昨日の記事を書いてから、「野暮」とか「美意識」とかいうことについて、ちょっと考えました。

「野暮」とか「粋」とかいうのは、「善悪」という「倫理観」ではなくて「美意識」ですよね。

「野暮」だから「悪い」は言えるけど、「悪い」から「野暮」なわけじゃない。

「正義」という「善」を振りかざせば、白黒つけないのは「悪いこと」で、「まぁまぁ、いいじゃないですか」と目をつぶるのは「曖昧」で「悪いこと」。

世の中はそうそう善悪の二つにすぱっと分かれるもんではなくて、そういう「世情」を理解せずにきいきい言う人のことを、「野暮」と言ったりするわけです。

手元の国語辞典(旺文社1980年版)にも「野暮」とは、「世情にうとくて洗練されないようす。また、その人。不粋」と説明されています。

反対語は「粋(いき)」であると。

ちなみに「粋」の項には「洗練されていて色気があり、さっぱりとしていること。すい」とあります。

“「いき」は江戸後期に町人が理想とした生活理念で、洗練された色気と生気を内につつんだ、繊細で淡泊な美をいう。江戸前期の「粋(すい)」に通じるが、「すい」がたくましく豪華であるのに対し、「いき」はひかえめで繊細である。”との補足もついています。

だから何だ?というと、「美意識」って重要ちゃうかな、って話です。

「善悪」にしても「美醜」にしても、何をもって「善」とするか、というような定義の問題、哲学的な問題があるわけだけど、実生活においてはそれをすれば法律に違反する、罰される、人間としてどうかと思う、的なところが「悪」。

実生活において「醜」っていうのは「みっともない」とか「見苦しい」ということでしょう。

別に法律違反じゃないけど、電車の中でものを食べたり化粧したりするのは「みっともないでしょ」っていう感覚。

「マナー」に通ずる部分でもある。

「ラッパ飲みは下品だ」っていう感覚とかね。もう今や水筒でさえ「直飲み」になっちゃって、昭和世代としては困惑するばかりですが(笑)、瓶に直接口をつけて飲むのがなんで悪いかって、やっぱり「かっこ悪い」「見苦しい」からだよね。

直接口をつけると雑菌が…とかいう「合理的」な理由以上に、ある年代から上の人間にとっては「みっともない」から悪い。

ある年代から下の人にとっては、直飲みはもう普通で、なんでそれが「みっともない」のか、きっと全然わかんないだろう。

「世情にうとい」=「野暮」だとすれば、その「世情」は移ろっていくし、時代によって「一般的な美意識」というのも変わっていく。

それは「善悪」にしたってそうで、自分達と違う文化を持った人々をかつては普通に「野蛮人」と蔑んだりしてた。

でも、というか、むしろ、というか。

「美意識」の方が、より「個人的」で、より「測るのが難しいもの」のような気がする。

何を美しいと思うか、何をかっこいいと思うか。

ドカベンの岩鬼がサチコを「ドブスチビ!」と呼ぶように、人の美意識は本来自由なもの。

そして「美意識」というのは、善悪という「倫理観」以上に、人の行動を縛る、「規範」になるものじゃないかなぁ。

「やめなさい、みっともない!」っていうね。

私なんかは昭和世代で、その父親といえば戦前生まれだったりしますから、「口にものを入れたまましゃべらない!」とか「肘をついて食べない!」とか、日常のお行儀についてそれはそれは厳しく指導されたものでした。

その割にこんなですが(笑)。

もちろん「合理的」=「美しい」という側面もあるので、食事のマナーや立ち居振る舞いの作法にも「合理的な理由」はつけようと思えばつけられるんだろうけど、でもたぶん私の行儀を叱る父にしてみればやっぱり、「みっともない!」だったと思う。

「悪の美学」という言葉があるでしょう。

「悪」なのに「美しい」。いや、「悪」なりの「美意識」?

思春期には「悪いこと」をするのが格好良く見えるし、私などは今でも「いい子ちゃん」より「ちょっと悪い」ぐらいの方が好きです。

悪ぶる子たちはそれが「格好いい」と思うからやるんだよね。そこに倫理的な善悪を持ち出して説教しても、通じない。

説教に屈服するということがもう、格好悪くてたまらないんだから。

……なんか、論旨のはっきりしないとりとめのない話になっちゃってますが。

「美意識」を満足させるために「やせ我慢」するとか、大事なことだと思う。

私は大相撲と宝塚歌劇とGACKTさんと聖飢魔Ⅱが好きなわけなんですけど、この4つの共通点って、「非日常」にして「独特の美学を持つ」だと思うんです。

デーモン閣下に「本当は○歳なんでしょ?」とか訊くのは大変野暮です(笑)。

宝塚歌劇を見ながら「だってあれ女じゃない、キモチ悪い」とか言うのはもう最低に野暮です(爆)。

そういうことだと思うんですよ(何が?)。

宝塚もGACKTさんもデーモン閣下も、言ってみれば「ファンタジー」。

「嘘」を実体として存在させるために、あの方達は相当な努力をして、本気で物語を生きている。

東京ディズニーランドのスタッフが、「ミッキーなんて着ぐるみだろ。何喜んでんだよ」って気分で接客してたら、お客さんは興醒めですよね。魔法が解けちゃう。

ファンタジーに酔わせようと思ったら、それを提供する側はお客さん以上にそのファンタジーを信じ、それを自らの血肉としなければなりません。

お相撲さんは「相撲」というファンタジーを実現するために無理して太って、髷結って、まわし締めて、厳しい稽古をしている。

野球賭博の話の時も、今回の八百長メールも、「なんて一般人なんだ」なんですよね。

いや、一般人はそうそう暴力団と付き合ったり八百長試合したりしないって?

でも賭博にのめり込んで多額の借金こしらえるとか(某親方の話です)、「(八百長してくれないんだったら)20万返してくださいね」ってメールでやり取りしちゃう神経って、「異質な相撲界」というより、めっちゃ「そのへんの一般人」じゃないですか?

ファンタジーを成り立たせる「美学」とは無縁だなぁ、と。

 

あと、子どもには「善悪」を教えるよりも「美意識」を植え付ける方が重要なんじゃないかな。

「美意識」って「身体知」だから、教科書とか理屈で教えることはできなくて、「○○さん、カッケー!」と言われるような見本を大人が自ら見せていくしかないでしょう。

って、こんなこと、わざわざ言葉にするのが野暮というものですね。