで、一般公募で選ばれた名称だそうです(名づけられたのは明治42年らしい)。

まぁ、つまり、たまたまってゆーか……。

その歴史と「様々な土俗の意味を呑み込んだ」という部分で、まさに「日本という風土が練り上げた技芸」と言うにふさわしいとは思うのですが、「国技」だから「一片の曇りもなく」というのはちょっと違う気がします。

「国技だなんて小さい小さい!」とも言えるわけですし。

この本、1985年(昭和60年)に出版されたものなんですよね。

1985年というとまだ旭鷲山や旭天鵬も入門していない(彼らの初土俵は1992年(平成4年))。

その時期にいきなり「モンゴル」の話から始まり、また、「アンチヒーローの系譜」として取り上げられる「高砂部屋」。

そう、ドルジのいた、高砂部屋。

生まれるべくして生まれた横綱だったのでしょうか、朝青龍明徳。

講談社文芸文庫として出版されたのがおととし、2009年の7月。

2009年版へのあとがきとして、宮本さんは“興行としての勧進相撲が始まってからピークは5回。5回目は現在”と書いていらっしゃる。朝青龍に白鵬、そして安馬や安美錦、鶴竜の名を上げて。

……この後たったの半年で横綱が一人になってしまうとは。そしてさらにその1年後には本場所が開催されなくなっているとは……。

“こう見てくれば5回のピークは必ずといっていいくらい、日本国家あるいは社会の危機に一致する。(中略)しかもやがてピンチを克服する胎動を内に秘めた民族の予兆とも取れる。”

……ピークの後の急転直下、日本人はもうピンチを克服できないのでお相撲を潰してしまうのでしょうか。「お相撲なんかなくなっても平気!」な人が多数派だとはわかっているけど、でも一旦なくなったらきっともう二度と……。本当に、本当にそれでいいんだろうか。

2009年版へのあとがきは次の一文で終わる。

“誰かを叩いたり排斥したりすることで日本人のアイデンティティーが守られるはずはあるまい。”

これは「モンゴル人力士が多いと嘆く人がいるけれども」という文脈なのだけれど、その話に限らず、何かあるとすぐバッシングに走る昨今の日本の風潮にも言えることではないでしょうか。

宮本さんはつい先頃、2月2日に亡くなられています。2月2日、ちょうど八百長メールが明らかになった頃。なんとも言えぬ符牒を感じますね。

「相撲」の楽しみ方、ファンタジーである「相撲」との付き合い方を知っていた人々が消えていく。

私にそれを教えてくれた父ももういない……。


って、嫌よ嫌よ、お相撲がなくなるなんてーーーっっっっっ!

興味のない人はこの本を読んだところで「でももう時代遅れだろ?」ぐらいの感想しか持たないのかもしれません。

相撲協会に改善しなければならない点があるのは確かだし、あんなあからさまな星の売買は野暮だろうとも思います。

でも。

でもでもでも。

「本質的な部分」を変えたら「お相撲」じゃなくなる。

そしてその「本質的な部分」っていうのはきっと、色々な意味を呑み込んだ、すぱっと割り切れない混沌さなんだろうと思う。


早く土俵の上でチカラビト達の勇姿を見たいよ。嗚呼。