(『オブローモフ』上巻の感想はこちら

岩波文庫版『オブローモフ』は上中下3巻に分かれていて、中巻には原作の第二篇・第三篇が収められている。

3冊の内一番分厚いのがこの中巻。

上巻の最後で「唯一オブローモフを外に連れ出せる人間」、親友のシュトルツが訪れて、中巻冒頭では見事オブローモフはよそのお屋敷やらどこやらへと出かけている。

そしてシュトルツの紹介でオリガという娘と知り合い、彼女にのぼせ上がって、彼女のためにせっせと外出し、いつも着ていた「部屋着」も脱ぎ捨て、日がな一日寝台に寝そべったまま、なんていう状態を「過去」のものにする。

なぁんだ、結局「女」なのかよ。やっぱりあんたもただの「男」なのかよ、と思ってしまうのだけど。

オリガはシュトルツから「まだ小娘」と思われているところからして二十歳にはなっていない様子。他の社交界の女達と違い、男性に媚びを売ったり、やたらに失神してみたりすることなく、自分の頭で色々考えることのできる、しっかりした「知性」を持った娘。

もちろん見た目にも美しいようで(“絶世の美女”みたいには書いてないけれど、魅力的な娘であることは間違いなさそう)、歌も得意。オブローモフもまずは彼女の歌に感激してしまう。

シュトルツからオブローモフの“引きこもり”な人となりを聞かされ、「僕が留守の間あの男が寝っぱなしにならないように見張っていてくれよ」などと言われていたオリガは、その純粋で活発な心と頭脳でもってオブローモフの“魅力”に気づき、彼に恋する。

そう、驚くべきことに、オブローモフがのぼせただけじゃなくて、オリガの方もオブローモフに“恋心”を抱くんだな。

夏の間、オリガとその保護者の伯母さんはどこやらの別荘にいて、オブローモフもその近所の“別荘”に住んでいる。上巻で「立ち退きを求められていたアパート」は引き払って、もとの家財道具はタランチエフというごろつき(悪党だけれども、オブローモフの数少ない“知人”)が斡旋してくれた下宿に送ってある。本当ならすぐにそちらに越していかなければならないところ…あるいはシュトルツの待つ外国、あるいは管理を必要とする自らの領地オブローモフカへ発たなければならないところ、オリガの魅力にやられてしまったオブローモフは彼女の別荘の近くを離れることができない。

彼女の別荘で食事をよばれ、彼女と二人で散歩をし、いっぱしの“恋人たち”を演じ、すっかり“引きこもり”からは脱して今で言う“リア充”に変身したかに見えるオブローモフ。

が。

俺のオブローモフがこんなにリア充なわけがない!(“俺”って誰だよ(笑))

本人も、「なんでオリガは自分みたいな人間のこと好きでいてくれるんだろう?」と思っていたりするので、楽しく二人で時を過ごした後、どーんと落ち込んだり、「こんなことしてちゃいけないんだ」「別れた方がいいんだ」と思いつめて、実際にオリガに宛てて「あなたは勘違いしているんですよ」と別れの手紙を書いたりする。

でも、やっぱり、いったんオリガを目の前にしてしまうと、きっぱり別れたりできないんだけど。

ずるずると「逢い引き」を続けながら、夏が終わるとオリガと叔母さんは別荘を離れ、市内へ戻っていく。オブローモフも仕方なくタランチエフに斡旋された未亡人とその兄が切り盛りする下宿へと移る。

オリガの家とはかなり離れているらしく、“引きこもり”で怠惰なオブローモフにとっては行き来はかなり苦痛。人の少ない別荘地とは違って市内に戻れば他のお客も多いし、芝居見物等へ行っても「二人きり」はおろか、オブローモフは同じ桟敷にすら入れない。

「オリガと一緒にいるあの男は誰?」と世間の噂にもなるし、ザハールやオリガの家の召使い達が「二人はいつ結婚するのだろう」みたいな話を始めるとさぁ大変!オブローモフは生きた心地もしないのだ。

まだ許嫁でもないのにそんな噂が立ったらオリガの評判に傷がついてしまう。そして「今度オリガと結婚するらしいオブローモフってのは一体何者だい?」という世間の好奇の目が彼にはたまらないのだ。

だって彼は「何者でもない」んだもの。

とはいえ彼は「領地持ちのいわゆる貴族」で、今現在官職にもついていないしだらだら日を過ごしているとはいえ、年も30は超えてるようで、嫁をもらったって全然不思議じゃない。

「まだ許嫁でもないのにそんな噂が立ったら」と心配する暇があったらさっさと正式に求婚して「許嫁」になってしまえばいい、結婚してしまえばいいのだ。

オブローモフも心を決めてオリガの伯母さんに話をしに行こう、最初の一歩を踏み出そう、と思うのだけど。

「それは最後の一歩よ」とオリガに言われてしまう。

え、じゃあ何が最初の一歩なの?

「最初の一歩は…役所へ行くことよ。何かの書類をこしらえなきゃならないんでしょう?」

上巻でオブローモフを悩ませていた領地の管理の問題は一向に片付いていないので、オリガはまずそれを「片付けなさい」と言うわけ。二人で領地に行くにしたって、住む家もないんでしょ?と。

結婚するために必要な「実際的な前段」を次々上げるオリガにオブローモフは

「あのオリガはなんて妙な女だろう!一つところにじっと立ち止まって、詩的な刹那の甘い瞑想にふけろうなどとしない、まるで空想なんかないみたいだ、物思いに沈もうという要求を感じないみたいだ!すぐにこれから役所へも行ってこい、住居もさがせ、――これじゃまるでアンドレイ(シュトルツのこと)と同じだ!なんだってみんなああ生活を急ぐんだろう、まるで申し合せでもしたように!」 (中巻P310)

夫婦二人ともが詩的な刹那の甘い瞑想にふけっていたらそもそも今夜のおまんまにもありつけなくなるんですけどね。

まぁでも女の方が「現実的」というのはよく言いますよね。「愛してるはいいけどお金はどうするの?」みたいな。

そしてもちろんオブローモフにそのような「現実的な課題」に対処する能力はない。

下男のザハールがうっかり「婚礼」とかいう言葉を口に出し、オブローモフはぎょっとして「そんな根も葉もない噂!婚礼ってのはどんなに大変だと思うんだ?いくら金がかかると思う?そんな金がどこにあるんだ!」と怒るんだけど。

彼はザハールをおどかすつもりであったが、結婚問題の実際的方面を了解したとき、かえってザハールよりも自分のほうがよけいにぎょっとしてしまった。 (中巻P376)

…オブローモフぇ…。

対するオリガは

「あたしはあんたの愛情も信じるし、あんたに対する自分の力も信じるわ。でも、なぜあんたはそうぐずぐずしてあたしに心配させるの、なぜあんたの愛を疑うまでに仕向けるの? おまえはおれの目的だと言いながら、その目的に向かって進む足どりが、いかにも臆病でのろいじゃありませんか」 (中巻P431)

本当に愛しているなら、本当に自分と結婚したいなら、苦手な実務だってなんとか乗り越えてみせてよ!ということなんだけども。

「苦手」とかいう領域ではないのだよな、もう、オブローモフのそれは。

自分では領地の管理などできはしない、領地へ赴く気にすらならないオブローモフはそれでも「なんとかしなきゃ」と思って、下宿の「おかみさん」の「兄」に代理人を紹介してもらい、管理を任せようと考える。実はこの「兄」、タランチエフと組んでオブローモフを金蔓にしようと思ってる悪党なんだけども、オブローモフはそんなこと夢にも思わないし、とにかく領地の問題をなんとかしないことにはオリガに怒られっぱなしなわけで。

「兄」にその案件を頼む時のオブローモフの率直すぎる告白ときたら!

「いったいぼくは誰でしょう?何者でしょう?(中略)そうです、ぼくは旦那なのです、だから、何ひとつできないんです!」
「(高等数学や法律や経済学を一応修めたはずなのに)けれども、ぼくはこのとおり実務を覚えることができなくって、ただ旦那になっただけです」
 (中巻P449)

なんと的確な自己認識……いやもうほんまに。

「学問」の役立たなさということを考えさせられますねー。官等にありつくために必要な学問はただひとつ、書類を書くことだけ―。そして上司におもねり、自分のしている仕事に疑問を抱かないこと……。

オブローモフは決して勉強熱心だったわけではないから、「世間知らずの学者」というのとも違うけど、子どもがよく言う「こんなこと勉強して何になるの?」「こんな数式大人になって使うの?」っていう、ね。

あまりにも正直に手の内をさらけ出して、結果さらに「兄」に舐められ収入をかすめ取られることになりながら、ともかくも「領地の件はなんとか片が付いたぞ!」と思うオブローモフ。

ところが「赤の他人」に領地の管理を任せると聞いてオリガはびっくり。オブローモフが決して自分で領地へ赴こうとはしないこと、それ以外の様々な現実の厄介事にも決して「自分で」立ち向かおうとはしないだろうことを理解してしまうと、ついにオリガはオブローモフを見限る。

オブローモフ「ぼくがどれだけあなたを愛しているか、それをわかってくだすったら…」
オリガ「あたしが待っているのは愛の証明じゃなくて、簡単な返答ですの」
 (中巻P467)

オブローモフ「あるがままのぼくを受け入れてください、ぼくのなかにあるいいところを愛してください」 (中巻P469)

オリガ「あたしはあなたを愛していたというよりか、自分でこうあってほしいと思うあなたを愛していたんですの。(中略)そして…あたしを…優しい愛情なんて…それだけのものならどこにだってありますわ!」 (中巻P471)

うわー、言っちゃった!!!

最後のこの「破局」の部分は実に読み応えがあるんですけど、いやーもうホントになんという「女の真実」でしょうか(笑)。

「優しい愛情」「それだけならどこにでもある」ですよ!!!

この最後通告の前に、オリガは自分の力でオブローモフを「生き返らせることができる」と思っていた、と言います。オリガはもちろんオブローモフの純粋で潔白な、他の世間ずれした男にはない美点、「ぼくのなかにあるいいところ」を愛したのだけれども、それ以上に「自分の愛の力で彼を死んだような生活から救い出す」という物語に酔っていた。

女にとって、男が自分への愛のために「性根を入れ替えてくれる」っていうのは確かに「優しい愛情」なんかより嬉しかったりするものでしょう。

平穏を愛するオブローモフの望む「生活」と、快活で生命力旺盛なオリガの望む「生活」とはまるで違って、二人が「結婚する」なんてことは最初からありえなかった。でも、逆にその「隔たり」が、自分にないものを恋うるように二人を惹きつけたのかもしれない。お互いがお互いであったからこそ「恋」に落ちた二人なのに、お互いがお互いであるがゆえにその道は交わるだけで重ならない。

嗚呼。

当時のロシアにこんな「旦那」がごろごろいたのかどうか知らないけれども、ゴンチャロフさんの造型はお見事。オリガの造型もねぇ、なんでこんなに「女の心理」がわかるかな、ゴンチャロフさん。

タランチエフと「兄」が悪だくみしてるシーンが挟まれているのもいい。いかにオブローモフが「カモ」にされているかという。

すでに下巻も半分以上読んでるんだけど、また下巻が面白くって。ゴンチャロフさんすごいわ♪

「人生って何か」ってことをめちゃくちゃ考えさせられる。

オブローモフはオリガではなく、彼の「あるがままの純真さ」を愛で、「あんたの食い扶持くらい何とかしてあげるわ」というお姉さんと出会うべきだったんじゃないかな。

実務能力に長けた人がそばについていてくれさえすれば、彼を「旦那」のまま生かしてくれる人さえいれば、それでなんとかなっただろうに。

ザハールのような役立たずの下男じゃなくて「先代からお仕えしています」みたいな執事だか家令だかが実務をしっかり取り仕切ってくれさえすれば問題なかった。

都会へ出ることなく、ずっと田舎で暮らしていたら、お嫁さんだってもらえたかもしれないのになぁ。執事がいなくても、お嫁さんの兄だか父だかいとこだかがしゃしゃり出て領地の管理をしてくれたかもしれない。ちょっとぐらい収入を横取りされたって、不自由なく生きられるだけのお金を渡してもらえれば、オブローモフはそれで満足なんだから。

上巻で描かれた彼の父親も、「旦那」だったものねぇ。時代はそんな「旦那」の存在を許さなくなってきていたのかもしれないけど、「実務ができなければ存在を認めない」というのも……。

オブローモフはそんなに「どうしようもない人間」なのか?


下巻感想へ続きます。