はい、『若草物語』四部作の3作目です。
(1作目の感想はこちら、2作目はこちら

実はあんまり期待しないで手に取ったんですが(ローリー&ジョー推しだった私にとっては、ジョーとベア先生が結婚した後の話なんて…という気持ちでした(笑))、何これ面白いっ!

っていうか、ここまでの3作のうちでこれが一番良かった……。おそるべしオルコット女史。

この角川版には「プラムフィールドの子供たち」という副題がついていて、主役はまさに「子供たち」なんですよね。それも、家庭に恵まれない子供たち。

ジョーとベア先生がプラムフィールドに開いた「学校」、そこに集う15人の少年少女たち。少女は2人しかいないので、ほぼ「男の子たち」。原題は『Little Men』となっています。

そう、『若草物語』(1作目)の原題『Little Women』に対して、今度は「男の子たちのお話」ということなのですね。この心憎いタイトルの対比が『第三若草物語』という邦題ではさっぱりわからないっ! 日本ではあまりに『若草物語』というタイトルがメジャーなので、それの続編ということを打ち出したいのはわかるけど、「続編」以外の情報が何も盛り込まれてない。

「プラムフィールドの子供たち」という副題も、私が借りてきた平成三年第十四版のカバーには印刷されてなくて、中扉にしか書いてないんです。なんかものすごくもったいない。

子どもたちみんなの「お母さん」として、また、「良き導き手」としてジョーが活躍しているのはもちろんなんですが、主役は子ども達。

ベア先生の甥であるフランツとエミルの兄弟、ジョーとベア先生の息子ロブとテディ(この二人はまだ幼児)、そしてメグとジョン・ブルックの双子の子どもデミとデーズィ。講談社文庫版では「デージー」表記だったのが、この角川版では「デーズィ」となっています。

この6人は先生たちの血縁者であり、必ずしも「恵まれていない」わけではありません。でもフランツとエミルは、片親を亡くしているのだったかどうだったか、前作でベア先生が「甥っ子たちを助けてあげたい」と常々言っていたのですよね。

デミとデーズィは物語の終盤で10歳ということになっていますが、メグとジョン・ブルックが結婚して10年らしいので、9歳~10歳という感じかしら? 聡明で利口で「小哲学者」と渾名されるデミは、「生まれつき想像力がつよく、ものを深く考えるたちなので、両親はそういう特性が、実用的な知識や健康な人づきあいとつりあいがとれるようにと心をくだいた(P30)」せいで、プラムフィールドに移し植えられたのです。

要するに「頭ばっかりでも体ばっかりでもダメ」、年頃の男の子らしく活発に遊ぶこともやりなさい、と色んな男の子たちがいる「ベア学校」に入れられたと。

……なんかちょっと、デミに親近感を覚える頭ばっかりの私(^^;) プラムフィールドに入れてもらえば良かったかな。

典型的いたずら小僧のトミー、食いしん坊のスタッフィ、悪賢いジャック、吃音のあるドリーに、病気で背中の曲がっているディック、高熱の後遺症で“精神薄弱児”になってしまったビリー。

そんな面々のところにやってくる新入りの少年、ナット。

父親と一緒に「流しの音楽家」として暮らしていた彼は父を亡くし、体も弱って一人ぼっちでした。ローリーの紹介でナットがプラムフィールドにやってくるところから、物語は始まります。

男の子たちとの交流、ベア先生とジョーの心遣いで身も心も強くなっていくナット。ヴァイオリンの才もいっそう花開いていきます。

で、そのナットが連れてくる少年ダンが実に魅力的なの! 事実上ダンが主役と言っても過言ではないのでは。

身寄りもなく、新聞を売って生計を立てていたダン。以前彼に親切にしてもらったことがあるナットは、偶然町で彼と再会して、「君もおいでよ」と誘ってしまうんですね。いくらジョーとベア先生が子ども達の教育に情熱を注いでいると言っても、誰でも彼でも受け入れるわけにはいかないわけで、見るからに感じの悪い“不良少年”ダンをひと目見たジョーは

「そうとうなものだわ、これは」 (P122)

と思います。
それでも「とりあえず二~三日いてみなさい」と滞在を許可。(ベア学校は寄宿制で、“通う”のではなくみんな一緒に暮らしています)

ぶっきらぼうで生意気で、時に他の子どもたちを殴り倒す猛々しさを備えたダン。けれどもジョーは、自分の下の息子テディにだけ見せる彼の優しさに気づき、なんとか彼を導いていこうと決心します。

ダンは先生夫妻が自分をすっかり信用しているのではないことを感じとった。それで、けっして夫妻に自分のよい面を見せようとはせず、これでもかこれでもかという態度に出て、できるかぎり先生がたの期待を裏ぎり、片意地な喜びを味わっていた。 (P130)

何度か問題を起こしながらも、「もう一度チャンスをやろう」とするベア夫妻。けれどついにダンは男の子たちに酒とたばこを教え、しかもそのたばこの吸い殻のせいで屋敷が火事になってしまうのです。

あやうく焼け死にかけたトミーとデミ。

さすがにこうなっては優しい先生たちの堪忍袋の緒も切れ、ダンはプラムフィールドを追放されます。とはいえベア先生は彼を「信頼できる人のところ」へやったのですが、そこをもダンは出て行ってしまうのです。

そして行方知れずに……。

ダンのことを「ぼくのダニー」と言って懐いていたテディ。ある日テディが「ダニー!」と声を上げます。窓の外にダンがいたと。ここからの「再会」のくだりがもう、たまらないんですよね。今、この記事を書くためにちょろっと読み返しただけでまたうるうるしてしまう。

反抗しながらも、それでも本心ではプラムフィールドにいたいと思っていたダン。彼のことをずっと気に病んでいたジョー。すぐさま彼を迎え入れ、怪我した足を手当てしてやり、「見つからないうちに町へ行こうと思っていた」と言うダンに、「見つかって困りますか?」と半分からかうように答える。

「見つかって困りますか?」 (P210)

はぁ、いいよねぇ、この応答。
自分も十分にはねっかえりで、色々と苦しんだジョーには、ダンは抑えつけてはいけない子どもなんだってことがわかっている。

「私はね、本能でダンの気持がわかるような気がします。(中略)あの子を助けるということはつまり自分を助けることになりますから」 (P213)

ダンはその後、盗みの罪を着せられたナットを救うために身代わりになったり、『リンバロストの乙女』ばりの博物学への傾倒を見せたりしながら、立派な少年として成長していきます。

『若草物語』でのエイミーの「ライム騒ぎ」も、「学校あるある」がよく描けてるなぁと思ったんですが、このナットの泥棒騒ぎのところも、「こういうことあるよなぁ」と思わされます。教室で何かがなくなって、状況証拠だけで犯人にされてしまう無実の子ども。

「正直に言いなさい」と言われて、クラスの誰も「自分だ」とは言わないし、疑われた子は「正直に」自分ではない、と訴えているのに、先生もクラスメートも信じてくれない。

ベア先生もジョーもとてもいい「先生」だけれどもやっぱり人間、完全無欠ではないから、プラムフィールドに来たばかりの頃、たわいのない嘘をつく癖のあったナットを完全には信じることができない。そしてダンがナットのために「真犯人」を演じた時も、二人は悲しむばかりで、ダンの心の裡までは見通せない。

これ、もし最終的に真犯人が名乗り出なかったらどうなってたんだろ。ダンはまた出ていかざるをえなかったんじゃ。

たとえベア夫妻がナットやダンを信じたとしても、真犯人が現れるまで他の子たちは疑心暗鬼、誰かを「犯人」にしないことには落ち着かないものだし、こういう時ってほんとにねぇ……。

小さい子ども二人が行方不明になるくだりの「行方不明のなり方」も、「ああ、子どもってこうよねぇ」と思えて、オルコットさんの観察用・描写力が光ります。

『秘密の花園』とか『消えた王子』とか『リンバロスト~』とか、子どもが主役のお話にひときわ胸を衝かれてしまうのは、やっぱり年を取ったということなのかしら(^^;)
「親目線」で読んじゃうというよりも、自分が子どもだった頃を思い出すというか、こう、お話の中ではもう一度「子ども」として生きられるみたいな……あ、もしかしてあれか、「年を取って子どもに返る」っていう……。

子どもをひとりしあわせにしてやるのはそんなに手数のかかることではない。それなのに日光やたのしいことでみちているこの世の中に、ものほしそうな顔をして手にはなにももたず淋しい心をした子どもが、ひとりでもいるということは悲しむべきことである。 (P74)

ってくだりとか、

このような信頼と賞賛を得てダンが、どんなに喜んだか、とても筆にはつくせないくらいだった。いまだかつて彼を信用してくれた人間はひとりもいない。彼の中にあるよいところを見つけだしそれをつちかってくれようとしたひともない。世間からなおざりにされ急速に堕落してゆきながらもひとの同情や助けは敏感に感じとるこの少年の胸のおくに、どれだけのものがひそんでいるかと考えてみるひとさえいなかった。 (P353)

というくだりにうるっとしてしまうのよね。うう。


と、ついつい子どもたちばかりに目を引かれてしまうのですが、時折差し挟まれるジョーとローリーのエピソードがまたいいのですよ!

お金持ちのローリーはベア学校の有力な後援者で、子ども達からも「面白いテディおじさん」として慕われています。で、男の子たちに向かってローリー、

「きみ、ぼくがこの学校の一回生だってこと知ってるかい?」 (P239)

なんて言うんですよね。

「ぼくがジョー夫人のおせわになった最初の生徒なのさ。ぼくはわるい子でね、いまだに教育しきれないんだよ。何年も何年もかかってぼくを教育してるんだけどね」 (P240)

うぷぷ。
こんなこと言われてジョーはどうするかっていうと、

ジョー夫人はそういいながら、ひざのところにある黒い巻毛の頭を昔ながらに愛情ふかくなでてやった。いろいろのことはあったが、テディはあいかわらずジョー夫人の生徒だったのである。 (P240)

「頭をなでる」!!!
二人とももうたぶん30歳過ぎてるのに!!!!!
なでなで!よしよし!!!

ただお金を援助するだけでなく、子ども達のために適切な心づかいをしてくれるローリー。その根底には

「ジョー! ぼくは母親のない子どもというものがどんなものか、昔から知っているんです。そしてあなたのおうちのかたたちが、ながいあいだぼくにどんなによくしてくだすったかを忘れるわけにはいかないんですよ」 (P252)

という想いがある。
そうだった、ローリーはお爺さまと二人で暮らしていたんだもんね。お金に不自由はなかったとはいえ、さびしい子ども時代を過ごしていたんだ。

ジョーとローリー、夫婦にはならなかったけど、だからこそのこの関係。恋人や夫婦は別れることもあるけど、家族同然の二人はいつまでも末永くこうしてイチャイチャできるのだわ(あくまでジョー&ローリー推し(笑))。



次はいよいよ最終巻。
プラムフィールドの子ども達がどんなその後を送っているのか……楽しみです。


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