(関連記事→『若草物語』『続・若草物語』『第三若草物語』

『若草物語』の最終章、なんとか読み終わりました。年末年始をはさんだので読むのに時間がかかって前半の記憶が……。

原題は『Jo's Boys』ということで、『第三若草物語(Little Men)』で描かれたプラムフィールドの子ども達のその後を描く物語です。

冒頭でいきなり10年後になっていて、プラムフィールドにはローレンス氏が寄贈した立派な大学が建っています。ローリーの祖父ローレンス氏と、姉妹の母マーチ夫人は亡くなり、ジョーの夫ベア教授は大学の学長に、そして父マーチ氏は同校の牧師として

彼らが長くはぐくんできた夢が美しく実現したのをみたのである。 (P7)

諸々の事情からローリーとエイミーの屋敷、そしてメグ一家の家も同じ敷地内に引っ越し、

姉妹たちは若者たちのせわを分担してそれぞれ適役をひきうけていた。 (P7)

加えてジョーは一時期中断していた作家業を再開し、家にファンが追しかけてくるほどの売れっ子になっています。

サインのみならず、「何か先生の使っているものを記念品にくれ」などと言ってくる傍若無人な人々。これってオルコットさんの実体験だったりするのかしら。

ジョーはやがて名声にあき、自由を失ったことを後悔しだした。彼女とその身辺の出来事は突如としてすべて大衆のものとなった。(中略)もし彼女が彼らに向って心を開かなければ、彼らは彼女を非難した。もし彼女が動物愛護会への寄付、貧民救済、その他あらゆる人道上の困苦に同情することを拒めば、彼女は無情で利己的で傲慢だといわれ、読者からのうず高い手紙の山に返事を書くことが不可能だといえば、ごひいきの大衆への義務を怠るといわれた。 (P54)

というくだりも、「オルコットさん大変だったんだなぁ…」と。
有名になるのも良し悪しというか、作家として成功し、プラムフィールドの学校も順調とはいえジョー夫妻はそんなにあちこち寄付できるほど大金持ちになっているわけもなし、慈善に駆け回れるほど暇なわけでもない。

この作品を書いている時のオルコットさんは健康に翳りが出、母や妹を亡くし、老いた父親の世話などで心身ともに大変だったそうで、そんなところへ勝手に押しかけてくるファンや寄付を催促する山のような手紙が来ていたのだとしたら……。

なんとお気の毒な。

とはいえ、もちろんそんな「愚痴」はほんのわずか、この作品のメインは「成長したプラムフィールドの子ども達」です。

彼がジョーのもとへやってくるところから『第三若草物語』が始まった、身寄りのないヴァイオリン弾きの少年ナット。彼はローリーの後押しもあってドイツへ音楽の勉強に。華やかな社交界、裕福な他の学生たちの誘惑に一度は負けそうになるのですが……。

そのナットと幼い恋を育んでいたデーズィ。けれども母親のメグは二人の恋路に反対しています。ナットが悪い若者でないことはわかっていても、親としてはやはりその出自が気になるのですよね。自分自身早くに(確かまだ10代)ジョンと結婚したのに、「デーズィはまだ若すぎます」とか言って。

彼女は自分の大事な娘を地球上の最上の男以外のものに与える気はなかった。 (P41)

まぁ親ってそういうものだけれども(^^;)

「デーズィはあたしの気持ちをよく知っています。あたしはあの子を信じているのよ」 (P137)

なんて言っちゃうところもね。可哀想に、「母親の気持ちをよく知っている」からこそナットへの愛情と親孝行の間で苦しむデーズィ。

二人の恋はどうなる!?

一方、同じく幼い頃からの恋心を大事にしているトム。お相手は前作で相当なはねっ返りに描かれていた女の子ナン。この二人の恋はまるでジョーとローリーのそれをなぞるかのようです。
そう、トムの猛アタックにも関わらず、ナンにはまるでその気がない。医者になろうとするナンと一緒にいたくて、トムは柄にもなくがんばって一緒に医学を学んでいるというのに……。

ローリーが結局エイミーを得たように、トムにもふさわしい別のお姫様が現れるのですが、これって「愛してくれる女を愛せ」という教訓なんでしょうか。

「くる年もくる年もしかめっつらをされ冷たい目つきを向けられてばかもの扱いをされるのはもうたくさんです。それもひとりの女の子を子どものときから忠実に愛しつづけてきたというのに! そんなのは不公平だ、ぼくはがまんならない!」 (P213)

まぁ、こればっかりはね……報われるとは限らないんだよね……。ナンはトムの新しい恋の話を聞いても「そりゃ良かったわ、おかげでこっちはせいせいした」って感じで、ジョーがちくりと寂しさを感じたほどにもトムを想ってくれなくて。

うん、その後もジョーとローリーは「実の兄と妹のように」仲良く、恋人や夫婦ではないからこその親密さを保ち続けているけど、トムとナンはまったくそういうことはなさそうで。

もちろん、同じ「プラムフィールドの同窓生」「幼なじみ」という絆は続くのだろうけど。

ベア教授の甥エミルは子どもの頃の夢の通り船乗りに、デーズィの双子の兄デミは新聞記者と、それぞれの道を歩き出す子ども達。

前作ではまだ赤ん坊だったデミ達の妹ジョーズィは上二人とはずいぶん違ったおしゃまで騒々しい、役者志望の女の子に育っていて、著名な女優と知り合うエピソードなども描かれます。

そして。

ダン。

前作でも主役と言っていい扱いだったダンの十年後は。

せつないです。

だれよりもよくダンを知っている夫人には、彼女の仔馬がまだ完全には調教されていないことがよくわかったのである、そして彼のような人間にとって人生は常に多難であることも知っていたから、ダンにたいしては希望をもつとともに心配もしたのであった。 (P95)

自由を求め、抑えつけられるのも感情を(特に甘えたり泣いたりするような“弱さ”)を表に出すことも嫌うダン。他の子ども達に酒や煙草を教え、危うくプラムフィールドを焼失させるところだった不良少年の彼も、ジョー夫妻の愛と信頼に応えるべく奮闘している。

でもやっぱり都会でおとなしく雇われ仕事をする、なんてことはできなくて、冒険とか危険に満ちた場に引き寄せられてしまう。

ジョーが心配したとおり、ダンは非常な苦難に遭ってしまいます。それでも魂までは堕ちず光のもとへ帰ってくるけれど、その苦難と罪を受け入れ温かく接してくれる“おかあさん”ジョーも、彼の恋心までは応援してくれないんですよね。

恋というには清く儚すぎる、美しい“憧れ”だけれども。

ダン自身が

彼女はぼくにとっては天の月ほども高いところにある存在でした。ぼくから奪わないでください、ただのぼくの幻想なのですから。しかし人間はなにかを愛さずにはいられません。 (P427)

と、「静かなあきらめの声」で語るのが本当にせつない……。

最後、「ダンはついに結婚をしなかった」(P444)と書かれていて、身寄りもなく、一人で稼いで生きていくしかなかった子どもが、それでもプラムフィールドでジョーと出会い、「おとうさんおかあさん」と呼べる人、兄弟と呼べる仲間を得て、決して“不幸な人生”ではなかったのだろうけど、「ダン……」とため息をつかずには。

3巻で紹介されていた子ども達の中には10年後すでに亡くなっていた子もいたし、どんなにジョー達ががんばっても、すべての人が成功したり長生きしたり、“ハッピーエンド”になるわけじゃない。

色んな子ども達がいて、それぞれに、それぞれの生を生きた。

ベスやメグの夫ジョンは早くに亡くなってしまったけど、でも彼らをただ“不幸”と呼ぶのは……ね。

と、ついついダンに肩入れして読んでしまったのですが。
そしてジョーも

「悔い改めた罪人がひとりいるということは、たくさんの聖人がいるよりもずっと悦ばしいことですもの」夫人はこたえた。 (P443)

と言っているのですが。

どうしてこう、「最初からいい人」よりも「ちょっと悪(ワル)だった人」に惹かれてしまうんでしょうね。
アニメ『火ノ丸相撲』で空手のお師匠さんが「私は不良の更生物語なんか嫌いなんだ。最初から真面目に生きてる奴の方が偉いに決まってるんだから」って言った時、「そうだよなぁ」と深くうなずいたにも関わらず。

まぁ波瀾万丈な方が「物語」にはなりやすいけど、ナットやエミルにも「危機」はあったのに、断然ダンの人生が印象に残ってしまう。

「ぼくのようなまやかし者と結婚したがる女なんていませんよ。女は地道な男が好きなものです、そんなものにぼくはとうていなれっこない」 (P79)

と言うダンに、

「あら、あたしは子どものとき、あんたのような冒険的な男のひとが好きだったわ。なんでもいいから新鮮味があって、大胆で自由でロマンティックなものがわれわれ女性族には魅力があるものなの」 (P79)

とジョーが答えるシーンもありますけども。

“女性族”といえば、「女の子が学問をすること」についての話も出て来ます。プラムフィールドは共学なのですが、当時は(この作品が完成したのは1886年。明治19年です)アメリカでも女の子が男子と机を並べて高等教育を受ける、ということが珍しかったようで。

女の子は男の子と同じように勉強することはできないなどというのは全くナンセンスです。 (P348)

「学問のほうをあたしたちにまかせてくだされば、あたしたちはよろこんで野球やボートやダンスやそれに恋愛ごっこなどのほうをあなたがたに譲るわ。そちらのほうはあなたたちのご専門の分野らしいから」 (P385)

このお話の時代から100年以上経っても、入試で女子が減点されてたりするんですもんね……。

さらにこんな記述があって、

学問などした女は、というおきまりの嘲笑が「うちの女の子」にも適用してはたいへんと、メグ夫人は最もだらしのない娘たちを二、三人自分の家に誘ってみた。 (P340)

だらしのない娘としては乾いた笑いが。ハハハハ。

 
前述のとおり心身ともに大変な中、4年がかりでこの“最後の作品”を書き上げたオルコットさん。
最後の章に置かれた「くたびれたマーチ家の歴史家」(P444)という自嘲気味の表現は、きっと本心だったのでしょう。

完成の2年後、オルコットさんは57歳で世を去ったそう。
お疲れさまでした。
ありがとう。